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性格形成に与える母親の影響(摂食障害の症例を通して) H14.2.27

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8.終章

性格形成に与える母親の影響-その7(Updated 07/10/06)

■自我の形成 その1
#1 心の指導者(主我と客我)

心が成長するためには指導者が必要です。

心にとっての指導者は、心の内と外に存在しています。

母親がほとんどすべてである乳児期においては,母親は絶対的な指導者の立場にあります。

心の指導者が心の内部に存在せず、外部にのみ存在する乳児期は、乳児と母親とは絶対依存の関係にあります。

それは乳児のみならず、母親もまた乳児に絶対的に依存しているというべきです。

何故なら、そうした状況での母親と乳児の関係は一体のものである上に、そもそも依存というものは、相互的な関係であるからです。

しだいに長じるにつれ、母親のみならず、父親や祖父母などなど、周辺の重要な関わりを持った大人たちが、躾や教育などの指導をします。

それらは外的な指導者です。

そして、それにつれてしだい次第に、心の内部にも指導者が育っていきます。

このように影響力のある他者を取り込みつつ、他者イメージが育成されていくのですが、それを可能とする根拠は自我にあります。

心の中核にある自我の機構には、内的な他者の原基があると思われます。

それが受け皿となって外的な他者と協働し、他者イメージが育成されていくのです。

その内的な他者が、内的な指導者になります。

この内的な他者も自我の構成員ですが、その指導を受け、かつ受けた指導を再構成しておのれ自身のものとする構成員もあり、こちらがいわば真の指導者の立場にあります。

これらの自我の二つの構成員を、それぞれ客我と主我と呼んでおきます。

客我は内的な集合的他者で、主我は自己本来の主張を導くものである、と想定されます。

この関係を画家を例にして図式的に示すと、以下のようになります。

幼いあいだは、心がおもむくままに「お絵描き」を楽しみます。

この場合、幼児の無意識の心から、欲動が生まれてきます。

この欲動を引き受けて、絵を描くという行為に導くのが幼児の自我です。

その自我は、心の自然の要求に従っているので、主我ということになります。

やがて、絵の教師が指導者として現れ、お絵描き(主我による描画)を批評します。

教師の批判的指導を受けて、独りよがりだったことに気がつき、受けた指導に従おうとします。

自我は、この外部にある指導者を心の内部に取り込み、外的な教師がいないときでも、教えられたとおりに絵を描こうとします。

心に取り込んだ、この内的な教師が、客我の構成員になります。

これら心の内外の指導者が、仮に過度に厳しいとしても、画家の名に値するものであれば、主我は常に客我に屈することはありません。

主我は、いかなる場合でも、客我の支配から自由でなければ、「自分の絵」は描けないのです。

従って、おなじ理由から、心の構造が、客我が主我を支配する形になっているのであれば、絵は模写の域を出ることはできません。

一般的な日常の生活では、客我が心を主導していると考えるのが実際的であるといえます。

日常の行動は、いちいち考えながら推し進めるのではなく、パターン化されています。

エネルギー効率の上でも、パターン化されている方が合理的ですし、日常の行動はそれで足りるのです。

仮に、日常の個々の生活で、逐一「独創を意識する」とすると、エネルギーのロスが大きい上に、「個性的」というよりは、「変わった人」の印象を人に与えるだけのことでしょう。

日常は、常に変わらない姿が、周囲の人に安心を与えます。

しかし、こうした客我にいかなる場合でも従っていると、「退屈な人」、「変わった人」、「融通が利かない人」などなどといわれかねません。

当の本人にとっても、マンネリ化した日常では、退屈に悩まされることになるので、主我はそれなりに自由(柔軟)でなければなりません。

だから、「日常の中の非日常」は必要です。

「日常の中の非日常」では、心の柔軟性が問われています。

それは、主我が客我から自由であるという意味を持ちます。

例えていえば、ふだんは「自動運行装置」に任せておき、ここぞというときに「手動」に切り替えるのに、いくらか似ているでしょう。

主我が客我に支配され、自由が極端に束縛されると、人の目が過剰に気になります。

客我は客観的な他者と連動するのです。

客我に支配され、自由を束縛されている主我の下にある心は、自己を評価する基準が抽象的、集合的他者になります。

それは、客観的な外部の他者に認められるかどうかが、自己の存在意義にかかわることになることを意味します。

こういう心の状況では、客我が威嚇的、高圧的になるので、いわば100点を取って当たり前になります。

仮に上司が高圧的であっても、それは具体的で客観的な他者との個別の関係なので、主我が自由であるかぎり心が屈することは滅多にはないでしょう。

しかし、客我が主我を凌駕する心の構造があれば、例え上司が理解のある人であっても、100人もの過酷な上司に囲まれているに等しい気分状態になります。

このような状況では、主我は無意識から立ち上がってくる恐怖に圧倒されます。

いわば恐怖の色眼鏡で外的な他者を見るので、個々人を個別に、客観的に見ることができなくなります。

個々人への対処ではなく、いうならば、周囲の100人が100人ともが恐怖の対象になるので、社会的な役割の全般にわたって、すべての他者から無理難題を押しつけられるのに等しくなります。
(主我が恐怖によって破壊的な影響を受けて機能不全に陥ると、周囲の者に迫害されたり、監視されたりという妄想、幻聴に発展します)

そういう心的状況では、常に100点満点を強迫的(脅迫的ともいえます)に要求されるに等しいことになるので、義務を果たすばかりの、喜びのない、頑張りつづけるしかない日常になります。

こうした状況が長期に渡れば、やがては弾性限界に達したバネのように、心の弾性がくず折れるとしても不思議はありません。

一般に、困難な状況に置かれると、主我の動きが鈍くなり、相対的に客我が心を支配します。

それは、いってみれば、伸るか反るかの分岐点に心が立たされることになり、不安の増大は避けられません。

不安の大素には、恐怖があります。

その状況を越えることができなければ、挫折という心の崩壊が待っています。

それを免れることができない予感が、恐怖をもたらします。

こういう状況では、動きの鈍い主我に対して、客我が威嚇的にもなるので、主我が試練にさらされることになります。

そして、置かれた状況が客観的にも困難なものであれば、主我が客我を凌駕する力強さがもとめられます。

それが力強く発揮されたとき、天才的であるということになるのでしょう。

一方で、発育不全(親の躾けなどに耳を貸さないのが、習い性になっているなどで)の客我と共にある主我の下では、天才気取りの自称芸術家か、いずれにしても独りよがりの人間になります。

この場合は、社会への適応が難しくなります。

主我は、客我の影響を受けつつ、刻々と無意識層から贈られてくる新しい生命(欲動)を引き受けて、行動化する使命を持っています。
(無意識界には二つの層があります。一つは意識化が可能なA層、もう一つは意識化することが不可能なB層で、このB層は大自然が心に及んでいるものです。欲動はB層から贈り出されてきます)

自己に固有の生命的世界は、そのように展開されていきます。

主我は、客我の意向と、このB層から送られてくる新たな生命の誕生(大自然の贈り物)とを引き受ける立場にあるので、両者の意向が矛盾するときに、主我は選択を迫られて葛藤します。

それは、例えば次のようになります。

友達と遊びに行く約束をして帰宅したところ、母親に、「遊んでいないで勉強しなさい」といわれたとすると、母親の意向と客我とが連動し、遊びに行くことの動因として生起している生命とのあいだで、主我は葛藤に苦しみます。

客我が有力で、母親の意向に逆らえないときには、新たに生起した生命は抑圧されます。抑圧されたその生命は、怒りと共にA層に留まります。

しかし、改めて母親の意向を客我の意向と連動させてその意義を認めなおすと、「勉強をする」ことは、新たに主我が引き受けたことになり、自分自身の問題とすることができます。

そして、それに相応してB層から新たな生命が送り出され、主我との協働で勉強をする確かな意志になります。

しかし、母親の意向を理不尽と感じながらも、母親と客我の権勢に押されて盲従するとき、主我は客我の傀儡となり、自分を護れない臆病者になります。

つまり、B層から生起しているもっともな生命の誕生を無視することになりますが、それは母親の意向を理不尽と捉える明確な心が欠落していたのと並行して、主我が自分自身に理不尽なことをすることになります。

主我が、正当にも、生起している生命を護ろうとすると、母親と衝突します。

客我は、それなりに強くなければなりません。

それは主我の独りよがりを補い、社会一般の常識を教えます。

その上で主我が客我に対して自由であるのが健全な心です。

主我と客我が対立し、しかし補い合い、その上で主我が心を主導するとき、心は自立しています。

その母親が気弱であれば、あるいは幼い子の怒りが強く、聞く耳を持とうとしないなどの傾向があれば、客我の育ちがわるくなるかもしれません。

気弱な客我の下では、主我は生起する新たな生命を無批判に受け入れるので、勝手気ままな幼稚な心になります。

その場合は、社会性が怪しいものになり、場当たり的な行動を繰り返すことになるかもしれません。

いずれにしても主我によって抑圧された生命たちは、A層に終結します。

A層に終結している生命たちは、主我に受け止められなかった恨み、虚しさ、寂しさ、悲しみなどなどと、そしてその理不尽さへの怒りと、それらの感情と共にあることになります。

客我に支配された主我の下では、A層の生命たちは、不当に抑圧されたことになり、逆に主我を支配、拘束することにもなります。

それは、治療を要する病的な心の状況です。

A層の生命たちは、いわば、生きる喜びのために生まれてきたものが、「受け取れない。死んでちょうだい」と、主我に拒絶されたものたちに等しいのです。

実際、A層の分身たちは、死の極を目指すことになります(心には、生命の極と死の極との対立があると考えられる合理的理由があります)。

大自然の力と人間の浅知恵との力較べは、本来は比較にならないことであるので、客我が主我を支配しつづけるほどに強大であるときは、心はいかにも不自然な状況になると共に、豊かな人間性から程遠いものになります。

乳幼児の主我が、必要以上に母親との関係を優先させざるを得ない何らかの事情の下に置かれれば、母親との関係を護ろうとしないわけにはいかない(見捨てられないように、母親に盲従しようする)ので、大自然からの贈り物を不当に拒否することになります。

そうしたことが起こりがちであれは、乳幼児は、自縄自縛に陥る途を選んでいるのに等しくなります。

それは、自らを窮地に追いやることになります。
(母親との関係を優先させざるを得ない事情が傾向的に大きくなるのは、次のような場合が考えられます。母親の健康に問題があるとき、父親が家庭を省みない何らかの事情があるとき、両親が不和であるとき、母親の心が未熟、幼稚であるとき、幼い子が過敏であるとき、などなど)

他者との依存関係を存在条件としている人間の心の構造の中心にあるのが自我ですが(唯一の中心ではありません。自己の中で、生命的世界を展開する心の中心です)、この自我を、先に述べたように客我と主我とに分けることは、精神の問題を理解する上で合理的な意味があります。

そして外部に存在する他者と連動する客我と、真の指導者の立場にある主我とが、対立し、補完し合う様相によって、性格のパターンが決まります。

依存は依存であっても、主我と客我とのそれぞれの強さの程度や、両者の相対関係によって、自己の自立性の程度に、違いが出てくるのです。

赤ん坊に最も必要なのは、安心と満足です。その両者は、それぞれが別なものではなく、共にあるものです。

安心がないところに、満足はなく、満足がないところに安心はありません。

そして、赤ん坊は無邪気に育っていくだけのものではなく、大安心と大満足とを母親に要求しつつ育っていくのです。

ということは、赤ん坊は、安心と満足とを脅かされがちであるということです。

赤ん坊は、安心が‘全’でなければ、いわば立命できない気分でいると思われますが、現実にそれが理想的に適えられることはありません。

母親が、赤ん坊に、安心、満足をもたらす役目を持っているのは当然として、何らかの事情で不安感、不満足感を与えてしまうのは避けられません。そういうときに、赤ん坊の疑いに、現実的な理由を示すことになります。

母親は、欠けることのない愛情を注ごうとするよりは、‘全的な存在’ではないことを伝えるのが、むしろ愛情であるのは明らかです。

母親が‘全的な存在’ではないのが明らかだからです。

自立心に欠ける母親の中には、赤ん坊に、「すべてを注ぎたい」と考える場合もあるかもしれません。

そういうときに、甘やかしすぎて赤ん坊の自立性を奪うことになるかもしれません。

それは愛情が大きいのではなく、母親の不安が大きいからに違いありません。

母親自身の満たされていない心を、赤ん坊をいわば利用して満たそうとするに等しいので、実質は愛情に似て非なる自己本位のものといわなければなりません。
(ある境界性人格障害の患者さんは、「母親が欲しいものを全てあたえてくれた。そういうふうにして、子供である自分を支配しようとしてきた」といいます)

良かれ悪しかれ、二心(ふたごころ)を持っているのが人間です。

どんなに優しい母親でも、赤ん坊に注ぐ愛情は、赤ん坊に対するものである一方で、母親自身の利得を無意識のうちに意図するものです。

それは良い、悪いの問題ではなく、人間の特徴であり、事実問題です。

この意味で無私の愛情はあり得ないので、‘全’を要求する赤ん坊に疑惑を与えるのは避け難く、不安、不満足を覚えさせないようにするのは不可能です。

‘全’であってほしいほどに頼りとする母親であるがために、その裏返しとして、母親は大不信の発信源になる理由を持っているのです。

そういう折々に、赤ん坊が、心を震撼させるような大きな恐怖経験に見舞われても不思議はありません。

それが全面依存の身である赤ん坊に不可避な、見捨てられることへの恐怖の意味です。

見捨てられる恐怖は、生死を賭けた恐怖です。

このように見捨てられる恐怖は、人間であるが故の根源的なものであり、あらゆる恐怖の起源です。

それは無意識的な恐怖であり、しばしば得体が知れない恐怖感をもたらします。

いうならば心理的な意味で、見捨てられる恐怖は「諸悪の根源」で、さまざまな、というよりはあらゆる病理的現象を惹起させます。

人前での過度の緊張、過度な明るいふるまい(無意識界にある恐怖、孤独感などを隠すふるまいです)、過食、拒食、買い物、アルコール、ギャンブル、自傷、盗み、等々の依存症などなどをはじめ、すべての精神疾患の根底に、見捨てられる恐怖が潜んでいます。

見捨てられる恐怖は、人間であれば誰であれ、例外なく意識の根底に存在していると考えなければなりませんが、その度合いが強いときに、主我は生きる本能を優先させて、母親を怒らせないように、迎合する戦略に走るのです。それは同時に、自動的にB層から生起してくる(大自然の贈り物である)新たな生命を抑圧することになります。そういう傾向が優勢になると、客我が主我を支配する構造が出来てしまいます。客我に依存する主我は、いわば自由を放擲して、よい子になります。

以上のような事情がありますが、最善の母親とは何かといえば、自然の心を豊かに保っている母親ということになると思います。

それは高学歴であるとか、知能指数が高いとかとは、直接の関係がありません。

むしろ、「頭でっかち」の母親は、自然の心の豊かさに問題があるかもしれません。そういう母親は、赤ん坊に(育児に)専心するのが難しいのではないかと思います。

前者の母親であれば、二心についても、自然に身についた知恵が働くでしょうが、育児に専心できない後者では、関心がそがれている分、知的に理解しようとするでしょう。そういう母親は、当然ながら、赤ん坊の心に敏感になるのが困難だろうと思います。

そういう事情があるので、母親は、自分が赤ん坊に愛情を注ぐのは、赤ん坊が可愛いからだけではなく、赤ん坊の成長によって母親自身が仕合せになりたくもあるからだということを、知っている必要があります。このことに鈍感な母親は、母親自身が無意識界に何らかのコンプレックスを持っているに違いありません。

見捨てられる恐怖は、精神の病理現象を招く元凶といっても過言ではないと思いますが、否定的な性格をしか持っていない、というものでもありません。

肯定的な意味は、まさにこの否定的な意味の隣にあります。

つまり、見捨てられないように、対他的な何らかの行為を試みることによって、他者との関係を計る理由があり、それは必要なことです。

そのことによって他者に認められ、他者に認められることを通じて、自分が自分自身を認めることができ、いつか自己肯定感が育っていきます。

いうならば不足感があるがために、充足をもとめる理由が生じることが可能になるのです。

見捨てられる恐怖は、心のさまざまな病気を招く諸悪の根源であるといういい方をしましたが、その恐怖の存在自体が問題なのではなく、それが過度にわたるときの話です。

先に、自我は心の中心であるが、唯一のものではないと述べました。

もう一つの中心は、B層にあります。

B層は大自然が心におよんでいる領域で、心の無限性を保証するものです。つまり、この層は、全であり、無であるという性格を持っていて、自我(と、それによる有限の世界)はここから生まれ出てきたとも考えられるのですが、いずれにせよ、自我を根底で支える拠り所です。

この層の存在と死(無)の存在とによって、自我の有限性は補完されています。

つまり、そのときどきの志向対象との関係で、そのつどの自己を刻々と超克し、生命的世界を展開する主体である自我は、そのときどきの志向対象との関係にかぎっていえば、有限のものであり、目的に到達するたびに潰えます。それは、そのつど無(死)の無化作用を受けるということです。

一仕事を終えて、その充足感の余韻に浸りつつひと休みしているうちに、虚無の気配が忍び込み、不安に駆られることになります。それは次なる行為を促します。自我が健全な状況にあれば、改めてB層から新たな生命が送り出されてくるので、自我はそれを受け止めて新たな志向対象へ向かうことになります。

そのように自我は、死に由来する無化作用と、B層に由来する大自然から生まれ出てくる生命との、二つの無限性のものとの関係において補完されています。

つまり有限のものである自我は、逐一の行為が(死の別名である)無の無化作用によってそのつど潰え、B層との関係によって、そのつど新たに蘇るのです。

いわば人の心は、日常的に、生まれ、そして死んでいるといっても過言ではありません。例えば、夜が来て眠りに着くのは死と区別がつけにくい面がありますし、健やかな気分で朝を向かえるのは、新たな生命の生起といってもおかしくありません。

結局、自我は有限のものですが、無限性のものである死とB層とによって補完され、いわば「生きているかぎり無限の性格を持っている」ことになります。

死は自我にとって超えることができない壁です。

しかしながら、死は、いま述べたように、生を単に阻むもの、無意味化するものではありません。

生を主宰する自我にとって、死は超克することができない壁である一方、生と死の相容れることのない対立が、希望を生み出す根拠になります。

希望が成立するためには無限性が必要ですが、それを保証するのが死と、B層にあたる無意識界です。

繰り返しになりますが、自我は、生命の誕生(B層からの贈り物)と死との狭間にあって、死の超え得ない壁に挑みつつ、B層からの新たな生命の誕生を受けて、いわば生と死とを日常的に演出していると考えることが可能です。そこには、明瞭に有限のものでありながら、内に無限性をはらんでいるという、自我の特有の性格がうかがえます。

自我は、そのつど何ものかを志向します。

疲れてぼんやりとしているときであっても、自我が放つ光りである意識は、虚空を無意味に漂うのではなく、志向されている何ものかをぼんやりとまさぐっていると考えるべきです。そして、志向され、課題化されている何ごとかを超克したときに、意識はふたたびぼんやりとした状況に置かれます。それは、しかしながら、課題を超克したことへの満足感の余韻と共にあるでしょう。そして、また、しだいに死に由来する無の無化作用を受けて、不安、寂寥、虚無などの感情に悩まされることになります。そのように(死に)挑発されて、次の志向対象へと向かう意志をしだいに明確にしていきます。

そのようにして、「生きているかぎり、可能態としての希望が保証されている」といえるのです。つまり自我による生命世界の展開は、明瞭に有限のものですが、しかしながら、内に無限性を潜ませているといえます。

「生きているかぎり無限性を生きる」というのは論理的に矛盾しているように見えますが、矛盾こそが人間の本質であり、可能態としての「生きる無限性」が生み出される理由です。

生命的世界、有限の現象的世界を主宰するのが自我であるのに相応して、人間の心の内なる大自然の中にも心を主宰するものがあると考える合理的理由があります。

その主宰者を、内在する主体と呼んでおきます。

内在する主体は、心全体の主宰者です。

自我は意味を紡ぎ出す役目を持っていますが、主体は、沈黙のうちに心全体を統括しています。

自我が、沈黙する主体の意向を探り当てる方向で世界を展開できるときに、揺るぎない充足感、「これでよいという安心感」が心全体を覆うでしょう。それが沈黙のうちに存在する主体の答えです。自我の仕事への肯定的評価です。

そのような心は、主我が主導性を確保できている自立的な心です。それはいわば自由な心なので、精神が病理性といえるほどの事態に陥ることは考えられません。

そうした主我の育成には、幼い時代に母親に甘える体験を十分にすることが大きな意味を持ちます。

それは内在する主体からの贈り物を、幼い主我が受け止めている姿だからです。

それは、躾の中心にいる母親が(不当な)介入をせずに、従って客我がいまだ未成熟なので、主我が存分に自分の力を楽しむことができているからです。また、それは、内在する主体との関係が純粋に近い形で営まれているので、それを尊重して見守っている母親の態度に大きな意味があります。そのことは、内在する主体との関係で幼い主我が活動することが、もう一方の主体である母親に是認されている意味を持ちます。それは、即ち、母親の愛と信頼とに他ならず、人間関係一般に重要な意味を持つそれらのものに、基礎を与えることでもあるのです。

以上、述べたように、赤ん坊が置かれている心理的状況を推察することから、人間の精神の重要な問題の一端が、垣間見えるように思われます。

それらを列挙すると,以下のようになります。

嬰児は,全なるものの世界から,全ならざる世界への移行を果たさなければならなかったらしいということが第一の要点です。換言すると,赤ん坊は生まれる以前は,全なる世界の住人であったと仮定されます。

