院長 ご挨拶
Ⅰ 略歴
- 北海道立旭川東高校卒
- 東京大学医学部医学科卒
- 同大学病院神経科で研修。
- 医局長を経て、川崎市社会復帰医療センターに奉職。
- 1997年4月 現在地で開業
Ⅱ 精神医療の問題
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内科や外科などの身体科は科学の世界なので、治療は薬や手術などの「技法」を用いることになりますが、精神医療には、あてにできる「技法」はありません。
精神医療は科学の世界ではないからです。
従って、精神医療は「薬で治す」ものではありません。
薬は補助として使うべきものです。
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科学が万能のような響きを持っているので、首をかしげるひともあるかもしれません。
しかし、科学は理屈の世界であり、精神医療は直観の世界です。
禅僧の故・鈴木大拙氏は、「仏教を信じたいが信じ切れない。仏の実在を証明してほしい」というひとに対して、「理屈、理屈といちいちうるさい。仏はそれを信じる者のこころに存在している。直に分かれ」といっております。
鈴木氏が述べていることは精神医療にもいえることです。
「人のこころ」を科学で理解することは不可能です。
「こころ」は自我と無意識界とから成り立っているからです。
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「理解をする」主体は自我です。
その自我は意識を操って対象との関係を紡ぐことで「自己という現象的世界」を現出させます。
それが、「自我は意識することが可能の明るい世界を主宰する」理由ですが、科学は自我が機能するかぎりでの世界で有効であるということでもあります。
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一方、「こころ」には無意識界があります。
無意識界は宇宙的無限が「こころに及んでいる世界」です。
その無意識界は自我の光が届き得ない世界、暗い世界です。
自我が有効な「明るい世界」は人間的理解(科学的理解)が可能であり、「名づけ得る世界」ですが、自我の能力が及ばない「超越的世界」は名づけようがない暗黒の世界、一様の世界です。
人間存在は、無意識界という超越的世界の上に成り立っているので、その理解は直観に頼る以外にありません。
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「名づける」のは自我の仕事です。有限の世界、明るい世界では自我が機能します。その世界には、具体物がいたるところにあるので、名前がないと収拾がつかなくもあります。自我が機能することができるのが、「名づけ得る世界」です。
科学は「自我が機能する」かぎりでの「意識化可能の世界」、「明るい世界」、「名づけ得る世界」で有効です。
我われ人間は、自我と無意識界との全体の上に成り立っています。
従って、精神医療は無意識界をも踏まえて成り立っています。
精神医療では、ひとりの人間、現に存在している「社会的存在」である特定の個人が「対象」になります。
正確にいえば、それらのひとたちは精神科医にとっての「対象」ではなく、「共同存在者」です。
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一般の社会生活では、それぞれの「私」という自己が、「共同存在者」に当たる他者との関係で存立可能です。
ひとりでは生きていけないのが、「社会的存在」である我われ人間です。
自己が存在するためには他者の存在が不可欠です。
「私」である自己の無意識界には「(内なる)他者」が潜んでいます。
それがあって、こころの外界にある現実の他者との呼応関係が成立します。
見知らぬ他者を「直観的に分かる」ということが起こるのは、それがあってのことです。
また、「わたし」が男性であれば、こころの内界(無意識界)に(内なる)異性が潜在しています。
外界にある異性に恋情を覚えるのは、こころの内界の異性が呼応するからです。
恋愛の熱情は、「ふたり合わせて全体」という「全体性への渇望」が、束の間、現実のものとなるからですが、我われ人間には「全体性」へのダイナミズムがこころの底流にある証拠ともいえる現象です。
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我われ人間は、「ことの半分」をしか生きることができないので、「こころの外界」にある他者との関係が不可欠の要請なのです。
我われが日常の社会生活で孤立感に囚われたり、他者たちとの比較で自尊感情の低落感に襲われたりすると、不安に包囲されて自分を見失うことにもなります。
こころの底流には生命的エネルギーが流れています。
それは心身の活動の源泉です。
その「与えられている」生命的、心的エネルギーは天与のものです。
生きていく上で欠かせない安心、楽しみ、有意味の感じ、なんとはなしの希望などを保持することができる根源的理由です。
その生まれ持っている生命的エネルギーの流れが頓挫すると、生にとっての脅威である死がたちはだかることにもなります。
日常行動に問題があれば、生命的エネルギーの流れも渋滞することになるのです。
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人生とは何かといえば、ひとつには、有意味性を紡ぐことであるといえるだろうと思われます。
一般社会で対人関係が無効化すると、人生の無意味感に囚われもします。
そういうときには、御し難い不安に包まれることになり得ます。
その不安、恐怖感の淵源にある死の影がそこに現れるからといえるのです。