母親に絶対的に依存し、全であることを要求しているらしいということから,逆に、母親が全なるものではない予感を持っていると思われるのが第二の要点です。

何らかの不快感にとらわれているときに示す激しい怒りの表出から、赤ん坊が母親を支配しようとしている様子が窺えます。そのことから,「欠けるものがある存在者」であるが故の不安の脅威から、「満たされている存在者」への移行を、「全なるものである母親」に要求しているという推論が成立するように思われます。そして、それと共に、「欠けるものがある存在者」であることを受け入れる準備をしているらしい、と推論することが可能です。

全ではない者が受ける脅威とは,「欠けるものがある存在者」が、既に部分的に、無の無化作用にさらされていることを示していること、その無化作用が存在の全面におよぶことの予感(死の脅威に直面することに他なりません)から来るのであろうということが第三の要点です。それは、母親に見捨てられる恐怖といい換えることができます。

補足
人間の誕生は、自我の誕生です。自我は生を展開する首座にありますが、生はその裏面に死を併せ持つことによって存在可能です。このことから、自我の誕生は二項対立の世界の誕生といえます。事実、心は、自己と他者、男と女、善と悪、愛と憎しみなどなど、いたるところに二項対立があり、その最奥に生と死の対立があります。
そして、自我が終焉を向かえて自己が無に帰するときに、二項対立の世界である現象的世界という舞台の照明が暗転し、唯一性の世界に入るということができます。

また、例えば、「純粋に白い(あるいは純粋に黒い)」ものは現象的実体としては存在しないが、かぎりなく白に近い黒、(あるいはかぎりなく黒に近い白)」は、現象的実体として存在するといえるので、純粋に白い、あるいは純粋に黒いという全なるもの、あるいは無なるものは、単に概念的に存在するだけではなく、現象的実体の内部に含まれている」といえます。

いずれにしても、現象的世界の諸問題を合理的に理解しようとすると、人間的な理解の範疇を超えた超現象的世界のことどもが視界に入ってきます。現象的世界が有限のものであるといっても、内に無限性の性格をも含み持っているので、両者を截然と区分することはできません。従って、超現象的性格のものについても命名し、概念化する必要が出てきます。それは実証性を持たないので、何らかの仮説を設ける以外にはありません。その仮説の作業は、現象的世界についての概念を援用し、かつ命名する以外には方法がありません。

嬰児は母親に「全であること」を要求しつつ,そうではない予感を現実のものとして受け入れていく必要があります。それは全という「満たされている存在者」、あるいは自己完結態ではないという現実を承認することに他なりませんが、そういうことが可能となるためには、それに準じる存在形態を不可欠の要点としているといえます。現実を受け入れるとは、全をあきらめ、不十全に甘んじる心になることに他なりません。

つまり個としての存在であるそれぞれの自己は,「欠けるものがある存在者」として、他者との依存関係を欠かせない要件としています。それによって、他者との望ましい関係が得られれば、「満たされている存在者」に準じること、つまり不十全に甘んじる心になる基礎を得ます。また、更には無限性を帯びた人生を歩みつつ、自己の発展的達成に向かうことを通じて、「満たされている存在者」に限りなく近づくことができます。そのように、「満たされている」心そのものに到達することはできないが、そこへかぎりなく近づくことに甘んじることが、有限の「欠けるものがある存在者」の分であるといえます。そして有限の「欠けるものがある存在者」であるが故に、限りなく有限性を越え、無限性に近づこうとすることが可能であり、そのような意味で人間は無限性を生きているといえます。

自己がそれ自体で完結しているのではなく、いわば自己と他者とに分裂している「欠けるものがある存在者」であって、それが改めて自己と他者との合体によって、「満たされている存在者」に準じるものとなることが可能であるための前提条件は、他者を予め自己の構造(その原基である自我の機構)の内部に含んでいることです。つまり、他者は自己の外部に客観的に存在すると同時に、自己の内部に主観的に存在することによって、自己は他者との関係性において、「満たされている存在者」に近づくことができるのです。恋愛と、それに伴う熱情とは、「満たされている存在者」であることが現実に適えられることはないものの、いわば瞬間的に類体験していると考えることができ、従ってそれは、人間存在がその可能態を内に含んでいることを証明していると考えることができます。

母親とのかかわりを通じて,乳児は自分の幻想的な欲求(生後2ヶ月ほどになると,母子一体の感覚が乳児に芽生えます。その時期,乳児の母親への愛情欲求は絶対的なものであるといわれます)が満たされたり,満たされなかったりしながら,しだいに自分とは別個の他者が存在することを知っていきます。

現実の母親は,乳児がもとめるような絶対的な存在ではないので,乳児の幻想は,始終やむを得ず破られないわけにはいきません。幻想が破られたときに味わう乳児の苦痛は,大変なもののようです。そういうときにはどんなに愛情深い母親も,悪い存在として激しい攻撃を向けられます。ある時期には,乳児はあらゆる人や物を我が物にしようと攻撃的になるのです。場合によっては、悪鬼に殺されるとでも感じるかのように激しく泣き叫ぶことも起こります。そのようにしてしだいに現実を受け入れていくのですが,その過程では激しい苦痛と恐怖を経験しないではすまないということなのでしょう。

この人は本当に自分を守る力を持っているのか,持っているとしても,自分にその力を与える気があるのかといった猜疑や疑惑の(認識ではなく感じ取る)虜になるときに,乳児の全能欲求が反転して,母親は悪いものをもたらす張本人に見え,欲求が満たされたときには,母親は願わしいものを具現する者になって見えるようです。人生の最早期のある時期までは、母親は、そのように良い母親と悪い母親とに分裂した別種の者として存在し、良い母親だけが母親であるという全能欲求が護られます。そしてやがては良い者も悪い者も,おなじ一人の母親として,統合的に捉えていくことができるようになります。絶対者ではない母親は,一貫し,安定した愛情を示しつづけることで,乳児が現実を受け入れていけるように手助けをしてあげなければなりません。

この世に生を受け,自己を形成していくにあたり,人は人生の入り口の段階で最初の,そして最大の関門に直面します。すでに容易ではない試練にさらされているといえます。母親の胎内で安らいでいるある時期までは,胎児は自然と一体です。それが誕生という形で自然から乖離され,自分の力で生きていく使命を負わされたのが人間です。その人間に,人生という難路を旅するために授けられた武器が,自我といわれているものです。自然から乖離されて,人間として人生を旅する第一歩が,どれほど不安に満ちたものか,いうまでもないことです。激しい不安や恐怖や怒りの渦をはらんだ闇夜の中に,人生の黎明が訪れます。自分の力でこの世を生きていく喜び,希望もしだいに芽生えていくことになります。

人生がどれほど過酷なものであるか,たとえばソクラテスが次のような趣旨で述べています。死刑の宣告を受け入れる心境の一端を語った言葉です。

「死は深い眠りと区別をつけ難く,深い眠りに勝る安らかな経験がはたしてあるだろうか」と。

この言葉は,人生に懐疑的というのではなく,死の否定的な意味をもういちど否定しているのだと思いますが,人類の教師ともいわれるソクラテスが,生きることの困難を語っているのが興味深いことです。

生まれる間もなく,過酷な苦痛が待ち構えている宿命のもとにあるのが人間です。それを耐え抜くためには,母親の安定した豊かな愛情による養育が不可欠です。

逆にそこに問題があれば,人生の第一歩にして,将来の多難が早くも予測されるといっても過言ではないでしょう。

人生は一幕の芝居であるといわれることがありますが,このたとえでいえば,人生の早期に台本を書き,演出するのは父親と母親です。そこには両親の願い,考え,感情,価値観などが込められています。成長するにつれ,両親以外の人が意図せずに台本に別の筋を書き加えます。そうした経験を重ね,両親が書いた台本や演出に疑問を持つようになります。そして,やがては自分の手で自分のために台本を書いてみたいと思うようになります。人生を自分の演出のもとにしたがえたいと考えるようになります。これは自然な願いです。

幼い心で考えたことですから,未熟なのは仕方がありません。両親の愛情のあり方に問題がなければ,幼い我が子の未熟な主張を成長の証ととらえ,その主張の中に無視してはならないものがあるのを見逃さないと思います。そういう余裕があれば,ひきつづき子供を正しく指導することができますし,実際にまだまだ指導が必要なのです。自分の手で台本を書きたい,演出したいという意識の芽生えは大切なことなので,それを育てるのは両親の重要な課題です。

心の指導者が,他者から自己自身へと移行する過程では反抗は必至であり,なくてはならないものです。

#2 自律機能と抑圧機能

幼く,未熟な自我の代行を母親が中心となってするに当たり,第一に重要なのは、幼ない自我の自律機能を護ることです。それは乳幼児の感情をコントロールするのではなく、感情を全面的に許容する心の姿勢を貫くことによって得られます。それにつづいて指示や禁止など、感情をコントロールすることで躾をすることになりますが、それは自我の抑圧機能に働きかけることを意味します。

「自我の自律機能」の提唱者であるハルトマンは,この機能を,「自我という生物学的ー心理学的構造体が,超自我,無意識,外界などとの相互的な葛藤,関係性から自由であるべく保証されている」という意味で用いています。

また抑圧機能は,フロイトによれば,例えば生物学的な本能のほしいままに任せるわけにはいかないため,などといった自己の防衛策ということになります。

ここではそれらのことをふまえた上で,自律機能を,生の欲動(フロイト)の一切を意識にもたらすものという意味で用いています。そして抑圧機能は,他者への配慮の無意識的態度という意味で用いています。

一例を上げると以下のとおりです。

欲しい物を獲得するのは,自律機能によります。他人の所有になるものを,欲しくても我慢するのは,抑圧機能によります。

従って,自律機能はより生得的であり,抑圧機能は後天的です。後者は,人間存在が他者との関係を必須のものとしていることと密接な関連があり、本能的、欲動的なものとのあいだを調整する役割を担っています。抑圧機能の発動は,他者への配慮,社会性の尊重という意味を持っているのです。従って、躾は抑圧機能の発動を促すことになりますので、たとえば母親が神経質で、注意を与えることが必要以上に多くなると、幼児は、却って身勝手な行動に走ったり、抑制的になって子供らしくなくなったりします。母親は、幼い子には十分に甘えさせることが重要です。それは、幼児が無意識の心の泉から湧き出てくる力を体験していることの邪魔をしない、という意味を持つからです。そしてそれは、幼児が母親に認められている、必要とされている、愛されているという肯定的な感情を育てていく上で重要な意味があります。

心の無意識層から生まれてくる欲動群は、すべて生命的なエネルギーを蓄えています。あらゆる行動は、これらの欲動に促されて可能になります。あらゆる行動には対象があり、これらの欲動は、目的とする対象をおのれのものとして関係づける動因になります。対象を自己化して所有し、それとの関係をいわば傘の骨として、自己の世界を発達させていきます。対象となるものが人の場合は、欲動は愛という性状になります。対象となるのが自己自身であれば、自己愛ということになります。自己愛というものが存在していることが、愛の性状を持つ欲動が自分の心の内部から生起し、自分の心の内部のどこか外的なものへ向かうことを示しています。自己は自己自身との関係でもあるのです。

これらの欲動群がどこから生起してくるのかは謎です。無意識層からには違いありませんが、それは、心の内部にあって我われには理解し得ないところから、という意味になります。従ってそれを生み出し、意識へともたらすものは、人間が意識できる範疇を超えているものによって、というしかありません。

人間であることの証明は、自我にあるといえます。人間は自我に拠って、自己を発展的に展開していくと考えることができます。では、この自我を授与したものは何かということになりますが、それもまた、解き得ない謎です。しかし自我を授与したものと、生命的である欲動を送り出すものとの主体者は同一であると考えるのは、精神の諸現象を統合的に考える上で有意味です。欲動群は生命の源であり、自我は生命を司るものです。欲動群は、自我の自律機能に即して生起し、それを受けて自我は、改めて抑圧機能によって他者との関係に配慮します。自我は、両者を調節し、統合する首座となるものです。

欲動群を送り出すものと、自我を授与したものを、ここでは内在する主体と呼んでおきます。それは自我の拠り所であり、心全体の首座をなすものです。

つまり自我は個々の自己の首座となるものであり、内在する主体は個々の自我の拠り所であると同時に、個々の人間存在を超えた普遍的なものです。それは心の内における無限性を保証するもので、全でもあり無でもあるという性格のものです。

自我の自律機能は,内在する主体との関係性において,欲動群が主体から送り出されてくることに直接関わるものであるのに対して,抑圧機能は多かれ少なかれ(意識的にか無意識的にか)自我の判断機能と密接な関係があります。

自我が自由で自立していれば,状況に応じた適切な判断が可能なので,自己を適切に護り,他者との関係も適切に護るために抑圧機能を発動させることができます。

しかし後の項で述べるように,集合的他者に従属させられている自我の下では,他者への配慮が優先されるので,過剰に抑圧機能を発動させることになります。言葉を換えれば,不当に自律機能を抑圧し,自己を護り,発展させる上で好ましくない心的状況が生まれます。

このような意味で,自律機能よりも抑圧機能の方が強力であるかぎりにおいて,自己は発展的であるよりは閉塞的になります。

心的状況がそのままに置かれると,自己の展開は困難になるので,自己否定の方向に傾くことになると思います。

再びそうした心の閉塞状況を打破するためには,心理的な治療の介入か,あるいは自律機能が自ずから発奮して巻き返しにかかるかすることが必要です。

結局,自我の抑圧機能の本来の役目は,自律機能を護ることにあります。

自律機能は動物一般に通じる自然のものですが,抑圧機能は人間に固有のものです。精神性と社会性とを要求されている人間は,他者の存在を尊重する上で自律機能がもたらしたものに修正を加える必要があります。

動物的な自然の要求と他者への配慮とを理想的に統合するのが,それぞれのあるべき自己の実現であると集約的にいえると思います。

自我はこの二つの主軸の機能を活動させるにあたり,思考,判断等の知性的な機能を駆使することになり,それらが精神性を自己にもたらすことになります。

他者との関係はすこぶる重要であり,取り分け原初の他者である母親は,乳幼児期には絶対依存の対象になるので,特別に重要な他者といえます。母親への絶対依存の関係にある自我の未成熟な時代の乳幼児は,客観世界の展開がまだ始まっていないので,まったくのイメージの世界の住人です。とはいえ客観世界の展開がそれとなくは予感されていないはずはなく,それを勘案すれば母親は絶対者であるのではなく,絶対者であることの要求であり,願望であると考えるべきです。

乳幼児の幻想的絶対者である母親が,実はそうではないかもしれないという予感は,受け入れ難い不安を伴うのではないかと推測されます。

赤ん坊が置かれている心的状況には,絶対性と非絶対性とのあいだの埋めることが出来ない懸隔が避け難く存在しています。その奈落への転落を免れるには,依存の対象である母親が,幻想としてであれ絶対者である必要があります。

この克服不能の懸隔が,赤ん坊をどうしても脅かします。その恐怖は,母親が絶対者ではないかもしれないという疑いがあってこそ生まれるでしょう。

その疑いは,母親が自分を見捨てるかもしれないという恐怖に直結するでしょう。それは,生死のかかった恐怖です。従って人間の根源にある恐怖です。そして,また,他者への不信の起源をなすものでもあると考えられます。

人はよりよく自分である以前に,自己の保全をはかる必要があります。

成人してからは,場合によっては両者の関係が逆転することもあるでしょう。

「肉体の自由は奪われても,精神の自由は渡さない」とか,「身体への拷問より精神的な拷問の方が耐えがたい」とかいわれます。

作家のドストエフスキーは著作の中で,労役刑の苦痛の中でも,Aの場所にある土砂の山をBに運び,再びAに戻し,果てしなくAからBへ,BからAへと無益に移動させつづける刑罰ほど耐え難いものはなかったと述べております。

しかしながら親の保護の下にある年齢では,精神よりも身体の保全の方が優先されて当然です。

そのような意味から,見捨てられる恐怖は,幼い子にとっては精神の問題というより全存在に関わる問題なので,親を怒らせないために自我の抑圧機能を活性化させる,強力な意味を持っていると思われます。

従って,しばしば抑圧機能は自律機能に優先するのです。

しかし「角を矯めて牛を殺す」の喩えのように,抑圧機能が自律機能を護るという本来の使命を超えてそれに優先するのが習いとなると,自己の発展はさまざまに阻害されます。

いずれにしても自律機能が健全に発展していける心の状況にならなければ,人生は「強いられた山登り」になります。

人生は無際限に高く,深い山を登るのに似ています。その時々に遭遇する人生の難所は,いわばその時々の難路です。その都度その難所を切り抜けることに山登りの喜び,希望があるように,置かれた状況がいかに困難であれ,そこに希望の光りの筋を見出して,その状況を克服していくところに人生の喜びがあります。そしてその中心に自我の自律性があります。

希望のない山登りは無意味です。自ら意志してはじめた山登りであれば,必ずそこに希望を見ているはずです。

人生という山登りは,自ら意志して開始されるわけではありません。その意味では強いられたものといっても過言ではないでしょう。

それを改めて自ら意志して,というふうな主体者意識を,まずは母親,そして父親が導き出すべく育てる必要があります。

何事も最初が肝心です。大人びた幼児のように,早すぎる社会性はむしろ弊害があります。抑圧機能を早々と活動させる以前に,努めて好きなようにさせておく(自律機能の発露を喜び,自己の力を知る)ことが,親の愛情というものです。それが十分であれば,この世も捨てたものではないという重要な意味を持ったウォーミングアップになります。

比喩的に登山と希望との関係を人生に当てはめてみると,次のようになります。

エベレストはいかに高い山であっても,それが客観世界のものであるかぎり,征服してしまえばそこで希望は潰えることになります。

その対比でいえば,人生の高山には限りがありません。つまり人生の山登りの山は,客観的ー主観的という性格を持っています。

この主観的性格には無限性があります。つまりこの山は,ここでお仕舞いという終点がありません。

「強いられた山登り」は希望のない山登りです。これほど虚しいものはなく,どこかで絶望するに決まっています。

子供のうちは親に認められ,褒められるという喜び,楽しみがあるので,「強いられた山登り」であっても,我慢をする理由があります。

しかし長じるにつれて,「強いる者」が外なる他者ではなく,内なる他者である集合的他者となると,自律機能が抑圧されつづけるので,人生という山登りは希望のない,強いられたものになります。それは,棒の先に括りつけられた鼻先の人参を追いかける馬のたとえに,どこか似ています。そこにも希望があるといえばあるのでしょうが。

フロイトはその欲動理論において,生と死の二大欲動の存在を仮定しています。生に関しては,その根源的な欲動の存在はうなずけるものです。しかし死については欲動といえるものかに疑問があります。

場合によっては死の衝動が存在しているのは厳然とした事実です。精神科医であれば,誰でも知っていることです。しかしそれが生への欲求とおなじレベルで,対抗的な欲求であることを意味するかどうかは別問題です。

死の衝動は一義的なものではなく,生への欲求が挫折したときに表面化する二義的なものとしては是認できます。

生へのエネルギーは,プラトンが述べているエロス的(身体的なレベルから高度に精神的なレベルにいたるもの)なものであり,それがすなわち生の欲動という大河に即していると考えられます。

別の箇所で述べた「表の自我」は,この生の大河の首座にあるものと考えることができます。従ってここでいう自我の自律機能は,この大河に即して機能する方向性を持っており,内発的であるが故にエネルギーを抱え持っている,といい換えることができます。

生の欲動というのは無目的に無闇に何らかの欲動が生起してくるというものではなく,一定の方向性があると考えるのが合理的です。

その方向性とは,心全体の主体(内在する主体)と生の大河の主体である自我とを軸にして,内在する主体が自我に向けて欲動を送り出してくるといったもので,それがここでいう自我の自律性です。

それは内発的で,心の自然な発露といえるもので,つまり生(エロス)のエネルギーをもたらすものです。

動物には一般に,このような内発的なエネルギーの発露があると考えられますが,人間には,この心の自然な発露に’待ったをかける’抑圧機能が備わっているのが動物一般と違うところです。

本能に従う動物の場合は,例えば縄張りを守るために生死をかけて戦うところを,人間は自我に内属する抑圧機能によって,他者の立場を配慮,尊重するのです。

繰り返し述べていることですが,人間の証明は自我にあります。人間には社会性と精神性とがあり,それらの根拠が自律機能と抑圧機能とにあり,それらが適正に運用されることで適正な自己の展開が可能となります。

動物一般は,いわば自然そのものを生きているのに対して,人間は自我によって,自然そのものを生きつつも,しかしながら自然から乖離している存在であるという特徴を持っています。

それは人間には克服不能の矛盾ですが,人間がその存在の根本において,あるいは存在構造として,そうした矛盾を抱え持っていることが特徴であり,それが人生の苦悩と希望との源泉でもあります。

このように,自我が生の有限の世界の主宰者でありながら,自我機構が存在する由来が自我を超えたもの,つまり無限の世界のものという性格でもあるということは,人間の存在構造は,「有限であり,しかしながら無限性の性格をも合わせ持っているという矛盾を内包させている」ということになります。

人間が,この甚だしく錯綜し,解き難い世界の住人であることが,人生のさ中で迷子のようになったり,絶望したり,希望を見出したりする理由です。

人生は希望に満ちているといえば安易すぎるいい方でしょうが,「人生は克服不能の高さと深さとを持つ山に登るようなものである。だからこそ希望は常にあり得る」というのは真実ではないでしょうか。

身近にいるかけがえのない人の死は,痛恨の極みでしょう。

我われ人間への要求,「いかに生きるか?」という問いは,しかしながらこのような状況でさえ,「そこから希望の光を見出せ」と要求しているように見えます。その難問の前に生きる希望を見出せないでいるのはもっともであるとしても,「立ちはだかる目前の絶壁」を登らないわけにはいかないのが人生です。

それは,「いまは無理だが,そのうちに登ってみせる」ということになるのでしょう。そう考えるとき,既にかすかであっても希望が見えているはずです。そして,’そのうち’がやって来たときには,そそり立っていた絶壁は,より穏やかな勾配に変わっているに違いありません。

究極の課題は,「死について希望を見出す」ということになるのかもしれません。生を生きる人間には,死は最大の難問です。死はすべてを無意味化しかねないものです。しかし,いま述べたように,この解き難い問いがあるからこそ,可能態としての希望の光が絶えることがないというのは確かでしょう。

人間が自我によって自然から乖離し,独自の途を進む宿命の下にありながら,自然に内包されたものでもあるために,自然の無化作用の脅威を受けています。

自我が自己の展開の主宰者であることは,他者との関係を不可欠のものとすることで成り立っているのは,その脅威に対抗する意味があると思われます。

抑圧機能は,エロス的エネルギーの源泉である自律機能の発動を抑圧します。それは「生のエネルギー」を「死のエネルギー」に変換する意味を持ちます。

他者との関係を不可欠の前提としている自己の存在は,こうしたエネルギーの変換を避けることができません。

変換されたエネルギーは,喜び,満足をもたらすものから,怒りをもたらすものになります。

死の衝動は,内向した怒りのをエネルギーの強さを物語っています。

自我は二分化して機能し,そのように現象を形成します。

自律と抑圧もその一つです。

自我によって,人生は喜びを追求します。しかし,怒りを背後に隠し持たない喜びはありません。

前章で取り上げた小学校2年の男子の例です。

少年は,はきはきと物をいい,素直な性格の子です。その年頃らしい可愛さも持っています。

少年にはチックがあります。通学路で,怖い男になにかされるのではないかという恐怖があります。学校は友達がたくさんいるし,楽しいそうです。しかしこのごろ学校に行きたくないといいます。不意に胸のあたりがもやもやして気持ちが悪くなるからです。

父親は職人です。野球が上手です。そういう父親をかっこいいと思っています。将来は父親とおなじ仕事もしたいが,それよりも整体士になりたいそうです。父親や母親の身体を楽にさせてやりたいのです。少年も野球チームに入っています。もと父親が入っていたのとおなじチームです。「君は親孝行をしたい,よい子なんだね」というと,「そうだよ,よい子なんだよ」と答えます。しかしよい子の心の底には,それとは矛盾した激しいものが渦巻いています。

最近見たという次の夢がそれを物語っています。

人間がロボットを作っている。うまくいかなくて爆発しそう。怖いので逃げた。

父親は,「別に怖くないじゃないか」といったそうですが,少年には怖い夢でした。

ロボットにされそうなのは少年自身です。ロボットに仕立てようとしているのは両親でしょう。爆発しかねないほどの怒りがたまっているようです。爆発するのは少年にとっては,勿論恐ろしいことです。大好きな父親や母親をひどい目に合わせてしまうからですし,どんな反撃をされるかも分かりません。自分の心が破壊されてしまう恐怖もあります。

少年には1歳の弟がいます。可愛い弟だよと彼はいいます。その言葉に嘘はありません。彼は大変素直で,率直な性格に見えるのです。当然のことながら,母親は弟にかかり切りです。弟が寝ると,「起きると困るから,外に行ってなさい」といわれます。祖父母が近くに住んでいて,「泊まりに行ってきなさい」といわれることがあります。それをいわれると不安になります。学校に行きたくないと言い出したのも,母親の姿を見ていないと不安にかられるからでもあるようです。

この不安は,少年の年齢からすると理解し難いものです。客観的に見て,母親が少年を捨ててしまうことは考えられません。少年にもそれは分かっています。

そうすると母親の側に絶えずいなければ,母親が自分の前から姿を消す(捨てる)のではないかという不安は,心理的なものに違いありません。ということは,少年は,無意識的な心によって脅かされていると考えてよいでしょう。つまり想起できないほどに強い恐怖体験があったか,あるいは記憶をたどるのが不可能な早期(誕生後,自我の活動が未成熟な時期)に,何らかの恐怖をもたらすエピソ-ドがあったかということになると思います。

見捨てられる恐怖に怯える少年の自我は,自分の意志を押さえてでも,両親に忠実な子になりなさいというイメージの支配を受けています。それに伴って,親孝行をするよい子でなければ,愛される資格もないし,価値を認められることもないという恐怖心にかられているようです。

少年が求めているのは,分け隔てのない安定した愛情です。両親の思いはともかく,チック等の”症状”は,少年の心の沼から立ち上がってくる叫びでもあるのです。少年の自我が両親の支配から脱するためには,夢に現われている爆発しそうな怒りに,言葉を与えることができるようにならなければなりません。それを助けるのが治療者です。治療者の介入と援助がなければ困難な心の作業です。そして,また,子供の幼さを考えると,それは両親,とりわけ母親の協力なくしては難しいテーマです。

幼い子なので女性カウンセラーにも協力してもらうことになり,診療が開始されました。本人に起こっていると思われることを母親に説明し,今後の方針を伝えました。母親は涙ながらに,「私が怒りすぎたものですから・・・」と問題を受け止めてくれました。

5回ほど面接を重ねたところで,母親の伝言が入りました。子供の習い事の関係で,次回の予約は取り消したい,また連絡するということでした。相談ではなく通告です。母親の不信を買ったとは思えない状況です。カウンセラーは50分ほどの時間を空けて待っているのですが,あまりにもあっさりしています。習い事以上に重要視してもらえなかったのは残念です。母親のセンスに不安を覚えることでもあります。子供はその母親の指導を受けなければならず,現に指導のまずさが,大きな怒りを蓄積させ,恐怖の虜にさせてしまっているのが問題なのです。特別な事情があるのかもしれませんが,この子が心を回復させるまで,母親が忍耐強く診療に協力できるのか,気になります。

この母親の場合はともかく,一般的に,親の”ちょっとした”配慮の欠落,子供の心への鈍感などが積み重なって,子供の自我の形成によからぬ影響を与えるのは論を待たないでしょう。そういうことが起こるのは,親の側の盲点でもあると思います。自然な心でさえいれば,どんな親にでも気がついて訂正する機会はいくらでもあるだろうと思います。それを考えると,親の側の盲点が意味するものは,恐らく親自身が,自然な自我の形成を歪められた生育過程の下にあったということだろうと思います。その影響で硬直した自我が,哀しみと怒りをたたえて,子供に対して独善的な構えを取るのです。それは当然,固執的になり,優しさとは無縁のものになるでしょう。親自身がその親から蒙ってきた有形無形の被害的なものを背景に,子を相手に復讐をしている趣さえどこか感じ取られる場合もあります。自分が不幸だったという思いがあれば,子供の幸福を無条件に望むのが,しばしば難しくなります。子の側でいえば,意識するかしないかは別としても,当然,不満,怒りがたまる理由になり,その処理に苦しむことになるのです。

まことに人は人によって,自然の心から遠ざけられるのです。

このように見てくると,少年の自我の形成は相当に歪められていると考えざるを得ないと思います。

集約していえば,親との関係で少年は,見捨てられる恐怖に支配されています。そのために少年の自我は抑圧機能を過度に作動させつづけるしかありません。それに伴い潜行する怒りのエネルギーが勢力を強めていきます。自我はそのために自縄自縛に陥る一方です。

母(父)と子の関係は,特に子供が幼いほど,同盟関係にある強国(P)と弱小国(S)のそれに似ています。

PとSは同盟を結んでその他の国(H)と外交交渉をし,あるいは戦います。そのかぎりでSにとってPは心強い存在です。

しかしPとSは対等ではありません。Pがよほど大らかであっても,自国の利益を優先させるのは自明でしょう。

このことに先ほどの用語を当てはめていえば,PとSとの自律機能と抑圧機能の関係は,Pは前者に偏り,Sは後者に偏ることになります。

P国の安定はS国の犠牲の上に成り立っているのだが,S国の安定のためにはP国の力を必要としているので,国王は自国が不利益を蒙っているとは考えない・・・S国は国民の不満を黙らせることでP国との友好を維持できる・・・不利益を蒙っているのを知っているのは,S国の市民たち(C)である等々ということになります。。

事例の少年にこれを当てはめると,S国王は少年の自我,P国は母(父)親で。S国王は善政を敷きたいと願いつつ,P国に従わなければ国が成り立たないので,涙を飲んで不満分子であるCたち(自律機能によるもの)を地下牢に幽閉(抑圧機能による)しているということになります。

横暴なPに依存するSは,国王として自立的でないので,意識の地下から突き上げてくるCの抗議の気配に脅かされ,ますますPに取りすがろうとします。Pはそれを疎ましく思い,Pは見捨てられまいとして更に取りすがろうとします。

Cの怒りは,無力な国王のために国づくりが怪しくされているS国を破壊しかねない(ロボットが爆発する)ほどですし,S国王を恐怖で痙攣させてもいる(チック)と考えることができます。また,無力な国王を捕捉する(暴漢に襲われ,拉致される恐怖)たくらみもあるようです。そしてその怒りをP国に察知されると見放される,という恐怖(母親の側を離れることができない)も強いようです。

#3 内なる他者

自己の存在にとって,他者の存在は欠かせない構成要件です。

それは自己の存在構造の内に他者が含まれていることを示しています。そしてそのことは,自己と他者はそれぞれに独立しつつ,相互に絶対依存の関係にもあることを意味しています。

精神医学は,人間関係の学であるといわれることがあるように,人間関係は重要です。それぞれの自己が他者と絶対依存の関係にあることは,ほぼ必然的に利害の上で矛盾,葛藤が生じる理由になります。

他者の存在は有り難く,多大の恩恵を受ける一方で,少なからず迷惑で,不利益を蒙ることになるのです。従って対人関係は,しばしば人を大いに悩ませ,時によっては心の病理現象を惹き起こす要因にもなります。

それらのことは,以上に述べた理由,自我に拠る人間に特有の解き難い矛盾に起因するといえます。

結論的にいえばこのように考えることができますが,しかしながら,人間嫌いや,孤独を好むもの,ジャングルに置き去りにされた旧兵士,動物に育てられた子供などなど,いわゆる人間関係と無縁に等しい境遇で生活している人もないわけではありません。

また例えば人と猫や犬との関係,あるいは猫同士,犬同士の関係,あるいは未知の異星人と遭遇したとしてそれとの関係などなどは,人間同士の関係と質的な相違はあるのかといった問題があるかと思います。

人間の証明は自我にあると述べましたが,犬や猫,あるいはチンパンジーに,自我に類するものはないのかという問いもあって当然でしょう。

ある女性(A)は,「ニュースなどの報道で,人が殺されたと見聞きしても何とも思わないが,動物が虐待されたときは許せない気持ちになる」といいます。

このことは人間には二心があるが,動物にはないことに関連しています。その意味では動物は純粋であり,悪の性格を持たない(罪がない)のです。

これを敷衍すると,悪は善と裏表の関係にあり,つまり自我に拠る人間の二心の問題であるということになります。

自己と他者とが絶対依存の関係にあるということは,心が二分割されていることに通じます。

つまり自己が存在するためには他者の存在が不可欠であるということは,男と女,愛と憎しみ,善と悪,正義と不義,表と裏,本音と建前,全と無,生と死等々とおなじように,全一なるものを自我が二分割して捉えるということを示しております。それが自我の一大特徴なのです。

Aさんは母親と二人で暮らしていますが,母親は重い悩みを持っているAさんに関心を示しません。人間関係に疲れ果てるAさんは,かつては職場に向かうのが容易なことではありませんでした。しかし仕事をしないでいると,母親は冷淡な態度になります。誰それとのことでの悩みを聞いて欲しくても,相手方の立場でAさんが批判されます。

そういう母親に対して,Aさんも批判的ないい方になりがちでした。

しかし,あるときAさんが母親を行楽地に誘い,そのときの様子を報告するAさんの表情には,ふだんは見せない明るさがありました。

その様子から,母親への日ごろの怒りは,Aさんが母親に認められたい,愛されたい心と裏腹の関係にあるのが分かります。

Aさんは乗馬の練習をしています。「馬さんに会いに行く」のは,何よりの楽しみです。

Aさんにとって,母親と馬とのそれぞれの関係の違いは,といえば奇妙な比較ともいえますが,結論的にいえば,前者には二心があり後者にはそれがないことといえます。

それを前提にいえば,Aさんが人間を憎むのは,人間(自己および他者)を愛したいがためであり,他者から愛されたいがためであると結論づけられるでしょう。また人間への正義の要求が満たされていないために,人間の悪に過敏であるともいえます。

一方,動物との関係では,動物には二心がないので,彼らを愛らしいと感じる心は純一であり,人間を襲う熊は悪ではないのです。むしろ熊を怒らせた人間の方に悪があることになります。

この比較から,自己と他者との関係と,人と動物との関係とのあいだには,決定的な違いがあるのは明らかです。

Bさんは不妊治療も受けましたが,子供がありません。それで養子(C女)をもらうことになりました。その数ヶ月後,実家が改築された折に両親に請われて同居することになりました。しかしBさんは,もともと両親に対して屈折した心を持っています。

C女はみんなに可愛がられています。Bさんは,可愛がるだけではいけないと思っているので厳しくもします。いつかC女はBさんになつかなくなってしまいました。

Bさんは母性に疑問も持っています。C女を可愛いと思えないのです。

両親は,C女を可愛がることのどこがいけないのかと,Bさんの不満,疑問を理解せず,受けつけません。

この問題はさまざまに深刻です。C女はペットになっているからです。養母であるBさんが両親に対して気が弱いだけではなく,養女に愛情を持てないからです。

この状況で,本気で養女に責任を持つ気があれば,両親の家から出る覚悟がいると思います。「私が母親なのだ,私が責任を持って育てる」という覚悟がBさんには必要です。

ペットであれば,家族のみんなが単純に可愛がってやればよいのです。

しかし(人間の)赤ん坊であれば,躾が要ります。

この両者を較べてみると,動物と人間との心の在りようの違いが見えてきます。

つまり動物にも心があると仮定すると,それは単一のもので,人間のそれは,いわば二心であるということです。

動物は可愛がるとなつきます。なつかれると悪い気はしません。飼い主が望む通りに,ほぼ応えてくれます。だからこそペットなのです。その心の状況は,母親が赤ん坊にしてあげ,赤ん坊が母親にそのお返しをするという状況に似ています。

どうやらペットを可愛がる人は,母親と赤ん坊との蜜月時代の心を感じ取っているように見えます。

自我の発達が未成熟な赤ん坊は,動物に似て二心がありません。

母性は赤ん坊の単一の心を包み込む心性であるといえます。

母性を感じられないというBさんは,養女が(Bさんの)両親に可愛がられているのを見て,嫉妬しているともいいます。このことはBさんが,幼い時代に両親にうまく甘えられなかった何らかの心的事情があったことを示していると思います。

つまりBさんが幼女を包み込む心を持てないのは,幼い時代のBさん自身が,思うようには母親に甘えられなかったからで,未済の感情があるのだろうということです。

ペットが人の心を癒すのは,甘えたい,甘えてほしいという心の葛藤をなぐさめてくれるからのように思われます。

母親が赤ん坊に甘えてほしい,甘えさせてあげたいと思うのは,母親自身が甘えたい心を持っているからに違いありません。仮に甘えたい心が充足しきっていれば(現実にはあり得ません),甘えさせてあげたいなどとは思わないでしょう。赤ん坊に甘えられて仕合せな気分でいる母親は,部分的に自分自身が赤ん坊の心でそれを分かち合っていると思われます。

赤ん坊が甘えるのをわずらわしいと感じる母親は,自分自身が幼いころに甘えを極端に封じられていた可能性があります。そういう心的状況では,甘えるという生へのエネルギーが怒りのエネルギーに変換されます。内向する怒りと共に,甘えたい心が意識の地下に封じ込められていると,「甘えたいー甘えさせてあげたい」という心の流れが阻まれてしまいます。

赤ん坊は動物に似て単一の心の状態であるとはいえ,やがて成長して二心の持ち主になるのが分かっているのが動物と違うところです。

そこにペットは可愛がることができても,母性が湧かない心の事情があると思われます。

躾は,単に可愛がるだけでは済まないことになります。

ペットのように扱われた子は,自分の責任において行動する主体者意識が育ちません。

結局,二心は自我の自律機能と抑圧機能に関連します。

#4 自我の傀儡化

自我の活動は意識の活動に他なりませんが,両者の関係は発電機と電気の関係に似ています。

自我は何もの(何ごと)かとの関係において機能します。それは意識は何もの(何ごと)かについての意識である,というのとおなじ意味になります。

自我は意識活動の中心であり,根拠です。何ものかについての意識であるというとき,その何ものかは自我との関係における対象ということになります。

これらの一切の対象との全関係を統合する位置にあるのが自我であり,統合された全関係が自己であるということになります。

意識がとらえた何ものかについて,統合された全関係に即して,合理的な意味の連鎖を探り当てる知的作業も自我の仕事です。

生後間もないころは,自我は組織体として未分化で,機能的に未熟です。

それを補う役目を,母親(そして父親)を中心とした,重要な関わりを持つ大人たちが負っています。

乳児の自我が最初にする重要な仕事の一つは,「よい乳房」と「わるい乳房」(メラニー・クライン)の存在に関して進められると考えられます。

赤ちゃんがお腹を空かしてむずかっているのを母親が的確に察知し,授乳することで赤ん坊が満足できれば,即ちそれは「よい乳房」です。

母親が何らかの事情で機敏な行動ができなかったり,母乳の出がわるかったりすると,それは「わるい乳房」になります

成熟した自我であれば,空腹を感じたときにどうするかを知っています。つまり自分の意志で空腹を満たす(必要なものを自分で獲りにいく)ことができます。

自我が未熟な赤ん坊は,自分から「よい乳房」を獲りに行くことができません。母親がそれを助けることになります。

自他の弁別がまだついていない赤ん坊にとっては,母親は自己の一部です。言葉を換えれば,この時期の赤ん坊は主観ー客観の融合した世界の住人です。そこでは全てが思い通りに運ばれなければならないのです。つまり万能感が支配する自己愛の世界の住人でもあります。

「よい乳房」がそこにあるとき,それは赤ん坊が魔法で呼び出したように,望みどおりに存在するので,万能感が満たされ,自己愛が満たされることになります。

そして「わるい乳房」によって赤ん坊の万能感と自己愛とが傷つくのです。

あるときは「よい乳房」によって満たされ,あるときは「わるい乳房」によって傷つけられることが,やがて自他の弁別がつきはじめることに重要な意味を持ちます。

そもそも自我が未熟であるとはいえ,「よい」と「わるい」とに二極分化していることが,赤ん坊の自我が活動している証拠です。混沌とした主観的世界にありながらも,他者の存在,客観的なものの存在が姿を現し始めていることの証なのです。

「よい」の’一極化’がいわば赤ん坊の理想でしょうが,「よい」と「わるい」との二極化が避け難いのがこの世の原理と知るのが,’自我に拠って生きる’のを受け入れることに通じます。

「わるい乳房」の存在は,万能感や自己愛に翳りをもたらします。そして,それは全的には肯定されていないという根源的な恐怖を生み出す理由になり,投げ出されたもの,という被害感の起源にもなるでしょう。そして,また,それは万能感や自己愛が完璧ではないことを受け入れるしかなく,自己の一部であった母親が,客観的に外界に存在する他者であることを自覚し,受け入れるしかないことを促しています。

自己意識は,次のような心の動的なプロセスを受け入れ,それに即することによって形成されていくと考えられます。

万能感と自己愛とを完璧に保証するはずのものであるがために,絶対的依存の対象であった母親は,自己に内属しているのでなければならなかった。しかしそのことに疑問があるので,繰り返し母親を支配しようと試みる必要があった。そういうことを必要としたこと自体が,既に問題を明らかにしているのだが,やがて,母親を支配し切れないことが明白になった。

支配し切れない以上,母親は相対的依存の対象に過ぎない。そしてそれは,自己に内属する存在ではなく,外部に,独立して存在するものであることを示している。つまり母親は,他者であると認め,受け入れるしかないことである。

そうであれば,結局は自己を肯定する根本原理は自己自身にしかないことになる。そして,そこにも絶対性はないので,繰り返し自己を自己自身にもたらすのが,自己形成と自己の自立化の原理になる。

このように生まれて間もないあいだの赤ん坊は,母親との一体化の中にある主観世界の住人です。そしてやがて母子分離を経験する時がやってきます。

別の見方をすれば,母親に絶対的に依存している赤ん坊は,やがて相対的依存の関係に移行していきます。それは母親なる他者が自己に内属するのではなく,自己とは別個に独立した外部的な存在であると認識していくことを示しています。

(更に別ないい方をすれば,いうならば一者の世界のものが,既にそうではない世界のものに変貌を遂げようとしている,ということもできそうです)

母子の一体化現象と呼ぶとき,あるいは絶対的依存というとき,そこには両者の分離が内包されています。つまりそこには動的,発展的な分離の動きが既に予定されているのです。

赤ん坊は,心のこの動きを単純に喜ぶことはできません。

母子の分離の気配を感じ取るときに,その動きに抵抗しようとしているように見えます。自分が魔法使いのように,母親を思い通りに動かそうとしているように見えます。

それがうまくいったときに,例えば「よい乳房」を手に入れることができたのです。しかし,「わるい乳房」が繰り返し表れます。

繰り返し,繰り返し,「よい乳房」が手に入ることを確かめながら,その合間に,これもまた繰り返し味合わされる「わるい乳房」の,不愉快で不安な存在に悩まされ,脅かされながら,やがてそれへの対処の仕方を覚えます。