生命的エネルギーを意識して、それを途切れさせないような姿勢を保つことが必要です。
いうならば、それは自分への責任であるということも可能です。
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人生とは何かといえば、ひとつには、自我が「意味を紡ぐこと」であるということが可能だろうと思われます。
従って、それが滞ると「無意味感に囚われる」ことにもなるのです。
こころが暗く、不安感がついてまわることにもなれば、無意識下で死に由来する暗い影がこころを支配する動きがあると思うべきです。
生きることは自我が機能していることとパラレルです。
自我が機能しているかぎり、こころは明るく保つことができます。
我われの日常のこころの営為がどういう性格のものかを、真の意味で「知っている」のは、無意識界にある「(内在する)主体」です。
その「主体」は自己自身ともいわれています。
それは、それぞれの「私」の存在理由ともいえるものです。
我われ人間は「自我に拠る社会的存在」です。
その自我が、無意識界に在る「主体」の意向を知っているかどうかが大きな意味を持っています。
現実に、我われは家庭、学校、会社等々の「小社会」に身を置いています。
その「小社会」は相対的社会です。
つまり、私もあなたも似たり寄ったりの世界です。
そうであれば仲良くやればいいものを、競い合い、戦い合い、傷つけあうのが実相です。
先ほどの鈴木大拙氏は、「この相対社会では、どこをむいても喧嘩ばかり」といっております。
その日常的なひそかな闘争によって、誰もが大小の傷をこころに負います。その挙句には自己否定感の虜になるひとも表れます。こころが日常的に暗くなることもあります。それは自我が機能不全化していることを意味しています。
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自我の機能不全が日常的になると、無意識界がその自我を没収することにもなります。それは自我が機能不全化したことに伴って、無意識界が死海の様相を表したことを意味します。
そうした場合、無自覚なままに、無為の日々になっても不思議はありません。
精神医療の背景には、そのような人生上の難問が控えています。
「ひとりで人生を渡る」ことは、原則的に困難です。
いわゆる「引きこもり」はそのことに関係があると思われます。
「ふたり合わせて生きる勇気が生まれる」のが一般です。
一般の社会で孤立化した場合、自我の機能が不全化する可能性があります。
その機能の回復は何をおいても欠かせないことです。
ひとりでは困難なその問題に、我われ精神科医は関与する立場にある、といえます。
Ⅲ 私の履歴書(ブログより)
私は「何ものかになりたい」と思ったことはほとんどない。
精神科医を目指したということもなかった。
元来が「人といたい」よりは「自分といたい」人間だった。
そのせいで、無意味にぼんやり過ごす時間がほとんどだった。
大学2年の教養課程にいて、3年時になると学部を選択する必要があった。
なりたいものがなかったせいもあって、学部選択を迫られる段階で行くところがないのに気がついた。
成績がよければ選択の自由が、まだしもあった。
だが成績不良の身で、たったひとつの選択肢があった。
医学部だけは選抜試験があったのである。
それをやるしかなかった。
それで何とか医学生になったのだが、ただそれだけのことだった。
そんな調子で卒業の年を向かえ、行きたい医局が見当たらなかった。
卒業をして、ある役所に入った。
そこに魅力を感じたわけではなかった。
とりあえず、ということで役人になったが、鉄面皮ないい方になるがただの不良役人だった。初めから3年で辞めると内心で決めていた。
辞表を出すとき、思いがけなく慰留された。
その役所には学閥があり、兵隊が要るからであるのは明白だった。
いずれにしても、決めていたとおりにする以外になかった。
役所を辞めてある精神病院の募集に応じた。
そこを選択したというよりは、取り合えず身を寄せるところが必要だった。
数年、居て、大学病院の一員になった。
精神科医としてやっていくには、そのままではまずいと思った。
大学病院に何年かいた。
ここは自由度が高く、居心地がよかった。
だが、6,7年たって公的な精神科関係の施設に入った。
大学では「上に行く」気がなかったので、場所ふさぎと思ったからだった。
私が入った施設の長は、患者さん思いが強いことで評判のひとだった。
私の乏しい経験だけでいえば、評判どおりということは起こったためしはなかった。
しばらくそこに居て、私は施設の全体を巻き込む騒ぎを起こした。
受け持ちのAという患者さんをめぐってのことだった。
数人のパラメディカルの職員も賛同してくれて、Aさんを施設に近づけないように自宅で支えるという計画だった。
これは、そもそもが困難で現実的ではなかった。
大騒ぎの果てにAさんが問題を起こして、入院させる結末になった。
私はそのまま勤めるような鉄面皮なことはできなかった。
行き場を見失って、医療刑務所に職場を求めた。
そこは入ってみると、意外なほど自由度が高かった。
所長が見識のある人だったこともあり、ずるずると長居をした。
その所長が定年を向かえる時期が来た。
私も身の振り方を考える必要があった。
ふと思いついたのが開業だった。
それまでに開業医というアイデアは浮かんだことがなかった。
そのための資金はなかったので、自宅を処分してそれにあてた。
それ以来、20年余になる。
紆余曲折の人生の中で、この20年は、自分らしく落ち着いた生活ができているように思っている。
私には「社会的な何ものか」である以前に自分自身でありたかった。
そのための自由が必要だった。
精神科開業医という身分になって、思いがけなく、その自由が実感できていると感じている。