つまり,赤ん坊にとって,本来は「よい乳房」のみが存在しているべきなのです。それが万能感の本来あるべき姿です。それが自己愛の本来の形です。

従って,不愉快な「わるい乳房」の存在は,万能感や自己愛に翳りを与え,それらを揺るがすものです。それは’一者の世界’にはあるまじきもの,であるに違いありません。

やがて赤ん坊は,一つの結節点に立ち会うことになり,未知の経験をすることになります。

それが他者の発見です。既に一者の世界の住人ではないことの発見です。

その他者は,よい乳房とわるい乳房の提供者です。

他者であれば,「よい」のも「わるい」のも,その理由が外部にあるので,気分がよくても,わるくても我慢しなければなりません。自分は既に万能の世界のものではなく,自己愛だけの世界のものではなく,他者愛と共存,共立させなければならないと感じ始める時が訪れるのです。

’一者の世界’といういい方をあえてしましたが,このような形而上学的なものを,精神医学という学問を論じる場所に持ち込むのは言語道断といわれる向きがあると思います。

確かに,論のための論であれば,これは虚しい議論になります。

しかし,ここでは精神科の病理現象の蓄積の上に立って問題を整理し,統合的に理解する可能性を探ることが唯一の関心事です。精神病理をどう理解し,治療的に有効な形でどう還元するかがすべてです。

「客観的な学問の体裁」が求められているのはいうまでもありません。

その客観性の理想的なモデルは自然科学にあります。しかしそれを心の現象に適応しようとすれば,いわば穴だらけになるのは避けようがありません。それを徹底排除して,自然科学に準じようとすれば,脳の科学になるでしょう。

心理的な議論では,幾つかの里程標のような事実問題があり,それら相互の間隙を繋ぐには推論以外にはありません。そしてその「科学性」とは,その推論の説得性,合理性にあります。

人間存在の問題は,生誕以前の世界と死後の世界とを含んでいます。これらの巨大な謎は,自然科学の手に負えるものではないのは論を俟ちません。

しかしそれらは厳然とした人間の事実問題です。

この超え難い謎は,人間の心理を’科学的に’理解しようとするときに立ち会う謎(里程標のような現象的諸事実のあいだに横たわる間隙,自然科学的な光が及ばない深淵)と連関するものです。ですからそれらのすべてを仮説をもって繋がなければ,統合的で合理的な理解を得ることはできません。

形而上学的であるといえば,人間存在はそうしたものなのです。

人間存在にかぎりませんが,問題は統合的な視野の下に置かなければ,それを問うことはできません。

この問題を,自我に内属する理性の支配下に置くことは不可能です。いわば人間の手に負えないものを学問的に理解しようとすれば,仮設を用いて,我われにも了解可能な一種の体系を仕立て上げる以外になく,その有用性は,治療的な還元によって確かめられることになります。

誕生以前の自我の存在様態は永遠の謎です。

一般に目下の謎を解いていくのは,理性とか知性などと呼ばれる能力によってですが,それらは自我に内属するものです。自我は自我自身について対象化することはできず,従って自我自身を問うことはできません。

換言すると,現象的世界に現れている現象的実体に関してはこれらの能力の範疇にありますが,自我そのものの存在様態,存在の由来などは,その能力の範疇外です。ということは自我の力が及ぶかぎりの現象的世界が有限界であるのに対して,及び得ない世界は無限界ということになります。それを自然界といい換えることができます。

自我は,以上の意味で,自然から乖離されたものであると考えることは許されると思います。つまり自我は自然に内属しながら,自然そのものではなくなったものという性格を持っています。自然そのものは全なるものであり,無限であり,無であり,それ自体で自足するものです。それらは自我に拠る人間の能力では捉え得ないものです。

その上で改めて自然を対象化することによって,自我は自然を我が物にすることが可能ですが,そのように対象化したものは,もはや自然そのものとはかけ離れたものです。人間である我々の前には,自然そのものは決して姿を表すことはありません。人間にできることは自然を限定化し,対象化することですが,その心的な作業は自我に拠ります。そして全である自然と,限定的な力をしか持たない自我とは,いうまでもありませんが対等の関係ではありません。

自我が捉え,自己のものとしようとする試みは,全であり無である自然の前に,絶えず無化の脅威にさらされているといえます。

とりわけ生まれて間もない未熟な自我は,「世界を自己化する」力はとうていありません。

人生の最早期の乳児の精神世界を,イギリスの児童精神科医であるメラニー・クラインは,妄想的,分裂的であると特徴づけました。クラインは,母親の乳房との関係を軸に,乳児が精神的な世界を切り開いていく煩悶,苦痛と至福,満足とのあいだを激しく揺れ動く心性について詳しく論じております。目の前に現れる母親をはじめ,さまざまな対象を統合的に捉えていくのは自我の役目ですが,生まれて間もない自我は,自然による無化作用という乱気流にもまれて,一貫した姿勢をとれません。

それを保護するのが,なによりも母親の愛情ということになりますが,母親の力でも補い切れないものがあります。しかしながら,赤ん坊のこうした激しい心の混乱も自然のプロセスの中にあります。母親にもまた,そういう赤ん坊にどう対処したらよいか,自然の力とでもいうべきものがあると思います。ですから良い母親というのは,言葉では捉え難い自然の情愛深さを,誰に教えられたわけではなくても身につけている人なのでしょう。このような意味での良い母親の保護の下であれば,多かれ少なかれ幼い自我が傷つけられるのは避け難いにしても,やがては自然的なプロセスの流れとして,赤ん坊の自我は統合機能を整えていくことになります。

このような流れの中にあって,赤ん坊の側に持って生まれた過敏なものがあれば,あるいは母親の側に何らかの不都合があれば,混乱は更に深みを増すことにもなるでしょう。この場合は母親の保護を十分に受けられず,最も重要な立場にある母親によって傷つけられ,混乱させられるに等しいことになります。

もともと傷つき易く,混乱しがちな赤ん坊の自我が,いわば不自然に母親によって何らかの恐怖体験をしたとすると,自我は自然のプロセスに従うことができず,身を避けるために生まれて初めての対人的な策を弄することになります。つまり,母親の自我の傀儡と化すことによって身を守り,心の自然を犠牲にするのです。その動機は恐怖と不信であったにもかかわらず,そうしたものを緩和するために,母親が大好きという偽装を凝らすことになる場合があります。疑いを持つことは危険なので,あくまでも友好の姿勢で取り入ろうとするのです。しかし,その根にある恐怖と不信は,対人不信と自己不信の核になるでしょう。その程度がはなはだしければ,将来,妄想的でさえある猜疑心に囚われる下地となるかもしれません。

自我は自己を形成していく中核ですが,いま述べたように,乳幼児の段階では母親の自我がその代理を勤めることになります。母親の愛情により至福の感情に浸されれば,赤ん坊の自我は母親のそれに助けられる形で,自己愛と他者愛とを同時に経験することになり,自我の成長に寄与することになるでしょう。また母親に恐怖を感じたとすると,怒りをもって応じるかもしれません。それが母親の愛情を改めて引き出す結果をもたらすことになれば,赤ん坊は,やはり自我の成長となる礎を得るかもしれません。しかし,恐怖の度が強ければ,赤ん坊の自我は母親のそれにしがみつき,恐怖をもたらしたものを懐柔しようとすることもあるでしょう。それらは本能的な自我の動きだろうと思いますが,後々の対人的な駆け引きにつながるものでもあると思われます。

このように(赤ん坊の)自己なる存在構造には,母なる他者が密接不可分に入り込んでおります。

そのようなことが可能であるのは,その存在構造に内なる他者が(構造的に)含まれているからであろうと想定されます。そして,また,自己の存在構造は,原基としての自我の機構に組み込まれいると考えられます。

生まれて間もない赤ん坊は,自他の区別がつきません。そして客観的には厳然として他者が存在します。赤ん坊は外なる他者である母親の世話を受けつつ,やがて自他の区別がつくようになります。

それに応じて外なる他者である母親とは別に,自己の内部に他者が生起してくると考えられます。つまり自我の機構に組み込まれていた自己の存在構造としてある内なる他者が,外なる他者である母親との関係に刺激されて機能を顕かにしていくと思われます。

この過程で重要なのは,境界機能です。自我に内属すると仮定される境界機能が,自己の内なる他者の生起に寄与していると思われます。

つまりこの意味での自己の内なる自己と,内なる他者とは関連しつつ独立しており,両者のあいだは境界機能によって隔てられていると仮定されます。

自我は全であり無である自然から乖離されたものです。自我に拠る光の世界は,無限定な闇に包囲された限定的なものです。人間はそれぞれの自己として存在し,意識の光によって世界を現象させます。その世界は意識と共にあり,意識の消滅と共に消滅します。そのような現象的な世界の演出者であり,住人であるそれぞれの自我は,包囲している闇といずれは一体化する宿命の下にあります。そしてそのときに限定的であった自己ならびにその世界は,無限の中に溶出します。その意味では,自己は自己自身の中に’全’を含んでいます。自己はそれだけでは全体の半分に過ぎず,他の半分を内に含むことにより’全’となるのです。そのように他者を自己の構造の中に,内なる自己として包含しています。そして同様に外部にある’半分に過ぎない’他人の内部に,他なる自己を包含しているのです。それは現実的な他者との関係にとどまらず,心的現実としてさまざまに現象されているのです。

自己と他者の関係は大変重要ですが,それはいま述べたような理由によるものです。ですから,たとえ嫌人癖が甚だしく,人里はなれて孤独に生活する人であっても,他者との関係から無縁になることはできません。

生まれたばかりの自然的な傷つき易い自我は,最重要の他者である母親が,基本的に自我の護り手であったか否かということに大きく左右されることになります。

自我の重要な機能の一つは自律性です。樹木の種が大地に落ち,しっかりと根を下ろせば,あとは種に組み込まれた自律性によって成長していくのとおなじように,自我の自律性の根は,母親の保護を受けて大地に根を下ろすことができるでしょう。根が伸びていくのは,心の大地である無意識の領域です。その領域の主体にまで根がおよび,しっかりとした接触が図られれば,自我の自律性はそれなりに健全性を保つことができるものと思われます。そのようにして,自己がおのずから自分らしい自己に向けて,成長していくことができるのだろうと考えられます。

逆に,原初の他者である母親によって自我が護られず,自律性が混乱させられる体験をすれば,自我の健全な自然性が傷つけられることになるのでしょう。

人間にとって他者が重要なのは,自然的な自我の機能を護る上で,他者が絶対的な前提となっているということです。しかし他者は,むしろしばしば脅威になります。絶対に必要な存在であることは自然的な要請ですが,現実の外なる他者は,むしろこの自然的なものに脅威を与えるものでもあります。

従って人間の最も大きな矛盾と困難は,自我の自然性を他者との関係でいかに護っていくかということにあり,それはしばしば難問であるということです。

母親への恐怖から,いわば母親の自我の傀儡と化した幼いそれは,自我本来の善導する姿勢から,一転して過酷なものに転身します。この幼い自我は,母親を怒らせる元凶が甘える心と認識するので,甘える心を片端から捉えて無意識の牢屋に封じ込める途をとることになるのです。そのようにして母親に媚を売り,よい子を無意識的に演出することで,母親の怒りをかわすことができると考えるのです。そして甘える心を封じたままでいるので,その後の心の成長に大きな難点を残すことになります。

なによりも自我が,傀儡化することによって,その自律性を犠牲にしたことが問題です。母なる他者への恐怖によって乱された自我の混乱は,長じて,一般的に他者に対して恐怖心や不信感を抱き易くなる可能性がありますし(不登校や対人恐怖症などの心の障害に関連します),自己不信のもとにもなるでしょう。更にそうした不安定な他者への感情のまま,他者へ依存しないではいられないということにもなります。何歳になっても,年齢とは無関係に依存心が心の大勢を占めることになるかもしれません。そして,それに相応して無意識の領域に,先の例に即していえば,「甘えられなかった分身たち」を抱え込むことになります。この分身たちは,悲しみ,虚しさ,恨み,怒りなどと共にあるでしょう。そして表の自我が生きる方向に向かうべく機能する性格を持つのに対して,この自我に受け入れを拒否された分身たちは,裏の自我とでもいうべきものを主柱とした勢力になり,表の自我への反逆を志向することにならざるを得なくなります。それは,やがては死へのエネルギーと一体化して,ただでさえ困難な人生をいっそう難しいものにしてしまうのです。

他者への度の過ぎた依存は大変危険です。他人しだいの人生に,満足も,充足も,安心も望めるはずがありません。おまけに他者への度を過ぎた依存を求める心は,表の自我が基本的に劣弱であるという事情があります。そういう心の状況であれば,日常の生活の諸々のストレスに対応が難しい上に,内側(無意識)にも意識を脅かす勢力を持つことになるのです。まさに前門の虎に,後門の狼という心的状況といえるでしょう。

#5 表の自我と裏の自我

40代後半のYさんが,「私の中に悪魔がいる」とあるときいっていました。

Yさんが10代のとき,母親が幻覚,妄想状態でした。Yさんの目の前で縊首自殺を試みようとしたこともありました。現在は,通院は継続していますが,いわば’健常人と変わらない’程度に回復しています。

Yさんの一人娘も,中学生のころに幻覚,妄想状態となりました。いまは大学生ですが,しばしば感情が嵐のように激しく揺れます。そういうときは母親を罵倒します。手に負えない幼児のような行動に走ります。

Yさん自身は,長女が発病したころに気分が不安定になり,通院が開始されました。

長女は祖母(Yさんの母親)に似ているので,病気がよくなるとしても祖母のような年齢になっているのではあまりに不憫だと,しばしば悲観的になります。そしていっそのこと自分の手で・・・と思いつめることがあります。実際に行動に出たこともあります。

「私の中に悪魔がいる」というのは,そういう状況でのことです。「もう,いいかな」と悪魔がしきりとそそのかすといいます。

Yさんの絶望は,長女の将来を悲観する気持ちと一体になっています。

長女は鬱屈した感情を激しく母親にぶつけますが,自分に手を掛けようとした母親の行動には,怒りも恐怖も覚えないように見えます。両者は密着した依存関係にあるように思われます。

30歳のWさんは二児の母親です。この夏に第二子を出産しました。

あるとき,「(4歳の)上の子の足をへし折ろうとするイメージが湧いてきて,怖くなった」といいます。

一年ほど前,状態のよくない日がつづいていました。

ある日,一人で帰すのが心配で母親に来てもらいました。ベッドに寝ているWさんの肩を抑えている母親の手を,「・・・るせーな・・・」といって払いのけようとします。「ハサミ・・・カッター・・・」とうめくようにいいます(自傷行為は数知れずといった過去があります)。動物そのもののような唸り声を発します。

いまにも暴れ出しかねない様子なので,弟にも来てもらいました(夫は仕事で,呼ぶのが困難でした)。

小一時間後,人が変わったように自分から起き上がり,きちんと挨拶をして帰って行きました。

20歳のZさんは,そのWさんの紹介で二年前に受診しました。

初診のとき,真夏ということもあり,無数の切創痕が露出された腕の全面に見えていました。

手首,腕への自傷行為は,高校に入学して間もなくからつづいています。始めは興味本位でしたが,やがては幻聴にそそのかされるようになりました。「切っちまえ」という声が聞こえ,切ると,「よくやった」と聞こえたりします。

外出中などに急に怖くなり,泣きたくなり,死にたくなり,身体を切りたくなることがあります。そういう折に,「死んだら」とか,「切ったら楽になるよ」とかいう声が聞こえたりします。

電車の中で,「切れ!・・・誰も見ていないから大丈夫だ」という声が,リアルに聞こえたこともあります。

初診のころに,「将来がとても不安・・・ちょっとしたことで無闇に涙があふれてくる・・・私は駄目だとすぐに思ってしまう・・・しばしば死にたくなる,そういうときに手を切る衝動が湧く・・・高校に入ったころから<自殺マニュアル>の本に興味がある・・・ゾンビーを殺すゲームに夢中になる・・・」と述べています。

「腕に目立っている傷痕は,人に見られるのが嬉しいと思う,何故か隠そうとするより誇りたい気分・・・」ともいいます。

鼻翼と口唇へのピアス,’ゴス調’の黒装束を好み,当然目立ちます。そういういでたちをしていると自信が湧いて,みんなに見て欲しいと思います。一方で,’ふつうの’服装をしていると,人の目が気になります。私がおかしいから見ているのかと思い勝ちです。

紹介者のWさんが,「様子がおかしい,いつもと違う,ある人と自殺の計画を立てている。そういうときの顔は怖い」と,相談に来たことがあります。

十代の患者さん(K)が,「犯罪者の気持ちって分かりますか?」と,あるとき訊いてきました。この質問は,昨今,十代の子の重大犯罪のニュースが続発していることに関していたと思いますが,実は彼自身の不安でもあるようでした。

彼は生い立ちに,ある事情があり,しかしながら母親を助けるよい子として成長しました。その’ある事情’が,彼の心に潜在している怒りをもたらしたと思われるのですが,彼自身はそのことに無意識でした。治療がはじまって,うつ状態が晴れるにつれて,制御し難い激しい怒りに苦しむことになったのです。

彼の自我は,怒れる分身たちを抑圧することで自己を保ってきました。彼が抑うつ感と無気力感に囚われることになったのは,母親を助けようとする心に無理があり,その一方で自分を押し殺さずにはすまなかったからです。

母親は強い人ではありません。幼い彼が母親を助けることに腐心したのは,心根の優しい彼としてはそれ以外にはできないことでした。そしてその代償をも背負わされることになったのです。

過度に抑圧された怒りは,憂鬱と無気力の十分な理由になります。

それは自己を切り開いていくはずのエネルギーが,自己を閉塞させる方向に流れているからです。

母親を助けることが何故このような意味を持つことになったかといえば,母親に大いに助けられなければならない年代に,幼い彼の怯える心は孤独に耐えるしかなかったということがあります。

また強い依存関係にある母親が危機的状況にあるので,母親を支え,助けることが自分を保つ上で,不可欠の要請でした。

それは,そうしたいというよりは,そうしなければならなかったのです。つまり自発的である意志に基づいたというより,他から強いられたという性格を持っているのです。

大人の分別で母親を何らか助ける場合には,どういう場合であれ一定の満足が得られるでしょう。それは強いられたものではなく,自ら意志してする行為だからです。しかし幼い子であれば,自分を助ける立場にある母親が窮地に陥っていること自体が一大事です。更に,母親の窮地を助けるのは,幼い自分ではなく,誰か大人,特に父親でなければなりません。しかし幼い彼は孤立無援に等しかったようです。大人たちからそれらが得られないときに,母親を助ける役割を,いわばそれら不在の大人たちによって強いられたに等しいことになるのです。

事実,殺意をも秘めた彼の怒りは,不特定の他者と父親とに向けられています。

これらの症例に共通しているのは,自我の世界の分裂が公然化することによって,社会性と精神性との活力が著しく低下するのと,それに反比例して破壊性を内に秘めた孤立性のさまざまな様相です。

以上の四例を上げた理由は,心の病理現象が,本来は影に隠れているはずの心の裏舞台のものたちが,表舞台に躍り出て公然化している(しようとしている)ことを示すためです。

心が裏舞台と表舞台の二重構造になっているのは一般的なことで,心とはそういうものです。

その二分化は,繰り返しになりますが,自我に拠るもの(つまり人間)の必然です。ですから潜在的に,人間は二重人格といえます。

心が健康であれば,社会的人格がしっかりと確立されているので,その人格の別称ともいえる表舞台が安定した活況を保っています。そして裏の世界は,影に回って縁の下を支えているといってよいでしょう。

この場合の表と裏の舞台の統括者,演出者が自我です。とはいえ,いま述べたように,心は裏と表に二分割されているので,それぞれの世界がそれなりに統合されていると考える方が理解を進める上で便利です。それでここでは,前者を統合するものを裏の自我と呼び,後者を統合するものを表の自我と呼んでおきます。

ちなみにC.Gユングは,心の全体をコンプレックスの複合体とみなしています。ユングによれば,自我はその気になれば意識化が容易な心の世界の中核であり,意識化が可能ではあるが,原則的に無意識である世界を個人的無意識と呼んでいます。また,この個人的無意識の世界は,多数のコンプレックスから構成されています。そして自我もまたその一つで,自我コンプレックスと呼ばれています。

ユングによれば,このように意識化が容易である心の領域の中核が自我であるので,彼がいう個人的無意識の領域は非自我の世界ということになります。

私が裏の自我と呼んでいる領域は,ユングの個人的無意識に相当しますが,なぜ敢て自我と呼ぶかといえば,ユングのいう個人的無意識の世界は,いわば自我の負の遺産だからです。自我の関与があってこその存在であるからです。

心の世界で自我の関与が及ばないのは,ユングがいう普遍的(または集合的)無意識の領域です。言葉を換えれば,この領域は自我を超越した世界です。時間的,空間的に,自我に拠る世界は有限性のそれですが,心の内なる普遍的無意識界は,無限性の性格を持っています。

人間が人間たるゆえんは,自我に拠ってです。つまり自我の領域こそが人間的世界ですが,人間を超越した世界をそれぞれの自己が心の内に抱え持っているところに,自己が永遠に現在の自己を否定的に超え出て,新たな地平を求めつづける時間的存在である理由があります。

そして普遍的無意識の存在は,人間が超人間的である自然に内包された存在であること,人間の存在由来をそれぞれの自己の心の内部に抱え持っていること,を暗黙の内に示していると考えることができます。

以上の意味での自然は純一であるのに対して,時間的性格を持っている自我は,果てしない自己否定の階梯をスパイラル状に上昇していくのを理想としています。つまりその都度の自己は否定を内に含んでいます。

純一なる善,正義,愛,公正などなどを追求するのは人間であればこそというわけですが,それは内に,悪,不義,憎しみ,不正などなどを常に抱え持っている証拠で,それが人間です。

敷衍すると,例えば純一なる善を追及するとして,それは理念としてのみの概念的存在で,実際には善の否定,つまり不善が尽きることなくついてまわればこその追求です。ここにもまた,人間が有限の存在でありながら無限性を生きている様が現れています。

人間は人生を追及しようとするかぎり,自我に拠って,以上のように人生の階梯をスパイラル状に登っていくことになりますが,それは別な角度から喩えていえば無限につづく負債の返却です。つまり自我は,仕事をすれば,必ず何らかの負債をも背負い込む宿命の下にあるといえるのです。

’追求する自我’であるかぎり,精神性と社会性との追求ということになるでしょうが,人間についてまわる身体性と他者性とがそこに干渉してきます。これらの属性があるかぎり,人間はたえず煩悩に引きずり込まれないわけにはいきません。

十歩前進,九歩後退といったところが,うまくいっても人間の現実ではないでしょうか。

まことに死によって,人間はようやく本物の自由になることができるようです。

解脱,悟り,などによって得られる解き放たれた感覚,真に自由であるという感覚は,その根拠を死から得ているように思われます。

このように自我は自己の開拓者であり,同時に,やむを得ず自己を貶めるものでもあります。

開拓された自己の全体の中核にあるものを表の自我,貶められて陰の領域に追いやられた自己の中核にあるものを裏の自我と,ここでは呼んでおきます。

ユングが述べているように,無意識の領域はいくつものコンプレックス群から成り立っています。その中で自我コンプレックスと呼ばれているものだけが,一定の恒常的体裁を保っています。そのために,誰それという固有名詞で呼ばれることが可能になります。つまり,それぞれの自分がそういう体裁で存在しています。

心のこの世界が自我の仕事の正のものです。そして正を生み出そうとする自我の仕事の背後に,負の遺産がいわば量産されていきます。

この負の遺産の中で問題になるのは,他者への過度の配慮から,その過度にわった分の自己犠牲です。それは簡略化していえば,外面がよすぎる自己における自我の不始末です。

これら無意識界に存在しているコンプレックス群のそれぞれには,自我コンプレックスのような恒常的体裁はありません。

それぞれのコンプレックスには,それを刺激する特定の体験があり,そういう折に思いがけない激しい感情状態に囚われることによって,その存在が顕かにされます。

例えばふだんは落ち着いている大人が,子供が騒ぐ声を耳にするときに限って,その場に居たたまれない強い不安に駆られるとすると,幼い時代に甘えを満たされなかった体験をしている可能性があります。

この場合のコンプレックスは,幼い時代に母親に甘えられなかった数々の体験群の無意識的記憶と,それに伴う悲しみ,寂しさ,虚しさ,怒りなどの強い感情群とから成り立っています。

(20代のある女性(S)が,退職した職場に用があって顔を出しました。元の同僚達に,「思ったより元気・・・」とか「綺麗になった・・・」といわれて悲しかったといいます。彼らは上辺だけを見て,心内にある強い悲しみ,寂しさに日夜悩まされているのを察してくれなかったからです。

幼いころに母親に甘えたいのに甘えられないでいる心を,母親に気づいてほしいという願いが元々あったと思われます。しかし,それは果たされないまま成長し,いわば未済のままでいるのです。その心が無意識的に他者に向かうとき,その他者は母親代理ということになります。虚しく期待してしまう様子がここに現れています。

何もいわなくても分かって欲しいという気持ちは,甘えの変形です。大人のいまでも,幼児のころと少しも変わらず,母親代理の他者が気づいてくれるのを虚しく待っている心が,ここに現われているのです。

中には,寂しがりやであるのを見抜いてくれた友人もありましたし,それなりに努力もしてくれましたが,彼女の心が癒されることはありません。「私は甘え方を知らないのかしら・・・確かに強がって甘えたりしないと思うけど・・・」といいます。しかしながら,彼女が望むように甘えると,幼児そのもののようになるに違いなく,それは手に負えない病的な行動になりかねません。

(このような行動化は,境界性人格障害に典型的にみられます)

心にある欲求を他者が気づき,解決を図ることができるのは,乳幼児と母親との関係における母親だけといってよいでしょう。この関係での両者は一体の関係にあり,未熟な乳幼児の自我を母親が代理しているからです。この関係においては,乳幼児の心の要求を,母親はほとんど自分の心の要求とおなじように扱うことになります。

成人においては,阿吽の呼吸とか,腹を探るとか,勘で分かるなどというように,人の心を直感で察することは可能であるにしても,乳幼児のように扱えば,ふつうは余計なお節介ということになります。

従って自分の内部問題であるこれらのことを解決できるのは,本人以外にはないのですが,人はしばしば,「黙っていても意を察してほしい」と思うものです。キリスト教文化の影響の下にある欧米人にくらべて,日本人にはこの傾向が強いのは,かねてからいわれていることです。それは屹立する自我と,より相互依存的である自我との違いといえるでしょう。そのことは集団行動を得手とすることや,公衆道徳のありようなどにも表れています。

たとえばかつての国家統制の行き渡っていた時代の日本では,二宮尊徳型の忠義者が公衆道徳を率先して黙々と実践すれば,社会の大勢が自然にそれに見習うことになるのがふつうです。

これがなぜ幼児心性かといえば,個々人の自我が,良かれ悪しかれ自立していないからです。この場合の主体的自我は,いわば外在する集合的他者ということになり,それは天皇を頂点とした権力機構であるといえます。個々人の自我は,幼い子が母親の自我に依存するように依存しているのです。

ですからこの権力機構が崩壊した’民主国家日本’では,自立していない個々の自我が解放されて,幼児のように’やりたいようにやる’人種がここかしこに見られるようになり,公衆道徳は一転して地に落ちることになるのです。

自立していない自我の下での個人主義は,幼児的自由がまかり通ります。それは真の自由とは似て非なるもので,いうならば’勝手にやる心’といったものです。そしてまじめな心の持ち主は,集団に依存します。かつての強力な国家的集合体ではなく,個々の大小の集合体に依存します。ここでは集団に帰依することによって,自我は主体者である困難(自由と責任等々)を免れる代わりに,自己自身を追及する機会をも捨て去ることになります。こうした状況では,責任の主体があいまいになり,欺瞞的精神に傾かざるを得ません。集団の秩序に従うのが前提になるので,秩序を乱すものは排除されます。そこでは,時として正義が踏みにじられ,偽善がまかり通ることになります。

土居健郎氏は,日本人の心理特性を甘えという鍵概念で捉えています。

本来,甘える心はまさしく小児のものです。それが日本人一般の心理的特性であるのは,キリスト教的な唯一神による民族の支配がなじまない何らかの風土的な事情があり,個々の自我が,より人間臭のただよう現実的な集合体に依存したからに違いありません。超越的なものへの依存であれば,それは個々の問題になるのですが,人間的な集合体への依存であれば,自我はさまざまに移ろうことになるのです。

先のK,Sの二例は,心の無意識にある幼児心性が強い勢力を持っていることを顕かにしているのです。

言葉を換えれば,心の表舞台を司る自我をおびやかすほどに裏舞台の勢力が大きいといえるのですが,冒頭に上げたY,W,Zの三例では,いうならば表に出てはならない裏舞台のものが表に出てしまっている様子が現れているといえます。

ここでは自我の統率力が破綻を来たし,心の表と裏の舞台がそれぞれ独立しているように,人格が二分裂している様相になっているのです。

三例に共通するのは,自我の統合力が衰微して破れが生じているという点です。そのために,裏舞台にあるはずのものたちが,自我の統率から逸脱して自律性を持ってしまっているのです。そのために自我の世界の二分裂が公然化したともいえ,分裂したそれぞれの世界の統合者を,一つには表の自我であり,そして一つには裏の自我であると呼ぶのが現実的であり,それなりに意味があるのです。

これまでに述べてきたことの繰り返しになりますが,自我に拠る現象的世界は,意識・光・生きる・有限・・・ということで特徴づけられるものです。そして無意識・闇・死・無限・・・といった世界が,それら現象界を包囲しています。

それは,心の表層はそれら光の世界のものであるが,闇の世界をも含み,両者は密接不可分の関係にあるということを,そしてまた,光の世界は独立を志向しながらも闇の世界に依存していることであると言い換えることができます。

つまり人間は自我に拠っているので,自我のものである前者の性格を持っているのはいうまでもないのですが,自我を超越している後者の

無数にあるともいえるコンプレックス群が正の意味を持つのは,自我がその存在に気づき,自我コンプレックスの一員と認め,表舞台に引き上げるときです。こういうときには,裏舞台に流れていた負のエネルギーが正のものに賦活されるので,一見して元気になります。さまざまな精神療法,心理療法がうまくいけば,必ずこのようなことが起こっているといってよいでしょう。

しかし自我との接触が図られないままでいると,それらのコンプレックスは,さまざまに負の力を現すことになります。

両者の利益の矛盾に直結するのです。

ところで自我はなにを拠り所に存在しているのでしょうか?

自我は,人間に固有のものです。人間は自我に拠るものです。人間の認識能力は,自我の機能に属します。自我は意識という光の世界の核であり,光は生きる意志と共にあります。

自我の誕生の由来,意味は,人間の理解を超越しています。つまり自我の光や認識能力のおよばない問題です。自我は意識という光の世界を演出しますが,自我が自我自身の根拠であることはできません。従って自我が存在する所以は,心の闇の領域,つまり無意識の世界以外にはありません。それは仮説以上のものです

ですから自我の実体的な根拠を名指しすることは不可能です。人間の身体をつぶさに調べても,自我の根拠についての具体的な答えは見つかりそうにありません。しかし身体のいたるところに,その兆候があるようでもあります。

繰り返しになりますが,自我は人間の意識活動が存在する根拠です。身体的,精神的な全ての現象は意識活動に伴うものです。自我を実体的な存在として名指しすることができず,自我に拠る意識活動として世界を現出させている人間には,世界は実体的にではなく,現象的なものとして存在します。

換言すると,もろもろの精神現象が存在する以上は,然々の原基的な起源がないはずはないが,それを実証することは不可能であるということになります。

自我はそういう性格のものです。それはいたるところに姿を現しているが,それ自体は決して意識に映じることはないといえます。

つまるところ,自我を拠り所に意識による光の世界を生きる人間は,意識の消滅によって世界は闇に溶け去ります。死は自我の終焉を意味します。

以上のように,「自我は,その存在様態を人間が知り得ないものの,何か原基的なものに拠って存在していると考えなければ,精神現象の一切が説明できない」というのは,合理的な仮定です。一定の仮説を立てて合理的な理解を目指すのは,必要なことです。

それはやがては実体的に証明することができるという性格のものではなく,永遠に仮説にとどまるでしょう。ですから,それぞれの分野でそれぞれの仮説を立てることになるのは当然です。そしてそれぞれの仮説は,それぞれの分野に現象として存在しているものを,合理的に説得する力を持つかという意味が問われることになります。

このように,自我のような,そもそもの存在根拠を,人間的な理性の及ばないところに求めるしかないものは,その実体性においてあいまい極まりないものです。そして精神の現象には,その類のことがずいぶん多いのです。

人間の理性的な理解を超越したものの全体を,仮に’自然’と呼ぶとすれば,自然の意志が人間の心の内部に及んでいるのが無意識の領域であると考えられます。意識界の首座にあるのは自我です。そしてそれに相応して,無意識界にも首座があると考えるのが合理的です。そうしたものが存在すると仮定することは,精神の病理現象を統合的に理解する上で意味があります。

その無意識界の首座にあるものを,ここでは「内在する主体」と呼んでおきます。それは自我の拠り所となるものです。自我がその意志を探り当てることによって,人間の精神を造形していくものと考えることができます。

自我は,喩えていえば大海を行く小舟の船長ですが,船長が操る羅針盤に映じるのが主体の意志です。あるいは星を読み取って航路を定めるのが船長であれば,星々の運行をつかさどるのが主体です。いずれにせよ船長の恣意で小舟を動かすことはできません。それは漂流に他なりません。

人生はどのように生きてもよいとはいえません。「自由に生きる」ことには,主体の意志を探り当てるという意味があるでしょう。これに対して,「どう生きようと勝手だろう」という考えは,自由とは似て非なるものです。それは自我が自分を引き受けようとしない姿です。ですから基本的なところで無責任なのです。たとえ漂流しようが構わないでほしいということは,確かに他人の与り知らぬこととはいえ,他人との関わりを欠いた行為というものはありません。いずれにせよ,主体の意志にお構いなしの生き方は,いわば心の内部の法廷で有罪判決を受けることになるのは必定です。それは他人に対しても,何らかの迷惑が及ばさないわけにはいかないでしょう。

以上のような考えは,人間が存在するのは何かの偶然に過ぎない,あるいは生物の進化の連鎖の過程にあるに過ぎない,等々という疑問ないし反論にあうのは必然でしょう。そうした疑問が起こるのは,自然科学的な合理的思考が行き渡っている現代ではもっともなことです。

しかし,それは自我を首座に置いた思考によるものです。いま,ここで述べてきたことは,自我を最上位に据えることは不可能であるということでした。

さまざまな観点から考察を加えることは必要なことであり,そうしなければ済まないものでもあります。それぞれの立場によって,現象の読み解き方がそれぞれに違ってくるのは避けられないことです。しかし,自我を最上位に置く自然科学的思考が,精神現象を統合的に解明することができると考えるのは不可能です。

これまでに述べてきたことがどういう意味を持つかということについては,臨床的な有用性がどの程度かということにかかっていると思います。事実,それらは診療を通じて自然的に浮かび上がってきた考えです。病気の成り立ちや自己が改善されていく様子などに考察を加え,それらは更に臨床の上で検証され,強化されてきたといういきさつがあります。それに伴って,その仮説に基づいて治療に当たることに,一定の確信を持つことができているということでもあります。

無意識界にあるとする人間の精神の直接的な母体を,内在する主体と呼ぶのは仮定の命名ですし,自我は,人間が自然そのものではない存在として乖離されたときに,この主体から生み出されたものであろうと想定するのも同様に仮定のことです。そうした前提の上に立って,臨床上の有用性がそれなりに確かめられたときに,それらの仮定は一定の意味を持つと考えるわけです。

結論的にいえば私が果たさなければならないのは,以下のことです。

治療者に対して患者の皆さんは問題を提起し,治療者としての私には,それを受け止め,有効性のある治療的な展開と還元とをもって応える義務と役割があるということです。更につけ加えれば,患者の皆さんは,教師としての性格の一面を持っています。教師が問いを出し,生徒である治療者がそれに対して一定の答えを出す,その当否を決めるのは教師であるというわけです。

この場合の教師の役割は患者さんの自我にではなく,内在する主体にあるといえます。患者さんが発する問いは自我によるものですが,治療者の自我がそれを受けて,双方の意志を通じ合うことになります。それらのやりとりの結果,患者さんが納得でき,それに伴って心に力が湧いてくるときに,生徒である治療者は,教師である双方の主体から合格通知を受け取ったことになるといってよいように思われます。

診療というものは,本来的にそのように展開されるものと考えてよいと思います。

幼い子の自我の自律性を守り育てる,唯一といっていい立場にある母親(と父親)の存在の重要性は,いくら強調されてもされ過ぎることはないでしょう。それはいうまでもないことですが,程度の差はあっても虐待する親が決して少なくないのが実情でもあります。子供は,親の前で逃れようがない立場にあるので,虐待される子供の絶望は察するに余りあります。それは,どんな犯罪よりも犯罪的であるといってもいい過ぎではないと思います。親から受けた心の傷は,一生を決定づけるほどのことなのですから。

虐待とまではいかなくても,子供は親から様々な干渉を受けるのが現実です。それは,人間の宿命といえるでしょう。他人の’要らぬ節介’は避け難い問題です。

赤の他人のお節介はともかく,親のそれは性格形成に大きな影響を与えます。

性格の健全な形成には自我の自律性が鍵を握ると思われます。その自律性が両親によって護られる必要があります。そのためには,親の自我の境界機能が確かなものである必要があります。そうでなければ,親は当然のように子の心の領域に侵入することになるでしょう。

自我の自律性は,境界機能と密接な関係があると想像されます。親が子の領域に無分別に侵入するのが当たり前になっていると,子供の自我の境界機能が混乱し易く,境界機能に護られない自律機能も混乱すると想定されるのです。

強い不安と硬直した自我を持った親ほど,子供への干渉が甚だしくなると思います。両親の干渉が過剰になれば,先に上げた少年の例のように,ロボットにされる恐怖を持つようなことも起こるのです。

以下は,甚だしい干渉をしてしまっている母親の例です。しかしこの母親は,劣等感が大変つよい人であるにもかかわらず,柔軟な心と子を思う優しさとを失ってはおらず,自分がおかした過ちをすぐに認めることができる人でもありました。

この方は,小学生の一人娘が,最近になって不登校になったという悩みを持っています。彼女は夫と離婚し,一人娘と実母と三人で暮らしています。娘が不登校になったことについて,甘やかせ過ぎがよくなかったのかという悔いを交えた反省をしています。愛情ならたっぷり与えている,むしろそれが行き過ぎているのではないかというのです。

しかし実際には,’愛情’の裏側には,大きな不安が潜んでいるのが明らかです。娘はごくごく幼いときから,喧嘩ばかりしている両親の仲裁役をしていたようです。母親が落ち込んで黙りこくっていると,「何か話して」といって母親を励ましました。「こんな駄目な親の私に,どうしてあんなよい子ができたのかと思ってきました」と彼女はいいます。勉強もできるし,手伝いもしてくれるし,申し分がなかったのだそうです。

この母親と幼い子の祖母(本人の実母)とは,良好な関係ではありませんでした。祖母が支配的,強権的で,母親に育児の自由さえ許さなかったようです。幼い子は,母親と祖母とのあいだの板ばさみにもあっていたと思われます。そして母親は,「こんな醜い私のような大人になってほしくない」というのです。けがらわしい大人になるくらいなら,ずっとこのまま子供でいてほしいと願ってきたそうです。テレビの番組や読書など,’大人のにおいがする’ものは,ことごとく規制し,排除しました。愛情と信じた過度の干渉が繰り返されてきたようです。このごろ,「なんでもお母さんには話をしてね」という母親の願いに応えてくれないことが多くなりました。母親は焦りと孤独感と不安を感じるのです。

これまでにも述べてきたように,自我の重要な機能の一つは自律性です。自然から乖離された人間は,自分の力で人生を切り開いていかなければなりません。それは小舟で大海を渡ろうとするような途方もないことです。そのための拠り所が自我の自律性です。先の比喩でいえば,自我は小舟の船長です。船長は自由に,主体的に操船しなければなりませんが,その自律性に根拠を与えているのが内在する主体です。船長が幼くて,操船術が未熟なあいだは親に依存して技術を見習います。そして,しだいに依存から脱して自由になり,直接に主体との関係を探り当てていきます。それが順調に進むときに,自我は自律性を発揮できます。

他者,とりわけ両親の望ましい援助と協力と指導があれば,または他者の干渉が自我の眼を眩ませなければ,その自律的な機能は,かなり自然に遂行されるのではないかと思われます。しかし実情は,両親を含めた他者の干渉が,無意識的なレベルをも含めると,無視し難いものがあるのが一般です。また,自我自身のそれぞれの能力の問題もあります。それらの事情から,自我が本来の自律性を保ち,適切に自己を導き抜くのは,むしろ困難だといわざるを得ないと思います。

幼い自我が自分のためになる仕事をしたいと思っているときに,権力者である親の干渉によってどのような影響を受けるか,先に述べたの二つの例に即して見てみたいと思います。

男児の例では,母親の愛情が弟に傾いていると感じ,母親に気に入られるように,活発にアピールしている様子がうかがわれます。しかし,その努力は一向に報われず,望むような反応が得られません。かえってうるさがられている印象もあります。父親はそのような母子関係と,息子の悩みに鈍感なようです。こういうときに少年はどうすればよいのでしょう?男児の自我は精一杯の仕事をしているように思われます。それが無効なので,怒りが充満しています。自我は役割を果たしているのですが,両親の協力が得られないので,結果としては無駄な努力になってしまっているのです。愛されたい,認められたいというもっとも過ぎる欲求には切実なものがあり,しかし,それらの欲求は,母親の協力を得られないので,自我はやむを得ず無意識の牢屋に押し込めるしかない(抑圧する)状況です。それは親の不理解,愛情の欠落によって,自我が無能力なのと何ら変わらないことになるのです。自我は大変に混乱しやすい状況です。不当な抑圧を強いられて,無意識の領域には怒りが充満しています。自我がそれらの不満の代弁者として,姿勢を変える必要があるのかもしれません。つまり反抗的な姿勢に転じるのです。しかし,よい子路線を取る少年の自我は,親に見捨てられる恐怖がもともと強かったと思われます。愛されたい,認められたいという自然で,当然の要求を,自我は精一杯すすめるのですが,両親には通じません。自我は両親の更に恐ろしい拒絶を回避するために,甘えたい心を涙を飲んで押さえ込まなければならない状況です。親の自我に迎合しなければ,存在そのものが危うく感じられるのです。押さえ込まれた甘えたい心たちは,傀儡化せざるを得なかった自我と両親に対して,悲しみや,虚しさや,恨みなどと共に怒りを充満させています。それら充満する怒りが,チックを呼び,夢の絵の中で,爆発しそうなロボットとして表現されています。ロボットの意味は,言葉によっても,行動によっても,意志を伝える力を持てないということかもしれません。

また,学校への通学路で,誘拐されるのではないかという恐怖があります。学校には友達がいて,学校生活そのものは問題がないようです。この恐怖は,母親との関係が遮断されてしまう不安のようです。母親が自分を捨てて,どこかへ行ってしまうという類の恐れは,意識上はありません。彼の自我は,母親がそんなことをするはずがないという認識を,精一杯保っているといえるでしょう。しかし内心の不安は打ち消し難く,無意識の世界にあるそれらの感情が,彼の自我を捕捉し,飲み込んでしまう恐怖を持つのでしょう。それが,誘拐という外部的な事件への恐れの形になって現れているようです。

彼は,将来,父親のような職人になるのもいいが,それ以上に整体師になりたいと考えています。その職業が両親の身体を癒して上げるのに役立つと思うからだといいます。もしかすると,その他に,両親の心にも整形を加えたいという隠れた願いがあるのかもしれません。

女児の母親の例では,女児はごく幼いときから,喧嘩の絶えない両親の関係と,自分をも含めた家族の関係との危機を救おうとしています。幼い自我の必死の願いと行動とに応えることができなかった両親は,少なくても子供の立場からは,幾重にも非難されても仕方がありません。女児の願いは叶えられなかったというべきか,半ばは叶えられたというべきか,両親は離婚しました。しかし離婚後,今度は母親と祖母とのあいだの板ばさみになりました。少女の自我は,本来は大人たちがするべきである関係の調整の役目を強いられました。幼いときから大人の自我の強さを求められたのです。親に愛されたい,励まされたい,甘えたいという子供本来の自然の欲求は,ここでも無意識の牢屋に押し込めるしかなかったのです。「私はなんで生まれたの?なぜ私を生んだの?」という疑問に応えるのが親の義務といえるでしょう。子供の側に,愛されている,信頼されている,大切にされているという肯定感があれば,それが答えです。

女児を母親は大切にし,愛情を傾けたつもりです。しかし母親自身に自己肯定感がなければ,それなりの健全な自己愛がなければ,子供に満足感を与えるのは,ほとんど難しいことでしょう。むしろ子供にそれとなく依存してしまうものだと思います。こういう依存は,穏やかな言葉や態度でカムフラージュされて,一見は仲のよい親子の図になるかもしれません。しかし,実質的に強制的な侵入になっていくと思われます。依存の対象になるのは,いわゆるよい子です。よい子というのは,そもそも(母親の)期待や要求に,無理をしてでも応えてくれるからです。「親が望むなら,そのようにして上げたい」と考えるよい子としては,母親が苦しむと分かっていながら,無視はできないのです。

母親の’苦しみ’にも,半ばは無意識的にでしょうが,よい子をそのように仕向けるための演技が入っているのではないかと想像されます。母親の半意識的な誘導によって,母親が悲しんだり,苦しんだりするのは,自分のせいと感じる癖が子供にはできていると思われます。そこには母親が,’愛情’を隠れ蓑に,もう一つの意図を隠し持っている姿が見え隠れしているように思われます。このあたりの事情は,子供もうすうすとは分かっていると思います。しかし,よい子であるかぎりは,母親の仮面を剥ぎ取ってしまうような考えは,到底できない相談でしょう。それは’愛情’の背後には,恐ろしい怒りが潜んでいる(母親が,幼い娘の気を引くために悲しそうな顔をするときにも,その心の奥には怒りが潜んでいます)のを感じ取っているからだと思われます。母親の怒りについては,どうすれば自分に向けて炸裂する(怒りの炸裂は,見捨てられる恐怖に直結します)のを防げるか,半ばは生存本能から分かっていると思います。恐らく,母親が大好きなのだという自己欺瞞にも陥っているのではないでしょうか。母親が愛情の仮面の裏に怒りを潜ませているのと,女児がつけている「お母さんが大好き」という仮面の裏に恐怖と不信とを潜ませているのと,母子それぞれが対をなして,演技的な関係にあると考えられるように思います。

こうした恐れを背景に,少女は母親に強く依存しているので,その関係が壊れることは,自己が破滅するに等しい恐怖感を持つのです。母親との間をつなぐ危うさをはらんだ絆を手放すと,無人の荒野に一人放り出されるのに等しい恐怖を持つのではないかと想像されます。

母親が望むように,という女児の自我の姿勢は,生きるための必死の戦略です。生存本能に駆られてのことといえると思います。そして一方では,自律性を犠牲にするという高価な代償を支払うことになったのです。それに伴い,’自分らしく生きようとする’意志のほとんど全てをあきらめるしかなくなります。それはかけがえのない人生を虚しいものにする,過酷な犠牲を強いることにもなるのです。

人間は自然から生まれ,自然に即することを最善とするものであるように見えます。それが損なわれるのは,他者との避けられない関係によってです。最も頼りとする母(そして父)なる他者によって,人生の塗炭の苦しみを味わいかねない不条理劇の幕が切って落とされるということが起こり得ます。そのように極端でなくても,子は親によってそれなりの被害を蒙らないわけにはいきません。それが人間です。人は,「親から受けた被害によって歪んだ心を,一生かけて自然的なものへ整え直す,それが人生である」という不可解な存在です。そして,それらの苦しみを招いてしまうのが自我であれば,改めてそこから脱出して自己を回復させるのも自我です。

この女児の幼い自我も,母親の愛情に守られているという安定した安全感が得られなかったと推測されます。おそらくそれとは正反対の母親への恐れ,恐怖,,不信感に,ごく幼いころに直面しただろうと思われます。それが自我の自律性を混乱させ,母親の自我への密着を促したと思われます。それらのことは,生死をかけたといえるほどの切迫した心理状況の下で起こることです。

幼い時代に経験したと思われる恐怖心や不信感などは,抑圧されて滅多には意識されることはないでしょう。それは年齢的に幼すぎるためではあるでしょう。しかし抑圧であるからには自我が関与し,抑圧されたものは無意識界にエネルギーを抱えたままいつまでも留まることになります。それは傷ましい心の出来事です。親が与えた心の傷ということになります。

このように幼い自我が自然の欲求を抑圧するのは,大人が何かを我慢するのとは比較にならないもので,いうならば心的外傷とでもいうべき出来事に直面したからであるに違いありません。それはよくよくの恐怖体験があったからに違いないのです。

それらの傾向,幼い自我が抑圧に走る傾向があるとすれば,その大元には,恐らく甘える心の抑圧があっただろうと想像されます。それは次のような事情によります。

乳幼児の幼い自我が,無意識界から送り出されてくる諸欲求を護るためには,母親との関係を抜きにしては考えられません。その最重要の他者とのあいだの関係が良好である証は,甘える心が満たされていることです。

母親への甘えが満たされている関係があれば,乳幼児は母親に受け入れられている,信頼されている,愛されているなどのことに確信を持て,満足感と安心感に浸ることができます。そういう関係であれば,何か不満足なことが生じたときには,恐れることなく不満や怒りも表現できるのです。そしてそういう関係の下では,それは基本的に,改めて母親によって受け入れられるはずです。

逆にいえば,母親への甘えを抑圧して満たされない思いをしている乳幼児の場合は,母親に受け入れられていない,愛されていない,信頼されていないという思いに駆られがちになるのは必然でしょう。そして子供の方も,母親への愛や信頼の確かさに自信を持てないことにならざるを得ません。そういう関係状況では,新たに不満が生じると,激しい怒りを向けるか,恐怖によって沈黙するかになりがちだろうと思います,それを受けて,母親の方が力で対抗したり,無関心になったり,悪循環に陥る可能性を否定できません。

甘える心が充足される度合いは,自己愛と他者愛との確かさの礎石に関わる問題なのです。

例示したこの女性の幼い子について見れば,底深い恐怖心がいわば仲立ちとなって,女児の自我は母親の自我に密着し,その上で母親への愛着という体裁に変質したのでしょう。換言すると,(自己の本心から見て)偽善的な装いをこらして自分をも母親をも欺くのです。母親を愛している,母親が大好きだというふうに信じ込むことで,母親との関係をはかろうとするのですが,一方で意識下に抑圧されている甘えられなかった分身たちは,その心の嘘にだまされることはありません。それらは表の自我と母親との一種の取引の犠牲になっているので,両者に対する怒りや恨みなどの感情と共にあります。ですから,どんなに表面上は母と子の関係が蜜月のように見えても,裏の自我に率いられる分身たちが心を許すことはありません。

(よい子の装いを偽善的というのは,代償として支払う自己犠牲が大きすぎるのを考えると酷な表現のようにも思いますが,非難をしてそのように呼ぶわけではないのはいうまでもありません。偽善というのは,悪意を隠し持って他人に親切を施すというようなことになると思います。よい子の仮面の裏には,一般的な意味での悪意があるわけではないのはいうまでもありません。しかし外側(親,他者)への配慮が過ぎて,内側(自己自身)を疎かにし過ぎるのは,自分自身に悪をなしていることになるのです。よい子がいじめに合うのは,そのような’嘘’が感じられるからかもしれません)

心から母と子の和解的な結合が起こるとすれば,唯一,表の自我が母親から距離を取り,無意識下に潜む分身たちの恨みや怒りに目を向けるときです。そうすることができるためには,表の自我が本来の力を回復させていることが前提になります。それは自我の自律性の回復をも意味します。

そのような心の転換を生じさせるのが,心理的な治療の目標になります。

これら二つの例に見られるように,自我の基本姿勢は,両親の影響を決定的に受けながら形成されます。生まれて間もない人生の最早期に情緒的に満たされることが,他者との関係を円満に保つことができる性格を形成する基礎になるはずです。

男児の例では,自我の自然的な機能が両親によって無効化されました。女児の例では無効化を恐れ,母親への盲従の途を選びました。両者とも,それぞれの自我は,いわば親の自我の傀儡になるしかなかったといえます。

幼い自我が脅威を受けてすくみ上がり,母親の自我に密着するのはやむを得ないことです。しかしながら,内在する主体との関わりから見れば,許し難い堕落という意味になる危険があるのです。自我の自然の機能を,自我自身が根本から歪める動きをしたことになるからです。これは幼い子の罪というわけには勿論いきません。しかし罪を犯したのに等しい罰のような人生が待っています。主体との関係をあやまたず確立することを目指すのが,何よりも自然的な要請だからです。

このことは,ダルマになるのが自己形成の理想といういい方で言い表すことができます。

心の軸が自己の中心にあれば,何かのストレスによって心がぐらつくとしても,過度にぶれることがなく,やがて心は平静を取り戻すことができます。しかし母親,あるいは母親代理の他者,あるいは(人間との関わりから脱落して)何ものかに,悪しき依存をしている自我の下では,心の軸は自己の中心から遠く離れるので,ストレスがかかって心がぐらつくと,態勢を容易には整えられないのです。それに加えてそういう心の状況では,自我がうまく機能しないので,心はしだいにエネルギーの枯渇感に囚われていきます。

ダルマ的な心の軸は,自我が主体としっかりと結合しているときに生じるといえます。そういう自己を目指すのが,それぞれの人生の理想的課題であると考えられます。

このように他者の介入によって,自我の主導性を損ねてしまう危険があります。母なる他者の影響が殊更に大きいのは,人生早期の未成熟な自我が,他者の保護を絶対的に必要としているからです。それを護る第一の立場に母親があるからです。あたかも神に対するかのように,赤ん坊は母親に全能者を要求するのです。

赤ん坊は人間の心の形成の歴史の中で,自己愛という自足態の中に満ち足りる,特別に理想的な時代にあるとする考えがあります。しかしそれは間違いであるように思われます。逆に,生を受けたが故に,必然的に死に怯えるものとなったのが赤ん坊であると思われます。そうであればこそ,幻想的な絶対者によって護られなければ存在できないのでしょう。わずかな闇の気配に怯えるだろう赤ん坊は,母なる全能者のふところにまどろむことを希求するのでしょう。そのふところは,つまり母親の愛情ということになり,そこには(広義の)性愛的な彩りがあるに違いありません。絶対的な上位者に護られていたいということは,言葉を換えれば甘えたいということになります。甘える欲求は,生死を賭けたものにふさわしい強力なエネルギーを持っていると考えられます。ところが,母親がこのようにかけがえのない立場にあるだけに,逆に,一転して恐怖をもたらす者になる危険性を払拭することはできません。全能幻想はいつかは綻びるのです。その綻びた隙間から垣間見る闇が与える恐怖が,赤ん坊に,母親への全能要求をためらわせるのではないかと考えられます。その恐怖は,母親その者への恐怖と区別がつかないだろうからです。生きるために母親に甘えることが重要ですが,垣間見た闇(死)の恐怖が更に大きなエネルギーを持っているために,その希求を制御するのです。母親への全能要求を恐怖によってあきらめ,現実的な関係の模索がはじまります。

人は巨大な矛盾の中に存在します。その最たるものが,生と死です。つまり,生とは究極のところ死の主題化である,という難題を人は負っています。赤ん坊にとって,全能要求は,生が主題であるかぎり死の存在を排除できないという現実原則が受け入れ難いという意味を持つのでしょう。そして赤ん坊にして,全生命の要求が,はからずも死の恐怖を否定し得ない現実によって打ち砕かれたときに,生と死とを本能的な知恵によって止揚しなければならなくなるのです。そしてそれが果たされたときに,人間存在として自立する第一歩を踏み出す基礎を得ることができます。

しかし,この激しい対立を止揚できないときには,母親への全能要求も,母親への恐怖(死の恐怖に通じます)も無意識下に収めて,いわばなかったことにしてしまうようです。それらの要求も恐怖も克服されないまま,いわば意識の地下に冷凍保存されることになります。

このように畏怖する自我は,自立を断念した自我でもあります。母親を畏怖する心は,死を畏怖する心に通じるものです。時によって母親は,半ばは意識して,半ばは無意識的に,幼い子のこうした畏怖する心に乗じます。時によって,巨大な不安を潜在させる母親は,子を自分を助ける道具にしようとします。

このようなことになれば,罪を問えないものに罪を科し,罰を受けているかのような多難な人生にしてしまいます。そうはならいように,親をはじめとした周辺の大人たちは,よくよく心をつくす必要があります。

母親の胎内にあり,まだ意識の活動が始まる以前には,心が存在していません。それは光もなく,従って闇もない世界です。それは全であり,かつ無でもある世界です。そして意識が芽生え,心が生まれることにより,光と闇の世界が始まります。赤ん坊は光を意識することにより,闇を知るのです。光は自我の世界のものであり,従って有限の世界のものです。闇は自我の光がおよばない世界のものであり,無限ないしは無の性格を持ちます。

言葉を換えれば,自我に拠る人間の世界は,それが存在する以前には全であり無であった世界が,いわば二分割されて現れます。つまり意識による光の世界のものとして存在することに伴って,生の世界が生じ,従って必然的に死の世界が生じたのです。生と死と,二極に分化した世界を生きるのが人間の宿命です。

生を受けたばかりの赤ん坊も例外ではありません。生まれる前には光も闇もない世界にあったものが,生を受けることにより,赤ん坊は,早速死におびえる者であらざるを得ないのです。生という光を意識するものにとって,闇という無限,無,死は絶大な脅威になります。赤ん坊は光の世界を享受するいとまもなく,怯えているのです。

闇に怯える赤ん坊の心の光を支え,育てる唯一最大のものは,母親の愛です。それに支えられて,赤ん坊の自我に備えられていると考えられる愛の原基に,ようやく活力が与えられるのです。しかしそれは圧倒的である無の感覚の前に怯えやすく,他でもない最も頼りとする他者なる母親によって怯えを刺激されたときに,著しい恐怖を味わうことになるだろうと想像されます。それに伴って,幼いとはいえ心の形態は既に備わっている赤ん坊は,襲い掛かる脅威に対抗するために母親の自我にとりすがるという原初の対人駆け引きを行い,かつ心を抑圧するという防衛手段を講じるだろうと思われます。必然的に,赤ん坊の無意識界には,自我の不当な抑圧を受けた無垢の心たちが集合体を作るのです。そこには不当な扱いを受けたものたちの怨嗟の声が満ちているといえるでしょう。それらの死の世界に追いやられたに等しい分身たちには,いつか自我によって改めて認められ,受け入れられる願いを持つもっともな理由があるのです。長期にわたってそれがかなえられないでいると(幼い子がこの作業をできるためには,両親の反省,手助けが欠かせないでしょう),これらの分身たちは,まとまりのある一つの勢力になります。それは心にできた怨嗟に満ちた沼のような趣があります。自我としては近づくと危険な雰囲気を持つのです。その沼の中心にあるのは,裏の自我と呼ばれるにふさわしいものです。表の自我と裏の自我の関係は,正と邪,善と悪,生と死,明と暗というふうに,真っ向から対立するものです。

表の自我は,生へと向かうエネルギーを司ります。裏の自我は死へと向かうそれを司ります。心には表層の生へと向かうエネルギーの河の流れがあり,深層には死へと向かう河の流れがあります。

人が何かの行為,行動をするときに,それに伴って無意識界からエネルギーが動員され(内在する主体によって送り出される),自我がそれを護ったかぎりで生へのエネルギーが受給され,護れなかったかぎりにおいてエネルギーは死への流れに合流します。一つの行為(行動)に伴って,二様のエネルギーの流れが生じると考えられます。

仕事で無理を重ねて心の病気になるのは,日ごとの仕事が自我に活力を与える(自我が引き受けているかぎり満足感が得られます)よりは,自我が受け入れ難く感じている度合いが甚だしいということになります。そのときに,仕事をするときに動員されたエネルギーは,より多く負の方に回ることになります。こういうときには休養が意味を持ちます。逆に無用に怠惰にしていると,自我はエネルギーを受給されないままになり,活力を失うばかりです。

自我が生まれてきたエネルギーを護り切れるとき,興奮に満ちた歓喜が起こるでしょう。科学者が待望の発見を目の当たりにしたとき,芸術家が霊感に触れたとき,競技者が力を出し切ったとき,恋する男女が恋を交わすときなどがそれに当たると思われます。

小学生のA君は,一時期,学校へ行けませんでした。最近は行けるようになっていますが,時には休みます。あるとき,学校で,広島の被爆者の戦争体験を聞く機会がありました。悲惨な話を聞いたあと,大好きだった肉を食べられなくなってしまいました。食べようとすると吐き気がするのです。

夜になると,お化けが怖くて一人で寝つけません。そんなものはいないと思っても,寝つくまで母親に傍にいてもらわないと安心できません。爆弾を投げつけられる悪夢に悩まされたりもします。

母親がやむを得ない会合があったとき,家で過ごすことができず,父親につきそってもらい,会合場所の近くで待つ必要がありました。

父親と母親が喧嘩をすると,母親に抗議します。父親にはできません。元々は,両親の口論が激しかったのですが,最近では母親も落ち着いて,自制することができるようになっています。

一般に,小学校に通うのは,まず社会から課せられた通過儀礼の一つという意味があります。課せられた学校状況を引き受けるのは,自我の役目です。自我が成熟して引き受ける意志を持つことができるようになれば,課せられたものという受身の姿勢から,自分が自分自身に課していくという能動的姿勢に転じていきます。このような心的状況であれば,母なる他者から与えられる満足感を,自分で自分自身にもたらすという重要な経験をすることになります。

自我が未熟な,より幼いレベルでは,幼児の満足感は主に遊びを通じて得られますが,それは(主に)母親によって補佐される必要があります。つまり未熟な自我は,母親のそれに依存して補強してもらう必要があります。無心に遊びに没頭しながらも,母親にその喜びを共有してもらうことが意味を持ちます。敢て母親を困らせることもするでしょうが,それは母親に喜んでもらう満足を求める要求と考えるべきです。それらのことは,母親への甘えの欲求を主軸とした行動といえます。原初の人間関係は,母親との関係であり,それは甘える満足をめぐってのことといえるでしょう。

小学生が学校に通うのは,自我がある程度成熟した年齢に達したときです。従って通学は欲求ではなく意志に基づきます。

欲求は無意識という心の内部の自然から送り出されてくるものです。自我がそれを受動的に受け入れるのです。一方,意志は,自我の主体性に力点があります。つまり自我がある計画を持ち,それに伴って個々の行動に必要な欲求(方向性を持ったエネルギー)を呼び出します。求めに応じて送り出されてきた欲求を,自我が護りとおすことで行為が成立します。それに伴って満足感が得られ,自我に活力が与えられると考えることができます。元気があるというのは,自我に(欲求を護ることにより)エネルギーが補充され,活力が保たれているということです。

意志に関して,ある行為の計画を立てるのは自我の役目ですが,いま述べたように幼い自我は両親をはじめとした大人たちの助けを必要とします。学校に通うことについては,本人の自我に任せるというわけにはいかないといえるでしょう。義務教育といわれるように,義務として課されたものであることが意味を持ちます。つまり多かれ少なかれ,意志的な心の仕事には苦痛が伴います。本人がしたいようにさせていたのでは,つまり意志の弱い子になってしまいます。天分も本人の気ままな欲求に任せていたのでは開花しないと思います。そのように他者によって義務として課されたものを,改めて積極的に引き受ける自我であれば,最も好ましいことになります。

躾けも含めて,教育には,以上のように,上位者である他者の関与が重要な意味を持ちます。

A君の不登校については,誰もが理解できるほどの問題が学校状況で発生したからというわけではありません。最近,午後から登校したときに,先生に,午前中は登校できなかった理由をきかれ,「鼻水が出たから」と返事をしました。すると先生に,「そんなことで休む子はいないよ」といわれました。A君としては,先生の言葉は心無いことになり,傷つきもし,怒りも覚えました。しかし,A君は答えに窮してそのような返事をしたのでしょうが,本当の理由はA君にも分からないのです。何か分からない理由で意志がくじけたのです。

これを先ほどの図式に当てはめてみると,学校へ行く意志を持つたのは表の自我です。そしてその意志を打ち砕いたのは裏の自我です。A君は裏の自我に引きずられて,心の沼に落ち込んだのです。

A君の夢からは,強いエネルギーを持った恐怖と怒りが,心の沼に渦巻いている気配が窺われます。母親から片時も離れられない不安の様子と重ね合わせると,それは見捨てられる恐怖に由来するもののようです。

(自我に拠って生きることを宿命とされる人間は,即座に闇(死)に怯えるものであることをも宿命づけられています。

心には生と死と,二つの極に向かうエネルギーの流れがあると考えられます。自我は専ら生の世界を切り開くものですが,その仕事を助けるために他者の関わりが不可欠です。そしてその欠かせない他者の介入が,自我が節を折る理由にもなるのです。

自我が正当に仕事をしたときには,生へのエネルギーが勢いを増し,他者の介入によって自我が節を折ったときに生へのエネルギーは供与されず,そのエネルギーは自我が護れなかった分身(黒い子)を作り出し,心の沼が広がります。この沼からは,死の極へと向かう流れがゆるゆると形成されることになるように考えられます)

A君は,自覚的には,母親がまさか自分を見捨てるなどとは考えていません。しかし内心では強く疑っているのです。その恐怖と不信とは,無意識界に抑圧されている幼児心性がもたらすものといえるでしょう。幼児心性としては,自己愛と自己を信じることとは母親を経由して可能になります。つまり未熟な自我は母親の自我を頼りにして,幼児的な判断をするのです。

幼児心性とは,ごく幼いころに,母親への恐怖心から自我が護れなかった欲求たちです。とりわけ満たされなかった甘えの欲求が,護ってもらえなかった不満,不信,悲しみ,虚しさ,恐怖などと共に,怒りと一体になって意識下に現に潜在しているものたちのことです。

それらは裏の自我とでもいえるものを首座として,強い勢力となって表の自我に圧力を加えます。その影響を受けて,生の世界を司る表の自我は機能不全に陥りがちになります。

見方を換えれば,傷ついた自己愛ということになります。自己愛という自我機構に内属すると考えられる(自己愛は習得されるものではなく,生まれ持ったものです。自己愛の健全な成長は,つまり心が健全に成長しているということです。しかし,生まれたばかりの自然のものは傷つき易いのです)ものが傷つけば,自己を正当に愛することができません。信頼する(自信を持つ)ことも困難になります。自己がそういう状況に置かれると,当然,他者愛も他者を信じることも難くなります。

先生に訊かれて,「鼻水・・・」の口実を考え,先生に,「そんなことで休む子はいない・・・」といわれて傷ついたのは,(表の)自我が引き受ける能力に欠けるものがあることを示しています。先生の自我は,その点,健全な状況にあるので,鼻水が出たくらいでは学校を休むとは信じ難いのです。一方,A君は,得体の知れないことに悩まされているのを察してほしいと思っているのでしょう。更にいえば,幼い子の自我が母親のそれに取りすがるように,先生の自我にも取りすがりたかったのだろうと想像されます。甘えといえば甘えですが,小児心性の支配を受けているのですから,ふつうの意味での甘えとはいえません。心の構造が病的になっている心的状況下での言葉にならない叫びが,甘えに似ていることのように思われます。

母親に十分には甘えることができなかったことに起因する幼児心性が,先生に母親代理の役を期待したようです。そこに介入できなかった自我は,先生の質問にあって,答えにならない答え方を探し出したということでしょう。それで引き受ける意志を示せず,頼りにならない自我を差し置いて,裏の自我に拠る幼児心性が怒りを表したのだと思われます。

A君が気になるのは,裏の自我が主宰する,不気味な’心の沼’の存在です。それは死の恐怖につながります。夜になると気になる幽霊は,その沼から立ち上がってくる名状し難い不気味なものが,イメージ化されたものといえるようです。

’心の沼’は死へと斜傾する心の川の流れにつながると考えると,病的な心理の理解に役立ちます。この沼の首座にあるものを裏の自我と呼ぶことは,同様に人間の心を理解する上で有意味です。

表の自我を彩る感情が生気感であるとすれば,裏の自我を彩るそれは怒りです。

たびたび述べてきたように,人の誕生は自我の誕生です。人は自我に拠って存在可能となるといえます。

誕生以前の世界を,自我に拠る人間が遠望するかぎり,全または無に見えると思います。そして自我に拠るかぎり,世界は生と死に二分されて現前します。自我は世界を二分法で捉えるのが特徴です。生と死をはじめ,全と無,自己と他者,男と女,条理と不条理,愛と憎しみなどなどというように。

自我の誕生によって生の方向が目指され,それは即座に死の方向が打ち出される必然の下に人はあります。このように心の川には,対立し,相互に相容れることなく矛盾し合うふた筋の流れができます。一つは生へと向かう流れで,一つは死へと向かう流れということになりますが,この川筋ができる心の形成の歴史の発端に母親が大きく関わっています。つまり甘える欲求を赤ん坊が満たされているかぎり,生の流れが勢いを持ちますが,それが満たされなかったかぎりで死への流れが形成されるのです。甘える欲求は生の方向での源流を形成するといえるようです。それだけにその欲求は強力なエネルギーを持っています。しかし二分法の原理の下にある人間の心には,それとは反対の流れができないわけにはいきません。それを形成するのは怒りと恐怖です。つまり心の川の死の流れがはじまる発端には,甘える欲求を上回るエネルギーを持った恐怖と怒りに竦み上がる体験があったに違いありません。それは甘える欲求を満たしてくれる母親その人によって惹き起こされるのです。それはつまり,見捨てられる恐怖です。この根源的な恐怖は,赤ん坊が全生命を要求することが,人間的な現実の原則に反することであるのを教える意味を持ちます。そして恐怖の陰にある怒りを抑圧することに伴って,死へと向かう川筋が形成されることになります。

このように人が生きる方向で可能性を切り開き,自己形成をはかろうとすれば,死へと向かう心の川の流路の存在を必要としているという甚だしい矛盾をも受け入れていかなければなりません。そしてその相容れ難い矛盾をもたらす源流のところに,原初の他者である母親が介在しています。それは心を形成していく上で,複雑に矛盾するものを抱え込む理由になり,悩み多き人生を作り出す理由となるものでもあります。人は単に優しくあることはできません。人が人と関わることによって,原初の恐怖と怒りとが刺激されるのは,いかなる場合でもむしろ避け難い話です。絶えざる矛盾,絶えざる葛藤を乗り越え,乗り越えしながらでなければ,人は人を深く愛することはできません。

心の病理的な諸現象は,表の自我の衰弱に伴ってのことであるのは論を待ちません。それは自我が白い子を護り切れなかった度合いの多寡と関係があり,死へと斜傾する心の川の流れが勢いを増していることを意味するでしょう。そしてついに表の自我が主導権を裏の自我に譲り渡すにいたったときに,心の病理現象が問題になります。その病理性は,社会性や精神性に欠けるものがある心の状況と同義です。いずれにしても人は,生きているかぎり表の自我に拠ります。裏の自我はこれを無視することはできません。社会性と精神性とを欠いている裏の自我は,表の自我を傀儡化して社会性の体裁を保つことになるといえます。

(犯罪者の心理となると,「人の衣装をまとった獣」といわれるように,裏の自我が積極的に表の自我を操っている様相と考えられます。そのようにして社会をあざむき,自己の欲得に積極的にかまける心の態勢が作り出されているのが,犯罪者の心理的特性といえるだろうと思います)

A君は,先生に,「鼻水が出たぐらいで休む子はいない」といわれて傷つきました。翌日,学校を休んだのはその証拠のようなものです。先生のこの言葉に,A君は怒りを覚えたに違いありません。その怒りは先生とA君自身とに向かったと思われます。先生に対しては,A君にも説明がつかない’本当の理由’を察知してもらえなかったためです。それは母親に分かって欲しいのに分かってもらえなかった,甘えたい欲求の存在がかつてあっただろうことをも暗示しています。また,答えにならない答えをした自分自身にも腹を立てたと考えて間違いはないでしょう。

結局,怒りは無力な自我に引き受けられることがなく,抑圧されたのです。そして自我によってまたしても引き受けられることがなかった怒り(それは,はるか昔,見捨てられる恐怖体験によって抑圧された怒りに淵源を持つものでしょう)が,改めて怒りの沼を刺激して,A君を押し流そうとしたのです。学校に行くというのは,生きる方向での心の川の流れに乗らなければなりませんが,逆の動きをする川に引きずられたといえるのです。

怒りをどう扱うかは,すこぶる重要な問題です。怒りは,いわば黒い子たちのものなので,自我の介入がなく表に出れば,つまり憤怒ということになります。対人関係を破壊する動きになります。抑圧すれば怒りの川の勢いをつけることになり,意気消沈することになります。

自我が介入(引き受ける)するのでなければ,いずれにしても自己を窮地に追いやることになります。自我が介入するということは,いうならば黒い子たちを代弁する意味を持ちます。つまり,その存在を自我が認めたことを意味します。それは自我がしなければならない仕事なのです。そして自我が仕事をするかぎり,心は健全であるといえます。

更にいえば,怒れる川が勢いを増している心の状況では,自我は,その流れの始原にある見捨てられる恐怖(と潜在する怒り)に怯えた記憶を蘇えさせたように,凝結してしまう傾向を持つようです。

A君に先んじて受診したのは母親でした。母親の両親の問題があり,そのころ母親は怒りに駆られる人でした。そのあおりで夫婦喧嘩がしばしばあったといいます。恐らく,幼い時代のA君は恐怖心に怯えていました。満足感と安心感が不足していたのに違いありません。それは甘えを通じた母と子の関係が望ましいものではなかったことを意味するでしょう。

表の自我は生を志向し,裏の自我は死を志向すると先に述べました。

A君についてこのことを見てみると,赤ちゃん時代の母との関係が第一に問題になります。持って生まれた気質はともかく,養育環境としては母親がすべての時期がしばらくつづきます。それは赤ちゃんといえども,人間として生を受けたからには,死の問題に無縁であり得ないということに関係します。

先にも述べたように,人間は自我に拠って存在可能であり,その自我は世界を二分割して捉える特徴を持っています。その淵源は,人間の存在以前の世界を,自我は生と死との二つに分割して現前化するところにあるように思われます。

赤ん坊は人間として生を受けたときに,死を垣間見て怯える者でもあらざるを得ません。そのために赤ん坊は,母親に全を要求するのです(生誕以前の状態への回帰の要求ともいえるのでしょう)。それは母親を支配しようとするのとおなじ意味を持ちます。赤ん坊は怒りくるって泣き叫び,母親に要求を呑ませようとすると思われます。そうすることによって,万全の安心を手に入れようとするのです。安心がなければ満足はありません。満足感と安心感とは一体のものです。

しかし母親は全なるものではありません。母親には赤ん坊にそれを教える役目もあります。それは無意識的にであれ,死の存在を教える意味を潜ませることになるのです。

意識的には母親は,赤ん坊に死の存在を理解させようなどとは夢にも思わないでしょう。一所懸命に赤ん坊に愛情を注ぎ,可能なかぎり赤ん坊を怯えから護り切りたいと願うと思います。しかし,母親は全なる存在であるのを教えるしかありません。それは母親が,赤ん坊に死の存在を教えないわけにはいかないのとおなじ意味になるのです。そのことは,むしろ母親にも意識されていないはずです。母親自身もそのようなおぞましいものは見たくもないのです。しかし,いわば心の自然のプロセスとして,思わずそれを教えてしまうのです。それは避けるわけにはいかないものであり,避けてはならないものでもあります。

死の存在を赤ん坊に教えるのは,母親の怒りによってです。全的な存在ならぬ母親が,赤ん坊に対してといえども,怒りを一掃してしまうことは不可能です。そしてそういうあるときに,全を要求する赤ん坊の激しい怒りが,母親の顔に投影されて跳ね返ってくることがあるだろうと想像されます。それを感じたときに赤ん坊は,死を垣間見ることになるだろうと思われます。そういう折に,母親の顔が悪鬼の表情に見えるのかもしれません。実際は悪鬼のように怒っているのは赤ん坊の方なのですが,母親の顔にそれが投影されるのです。赤ん坊が見捨てられる恐怖を持つのは,そのときだろうと推測されます。そうなると怒りが恐怖に変わり,今度は母親を怒らせないように要求を自制するようになるでしょう。全生命というものはない,従って生きることには死が含まれていると身をもって知ることはどうしても必要なのです。そのことは人間が人間の現実世界を生きる上では,どうしても受け入れなければならないのです。しかしこの恐怖の度合いが強いと,必要以上に甘えることを断念してしまうようになるかもしれません。恐怖の度が強ければ,幼い心の自我は母親を怒らせないために,生まれてくる諸欲求を抑圧する傾向を強めることになるでしょう。それはいうならば心の負債を大きすぎるものにしてしまう理由になります。誰であれ心の成長過程でこの意味での負債を負います。それは程度の差はあっても避けることはできません。そしてその心の負債を自我が返済していくことが,いわば人生の目標であるとさえいえます。そのようにして人は成長していくのです。しかし負った負債が甚だしいものであれば,よほど強靭な自我でなければ,返済は困難になります。返済が困難であるということは,その重荷に押しつぶされる可能性が高まるということでもあります。そのままでは自我が無力になり,生命感情を豊かに育てていく上で大きな困難を持つことになるだろうと推測されるのです。

甘えがどの程度満たされているかは,母親との関係の良し悪しを占う道標になります。そしてその後の人間関係をも占う道標となります。甘えられない母親との関係では,自分は愛されていない,嫌われている,価値がないといった考えに囚われることになり,それは自己愛が傷ついていることを意味します。そして他者についても疑い深くなり,愛情を持ち難くなると懸念されます。

幼児期には活発に欲求が生まれてきます。それは内在する主体が送り出してくる,いわば神の子と考えることができます。自我はそれを護る使命を帯びています。それらのことは自然のものとして起こるでしょう。しかし幼い自我が諸欲求を護るためには母親の協力を欠かせません。すべては乳幼児と母親との関係の基調である甘えに還元されるのです。つまり甘えが満たされている関係であれば,幼い子の心に生じたさまざまな欲求は,おおむね自我に受け入れられ,護られるでしょうが,満たされ方に問題があれば自我によって抑圧される傾向が強くなりがちでしょう。

いたずらなり何なり,幼い子が何かをするときは,母親に認めてほしい心が付随します。それは甘えに他なりません。自我が発達した年齢であれば,何らかの行為を楽しみ,評価するのは自己自身でなければなりませんが,自我が未発達な幼児としては,母なる他者によって支えてもらう必要があるのです。

このようにして,護られなかった神の子は,自我に生気感をもたらすはずだったエネルギーを,怒りのそれに換えて無意識の世界のものとなります。そういう影の分身たちが,無意識界に不気味な沼のようなものとなって勢力を張ります。それは自我によって受け入れを拒否されたものであり,従って生の世界のものとしては認められなかったものたちです。つまりそれらは死を志向する勢力です。そして生を志向する心の首座にあるものを表の自我と呼び,死を志向する心の首座にあるものを裏の自我と呼ぶことが,心の病理的現象を理解する上で有益です。

裏の自我は,既に証明されている脳中枢にある怒りの座に,一つの根拠を持つだろうと推測されます。

A君は,他人に対して過敏です。人と争うのを好まず,誰とでも仲良くしていたいと思っています。母親によれば,友達は男女を問わず大勢いるそうです。しかしA君は,’真の友達’はいないと思っているようです。

A君が望む’真の友達’とは,「揺るぎのない心の支えになってくれる友人」,といったもののように思われます。そのような友人に出会える可能性はあるでしょうか?ない,というのが私の答えです。

A君がもとめる’真の友人’というのは,恐らく’全’をもとめる乳幼児の心に通じるものです。つまり乳幼児が,母親に対して持つ支配欲求に通じる心性といってよいだろうと思います。その心性は乳幼児に特有のものです。言葉を換えれば,心の成長過程で克服していなければならない心性です。この支配欲求は,闇(死)への怯えを一掃したいという願いです。母親にはそれを可能とする力があるという幻想を,赤ん坊は持っているようです。つまり赤ん坊にとって,母親は’全なる者’なのです。誕生したばかりの自我は,生を引き受けるべきものですが,生(光)の裏面である闇(死)に過敏に脅かされると想像されます。赤ん坊の萌芽でしかない自我は,その脅威によって破壊されかねないので,防護装置として万能感が備えられていると想定されます。それは自我に拠って世界が二つに割れたこと(生の世界と死の世界),自我の誕生以前の世界が’全’であることを暗示しています。万能感とは,全的な存在への幻想であるということができます。

ところで母親と一体の関係にある赤ん坊には,自分に’全なる力’があるのと,母親に’全なる力’があるのと区別がつきません。赤ん坊に,自分が’全なる力の持ち主である’という大安心を保証してくれるのは,’全なる力’を持っているはずの母親です。そして一方では,闇に絶えず脅かされることによって,母親が自分を護る気がないのではないかという猜疑心に囚われると思われます。赤ん坊は怒りをこめて,母親を支配しようとすると想像されます。全面的な支配を欲するのは,それが可能であるとする幻想があるからに違いありません。そして全的な大安心を提供する力があると幻想するからこそ,’未だ与えられていない’ことに激しい怒りを持つのです。そしてまたそこには,相手方である母親にそういう力はないのかもしれないという予感もどこかしら働いているに違いありません。あるに違いない,あるはずだという要求は,既に半分は疑惑なのです。疑惑がなければ要求は起こりません。そしてその疑惑の一部は,(母親が)持っているはずなのにくれようとしないというものでもあるだろうと思われます。それは自分が大切に扱われていない,愛されていないということに直結します。生死がかかっているこの要求は,ほどほどのものでは満足されることはありません。ですからきょうだいの中でも,自分が第一等でなければならないのです。そして,それは相手方(母親)が全なるものではないという恐怖に満ちた予感と,一体感の破綻の予感とに脅かされてのことのようにも思われます。

いずれにしても相手(母親)を完璧に支配しないかぎり,真の安心はありません。そしてその大安心幻想があるかぎり,小安心に甘んじることができません。その幻想の下では,全部でなければ無に等しいのです。つまり人間は小安心に甘んじることができなければ,無の感覚に脅やかされることから逃れることができません。

これらの恐怖は,母子分離の恐怖でもあります。

小安心に甘んじることが出来るようになるには,大安心幻想を捨て去ることが不可欠です。それは母親が全的な存在ではないことを受け入れることによって可能となります。その意味のある諦めは,見捨てられる恐怖をうまく克服できたときに生じるでしょう。この根源的な恐怖は,人間が人間であろうとするときの最初で最大の関門です。それを克服できれば,母親を現実的なものとして受け入れることができます。つまり,互いに小安心に甘んじなければならない頼りない身分であること,従って互いに助け合うことが必要である(信頼と愛情とによって)こと,大安心はないと知ることによって,自分で自分に小安心を提供しつづけることが求められていること,母親と自分とは支配ー被支配によって全的に一体化するべきものではなく,相互に分離ー独立した存在であること,従ってそれぞれが人格という個的な存在であり,それぞれに自由であること,などなどが自然のものとして受け入れられることになります。

そして一方,この恐怖をうまく克服できなかったとすると,母親が永遠に全なる人であるとする幻想から逃れることができません。その幻想に依拠することによってのみ存在可能なので,もらえるはずの大安心を当てにして母親にしがみつくことになります。それは,当然,母親を信頼している姿ではありません。信頼しきれない姿です。その不信の根源にあるのは,見捨てられる恐怖です。

大安心を諦めきれないでいる心と,小安心に甘んじることができている心とを分けるのは,おそらく見捨てられる恐怖を幼い自我がどう扱ったかの問題です。前者の自我はこの恐怖を克服する術がなく,一途に抑圧したと仮定されます。そのとき母親は死に匹敵する巨大な恐怖をもたらすものです。その恐怖はそれに匹敵する怒りの存在(当然与えられるはずである大安心を与えられない怒り)に関連するでしょう。自分の怒りの巨大さに恐怖を持つともいえるだろうと思います。そしてその怒りの巨大さは,一対の相手である母親の怒りと区別がつかないのです。それらの恐怖と怒りは,無力な自我が引き受けられるものではないときに,強力にそれらを抑圧して母親の自我に拝跪するのです。そのようにして,巨大な恐怖をもたらすものの怒りを鎮めようとするのです。

大安心幻想は乳幼児のものです。長じてなおこの幻想の支配を受けている自我は,個の確立が不確かであることになります。その幼児心性の下では,勝手な行動は取っても,自由に行動することは困難になります。そもそも自由に生きるという意味が感覚的に分からないという人が珍しくありません。この幼児心性の下では,他者の自由は脅威でありつづけるのです。別ないい方をすると,どうしてみても闇の脅威におびやかされるのです。

自由の精神とは,自分自身の自由のみならず,あれこれの他者の存在をそれぞれの個として,それぞれに自由であると尊重することができているときに可能です。それは大安心幻想をあきらめ,小安心を受け入れることができている個性に対する別な呼び方といえます。

A君が友達たちの些細な悪意に脅威を覚えるのは,友達の自由を尊重することができないためといえます。人の自由を’真に尊重’できないかぎり,人を’真に信用する’ことはできないはずです。母親をさえ信用できません。というよりは母親との関係で個の確立が不確かであること,それは同時に母親の自由を尊重することができていないことに,この問題の核心があります。

母親が自分を捨てるとは考えられなくても,不慮の事故に遭わない保証はありません。病気で命を落とすことになる可能性を排除できません。それらの不安を一掃するためには,赤ん坊のように母親と一体化するしかありません。否,赤ん坊もこの不安から免れることはできません。赤ん坊以前,自我に拠る世界が現出する以前の世界のものになるしかありません。それは絶望して死を望む心に他なりません。

見捨てられる恐怖の克服に失敗して,完璧な他者,全なる他者を求める大安心幻想の支配を受けているかぎり,心の平穏は困難です。

A君の’すべての人と仲良くしていたい’という願いには,このような心理的な意味が隠れていると思われます。だからA君が心の平穏を獲得するためには,友達たちの個と自由とを容認することができなければなりません。それは,死の存在を容認できることとおなじ意味になると思います。つまり生の裏面は死であり,対立し相容れない矛盾である両者を共に許容できなければなりません。死という現実問題を受け入れることができるときに,ようやく生と死との矛盾を生きる力を得るのです。そのときに,相容れない矛盾を止揚する心のダイナミズムが生まれてくるのです。

人間の意識は有限のものです。しかし人間は無限性を生きる存在です。仮に有限性を生きるのが人間であるとすると,生きる意味はほとんど失われるでしょう。ある有限の時空にいたって人生が,あるいは自己の形成が,完成し,自足するという事態は想像できません。

無限性を生きるというのは,生と死という相容れることのない永遠の対立が,姿をさまざまに変えて現れ,そして超克されていく意識のダイナミズムを生きるということです。それは生があるかぎり死があり,それが対立し合うかぎり,無限定に上昇しつづけることが可能な意識のダイナミズムといえます。

ここにこそ人間精神の自由の実態があり,それは幾分か比喩をまじえていえば,人間精神が無限の時空間を縦横に飛翔する姿であるといえます。

精神の自由の問題は,次のように考えることが可能です。

赤ん坊の生みの親は,いうならば二人います。

一人はいうまでもなく母親です。そして’もう一人’は,人間に自我を授ける力を持ったものです。それは人間以上の存在と考えないわけにはいかないものです。自我を授与した人間の上位に立つものは,以下のような意向を示していると考えることができます。

「自我に拠って思うように生きてみよ」と。

そしてこの上位者は心の無意識界に鎮座(内在する主体)して,沈黙のうちに自我の活躍ぶりを注視していると考えられます。

一方,母親はこれに対して,「お母さんを安心させるような子になりなさい」という暗黙のメッセージをもって育児に当たるだろうと思います。そしてそれは愛情といえる面と,母親の私心といえる面とがあって当然でしょう。

自我は生に奉仕するものですが,赤ん坊が生まれて間もない早期の段階では,母なる他者の絶対の補佐を必要とします。自我の生誕は光の世界の幕開けです。しかし,赤ん坊の未熟な自我は自ら活動する力を持ちません。母親の補佐(愛情)を受けて,自我の原基が刺激され,徐々に自ら光を発する力をつけていくのです。このような光の黎明期(乳児期)では,闇(死)の存在に殊更に脅かされると思われます。自我が自律機能を活発化させて人生を切り開く力を得るまでは,母親の愛情によって保護されるのでなければ,自我は立ちすくみ,いわば凍りついてしまうことでしょう。

自我は自律機能によって生を志向しますが,抑圧機能によって自律性を阻害します。前者は主体の命に基づこうとする機能であり,後者は他者の意向を重んじようとするときに働く機能といえます。抑圧機能は他者を前提としたものです。つまり自我には他者への配慮が構造化されています。

自我がそれなりに成熟して自律機能が活動しはじめてからも,いうならば無化される脅威に対抗するために,自我は他者との関係を不可欠なものとしています。自我の機構には,他者のイメージを生み出す機能が内属していると考えられるのです。そのために,他者は客観的に外部に存在するだけではなく,内なる他者として自己の内部の無意識界にも存在しています。

ですから他者との関係を必須のものとしている自我には,抑圧機能は,(自己を護るために)欠かせないものです。それは生死を分ける問題に関わるものでもあるので,自律機能以上に重要ともいえます。しかし自律機能が不十分であれば,自己の好ましい育成は望めないことになります。自己は他者に見放されても,自己自身に見放されても立ち行かなくなるという難しい問題をかかえているのです。

自己の自己自身との関係が好ましい形になっていれば,それは主体との関係が良好ということになります。そのことは誰もが目指すべき理想でしょう。そしてその関係を混乱させる元凶は,他者の介入,他者への行き過ぎた配慮です。それは主体との関係を中心にしてみると,巧まざる自我の堕落といえるものがあります。幼い自我にそのような要求をするのは無意味ですけれど,心の内部の事情を主体の観点からするとそのような意味になるように思われます。それは自己形成の上で犯罪的ともいえる結果をもたらしかねないのです。心の内部の法廷で有罪判決を受けたかのように,人生が地獄化することは決して珍しくはありません。

自我は,あちらを立てればこちらが立たずという難しい舵取りをしなければなりません。生誕につづく原初の段階では,全面的な他者(母親)の補佐を必要としているといういきさつから,自我が不始末を起こす状況的素地は十分過ぎるほどにあるのです。それは避けることができない人間の宿命であるといえます。そしてその幼い自我の避けられない不始末によって,’心の沼’が生み出されるのです。

’心の沼’は,,破壊的な力を蓄えた影の分身たちが,いうならば跳梁跋扈する闇の世界です。自我に脅威を与えるほどに,怒りを伴う破壊的な力を蓄えてしまっている’心の沼’がそのままに放置されていれば,ストレスに大変弱くなります。場合によっては,さまざまに由々しい人間の不幸,悲惨を招き込む,心的事態に陥ることにもなります。

自然的な自我が,内在する主体との接触を妨げられ,節度が曲げられるのは他者の介入によってです。

主体との関係を見失うのは,他者の介入による自我の不始末といえる側面があります。しかし圧倒的な力を持つ闇(死,無限,無であるものに繋がるものです)に包囲されている自我は,あまりに頼りなげな存在です。たちどころに無の闇に飲み込まれ,無化されてしまいそうな脅威の前に,自我は他者の力を当てにするしかありません。このような事情があるので,人間を頽落させるのはしばしば人間自身であるという無残な悲喜劇が,人生のここかしこに見られるのです。

自我が抱える難題は以上のようですが,総括的にいえば次のような問題があります。

自我に拠って生の世界が始まり,それは同時に死の世界の始まりであると繰り返し述べました。それは,自我の使命が,「死を課題化せよ。死に向って希望の光を掲げつづけよ」という難解極まりないものであることを意味します。人間の常識では理解不能の課題を,自我は負っています。禅問答の極みのような話です。

患者さんはしばしば,「何のために生きていなければならないのか?何故死んではいけないのか」という問いを持ちます。

それに対する答えは,「人間は自我に拠る存在だから。自我は引き受けるのが使命だから」ということになるのでしょうが,難問であることには変わりありません。

自我の使命は人生を切り開くことであり,自己を形成することであり,生きていくことです。ですから死は自我の終焉とともにあります。死によって生が終わるという意味では生は有限です。しかし生は単純に生ではなく,絶えず死をはらんでいます。

失敗の危険のない試みはありません。必ず成功すると決まっている試みはありません。成功は自我の勝利,つまり生の世界での営為です。失敗は自我の不始末,つまり死の世界への斜傾ということになります。

大冒険は死の危険と隣り合わせの行為です。スポーツ選手の新記録は,身体を極限まで鍛え上げる(身体を壊しかねない)ことなしには得られません。芸術作品は心の闇の表現です。科学者の大発見は失敗すれば一切が瓦礫化する怖れと共にあります。

死を賭けない成功は大したものではありません。そして大成功があっても,すぐに虚無の影が忍び寄ってきます。

精神の充実は自我によってもたらされますが,それは死(無)による意識の無化作用を一時的に沈黙させることができたに過ぎないともいえるでしょう。それは永続するものではなく,充実の獲得と共にすぐさま無の無化作用に脅かされるので,自我はひと休みしたあとは次の仕事に取り掛からなければなりません。

癌に侵されるなど死期の迫った人については,先に述べた「死に向かって希望の光を掲げよ」という主題はどうなるでしょうか。しだいに優勢になっていく死の無化作用は,自我の回収作業ともいえ,自我自身は従容として身を任せるしかありません。それは最終的な生と死の合一に向かっての回収作業といえるのでしょう。

臨終に当たって,「これでいい,これでいい・・・」という言葉を残した偉人の逸話が伝えられています。「これでいい」かどうかの判定者は誰かという問題があります。仮につぶやいた人自身であるとすると,単なる自己満足の域を出ず,強がりと区別がつけられません。しかし内在する主体の支持にもとづくものであれば,それは人生の達成というものに等しいかもしれません。そしてそれは自我の回収作業に携わる主体でもあるかもしれません。

いずれにしても死は人間の手に負えるものではありません。そこから先は,人間の上位者に任せるしかないというのは自明のことです。死刑,自死,安楽死などの問題の根本にはこのことがあります。

人間が存在する根拠は人間自身にはありません。つまり人間が最上位者ではないのが明らかである以上は,最上位者の存在を認めないわけにはいかないでしょう。自我がその者の存在に拝跪するのは当然のことです。その姿勢が,つまり,引き受ける精神です。謙遜は引き受ける精神の別称といえます。

自我に拠らない人間の上位者が,自我に拠る人間に向けて立てた問いが,人間の眼には先に上げた究極の矛盾のようなものに映るといえるのでしょう。

また,この解き得ない矛盾のような問いを負うのでなければ,人生はひどく詰まらないものになるでしょう。解き得ない矛盾に見えるからこそ,人に与えられた可能性は無限なのです。矛盾し合う二つのものを止揚しつづけることが未来を開くのです。それは生きているかぎり終わりのない展開です。そういうものを想像するのも困難ですけれど,仮に一切が有限の世界であるとすると,人生は永遠の退屈になるしかありません。

自我は自立を理念としています。しかし自我は内在する主体に絶対的に依存しています。主体が自然の属性を色濃く持っているのに対して,自我は人間を人間たらしめるものであり,人間が自然から乖離され,独自の存在形式を許された象徴ともいえるものです。従って自我の自律性は,自己を保ち,世界を切り開くために欠かすことができないものですが,それが健全に機能するのは,主体との依存関係が良好に保たれていることがあってのことです。

また,自己は他者とのあいだでも絶対的な依存関係にあります。それぞれの自己は,現実界の他者を排除して孤独に生きることは可能ですが,心の構造には内なる他者が構成要件の一つとして存在しています。そうでなければ,他者は異星人のように不可解な存在であることになるでしょう。内なる他者が心の構造に生まれつき組み込まれているので,他者を外なる自己として,異星人に対してであれば感じないであろう親しみの情をもって容認し,理解することができるのです。

また,それぞれの自己は,そのときどきの対象との関係において存在しています。その関係の連鎖の先には,他者が介在してきます。

要するに自我に拠る自己は自立を目指しますが,それはなにものかとの依存関係においてであるというのが,人間存在の特徴です。人は,本質的に依存的な存在です。

依存には好はましいものと好ましくないものとがあります。好ましい依存は,主体との関係が良好であるというところに行きつきます。それがあれば,いわば自己の軸は心の中心を貫くことになり,いってみればダルマ的な存在になることができます。つまり,何かのストレスに負けて心がグラリと傾いても,速やかに心の姿勢を回復させることができます。そうであれば他者との関係も自由になります。主体との関係がしっかりしていれば,孤独であることが脅威にはならないからです。

好ましくない依存とは,逆に主体との関係が危うい場合です。先の比喩に従えば,心の軸が中心を大きく外していること,換言すると,(主に)母親への隠れた依存が無視し難いことを表しています。それに伴って’心の沼’が強いエネルギーを抱えていることを表しています。

自我の抑圧機能が過度に働けば,自律機能を歪めることになるので,’心の沼’が勢力を強めることになります。そうであれば他者への依存が過度になるか,逆に拒否的になるかということになるでしょう。他者にも,自己にも信頼がうすくなります。孤独であることに耐え難いか,シェルターに避難するかのような孤独になるか,いずれにしても他者に対して自由になれません。

そもそもが,表の自我による人格は精神性と社会性とを備えています。これに対立する形である裏の自我は死を志向します。表と裏との相対関係で前者が劣勢になれば,それに相応して,虚無感に囚われ,あるいは非社会的ないしは反社会的という性格が色濃くならざるを得ないといえます。

過食症は好ましくない依存の一つです。つまり裏の自我に支配された表の自我の依存的な営為です。こういう問題が起こるのは,人格形成の最早期に,情緒的な満足が得られなかった何らかの事情があったためではないかと推測されます。想起するのは不可能であるほどの人生の初期に何があったかは分からないのですが,情緒的な満足が得られなかった理由は,主に養育の中心である母親との関係に求められるだろうと考えるのが自然というものです。情緒的な満足は,自我の根が無意識という大地にしっかりと下りていない乳児には,欠かしてはならない大切な肥料です。それを求めるのは本能的なものと思われますが,一方で乳幼児には見捨てられる恐怖というものがあります。これは他者への絶対的な依存を必要とするかぎり,生き死ににかかわるもので,根源的といえるほどに強力なものだろうと思われます。

生まれたばかりの赤ん坊は,なにはともあれ人間の誕生です。その意味は,これからは自分の力で生きていきなさいということです。赤ん坊は極度に感覚的な存在だろうと思われますが,その意味は分からなくても感覚でそれを捉えるのではないでしょうか。母親のお腹の中にいるときの自然的な状況から,あるときいきなりお産という形でまったく異なる環境に放り出された驚愕は(大人の感覚での類推になりますが)並大抵のものではないだろうと思われ,その恐怖は甚だしいものだろうと推測されます。その恐怖を和らげるお守りが万能感と呼ばれているものです。それは母親のお腹の中にいたときの安全感覚を,保障しようというものでしょう。

万能感と呼ばれているものは,E・ノイマンが次のように述べていることに通じるものがあると思います。

「人類の生まれつつある自我意識の最初の何段階かは,ウロポロスの支配下にある。これは自我意識の幼児期であり,もはや胎児ではなく,すでに独自の存在となってはいるが,なお円の中にいて,まだ円から出ておらず,ようやく円から自らを区別しはじめた段階である。・・・世界は周りを取り囲んでいるものとして体験され,人間はその中でとぎれとぎれに,瞬間的にのみ自らを自らとして体験する。・・・幼児の自我が,ほんの一瞬無意識の薄明の中から小島のように浮かび上がったかと思うと再び無意識の中に沈んでしまうように・・・偉大な母なる自然に守られ,抱かれ,支えられ,あやしてもらい,そして善きにつけ悪しきにつけ彼女に身をまかせきっている。

・・・世界が保護し,養うのであって,彼・人間が意志し,行為することはほんの稀にしかない。無為,無意識の中に抱かれていること,すなわち必要なものがすべて偉大な養母(原母)から絶えずこんこんと湧き出してくるような尽きざる薄明の世界,これこそ原初の’至福’状態なのである。・・・ウロボロス近親相姦における一体化は心地よさと愛を特徴とするが,これは能動的なものではなく,むしろ溶け込み吸い込まれようとする試みである。・・・快楽の海と愛による死の中で消滅することである。・・・死は・・・すなわち母との一体化というウロボロス近親相姦の特徴をおびている。・・・人間の意識が自らをこの原深淵の子とみなすのは正しい。・・・そしてこの意識は毎晩眠りの中で太陽と共に死んで,母なる無意識の深淵へと沈み,帰っていく。そして翌朝再生し,昼の運行を新たに始めるのである]

胎児の段階と赤ん坊として生まれる段階とのあいだの落差には甚だしいものがあり,その激しさを和らげる何らかの機構がなければ生存に耐えないだろうと推測されます。その機構が万能感といわれるものであり,具体的にはE.ノイマンが記述するようなことではないかと思われます。

この万能感を具体的に保証する役割を担うのが母親です。しかしいうまでもなく母親は,ほどほどの満足をしか与えることができません。赤ん坊は,万能欲求をしばしば裏切られ,失望する宿命の下にあります。「この人は,本当に凄い力を持っているのだろうか」とか,「この人は凄い力を持っているのに,なぜ私にそれを与えてくれないのだろう」といった不信,疑惑に,怒りと共に囚われることでしょう。それらが見捨てられる恐怖の母体となるのだと想像されます。

そういう折も折,過敏な赤ん坊が,何らかの御し難い恐怖に捉えられるということがあれば,情緒的な満足を求める生きる本能(自律機能を育てるために重要です)よりは,捨てられることの死の恐怖の方に圧倒されるのではないかと思われます。赤ん坊は,いわば沈黙して,母親の自我にしがみつくことで,危機を回避しようとするのではないかと考えられます。母親の自我の傀儡となることで,見捨てられる恐怖を鎮めようとするのです。それに伴って情緒的な満足は抑圧されることになります。

これらのことは,あらゆる乳児に起こる心的過程だろうと思います。自然ならざる人間は,このようにして他者の介入を必要とし,それによって,程度の差はあれ自然性を歪められることになるのです。

あまりに幼いときは母親は絶対者ですから,乳幼児たちは服従する以外にありませんが,成長するにつれ,しだいに自己主張がはじまるのが自然です。それは親子の関係で蓄積されてきた,いうならば歪みエネルギーが,いずれどこかで放出されずには置かないという意味合いを持つ自己解放の動きです。それによって親子関係の是正,修復が目指されるのです。

これまでに述べたことから,人間の誕生にはいわば’二人の親’が関わっていると考えることが,精神構造を理解する上で有用です。第一の親は,自我を授ける力を持った’人間の上位にあるもの’です。そして第二の親は,ふつうの意味での母親です。このような考えが可能であるという前提に立てば,真の親は前者であるのはいうまでもなく,後者はいわば前者から仮託されていると考えることが可能です。

前者は,「自我に拠って自由に自己を導くように」という意向を示し,内在する主体として,無意識的な心の世界で沈黙のうちに自我の営みを見守っていると考えられます。

後者は,二つに分離,対立する特徴を持つ自我に拠るものの宿命として,二心を禁じ得ません。つまり,立派に成長してほしいという当然の願いを母親は持ったとして,そこにはそれが赤ん坊に対する愛情である一方,母親自身を安心させて助けるようにという私心も入らないわけにはいかないのです。

前者が沈黙のうちに見守るとすれば,後者は良くも悪くも有形無形の口出しをすると考えてよいと思います。無形の口出しというのは,超自我の関与ということになるでしょう。

先にも述べましたが,自我領域にはいわば三つの山(立場)があります。

中央に位置するべきものが自我です。この自我と重要な他者(性格形成の初期ほど重要な意味を持ちますので,この重要な他者とはほとんど母親であるといえます)との関係で,必然的に派生されてくるのが,一つには超自我の山であり,一つには黒い子たちの山ということになります。そして無意識界にある沈黙する主体の沈黙する関与があります。

(過度によい子と,非社会的,ないしは反社会的な行動を取る子とは,対照的な心の病理現象と考えることができます。前者は無力な自我が超自我に絶対的に服従する心的構造下にあると考えられます。一方,後者の自我も無力であるのは前者とおなじですが,違うのは超自我もまた不在であるかのように未発達でいるらしいということです。そして後者の自我は黒い子たちの支配を受けていると考えることができます。

このことは,両者の自我が共に主体の意向に即することができないままでいること,そのために自己形成が病的なレベルになっていることを示しており,前者の超自我がいびつに大きなエネルギーを持つに至っていること,後者では黒い子たちがいびつに大きなエネルギー持ってしまっていることを示しているように思われます。これらの三つの山のどれが勢力を持っているかが,人格構造の基本的枠組みを決定的にしているといえるでしょう)

前者の命に沿うときに自我の自律機能が機軸になり,後者の命に沿うときに自我の抑圧機能が作動することになります。

赤ん坊にとっては母親はいわば神に匹敵します。その神なる母親は,赤ん坊には,自分に向けられた愛情に関しては何よりも心強く,しかし母親の私心に関してはそむくことの許されない恐るべき者といえます。

そのような事情から,幼い子の自己形成は,主体による第一の命題(自由に生きる)から大いに遠ざけられることにならざるを得ません。それぞれの心は,大いに歪まされながら自己形成が進行する宿命の下にある,それが人間である,といえます。

Bさんは50代の主婦です。近くに80代の母親,妹,二児の親である別居中の一人娘がそれぞれ住んでおります。Bさんは癌に侵されている夫と二人で暮らしています。酒好きの夫はあまり家庭を顧みなかったようで,夫婦の関係は以前からうまくいっているとはいえません。夫が勤めていた会社は倒産しました。取締役であったために保証金を差し出してあり,それが返ってこない上に,当然ということになりますが退職金はありません。夫への不満が高い一方で,夫は病気のためもありかなりわがままで,愚痴も多く,その相手をすることは容易ではないようです。

長女は十代から我がままのし放題というふうでした。実はそもそもは,当時十代だったこの長女が私のところに通院しており,途中から母親も通院することになったいきさつがあります。

長女が夫と別居生活に入った当時は,Bさんは,母親(父親は既に他界しています)が暮らす実家の敷地にあった小さな古屋に住んでおりました。

Bさんは,最近にいたるまで,母親のいいなりになってきたようです。母親は世間体を重んじる人のようで,Bさんが自分の家を持っていないこと,婿が失職していること,貧困であること,長く通院をして薬を飲んでいること,長女が婚家から帰ってきていることなど,ことごとく気に入らないようです。次女も母親のいいなりのようで,母親の命を受けて何かと言い募ります。そしてしばしば母親自身が罵倒します。Bさんが顔を出さないからといって腹を立て,夕方に雨戸を閉めに行くと,余計なことをするなといって怒ります。夕食のおかずを持っていっても受け取ってくれず,持ち帰ることもしばしばです。

家を出て行けと何度もいわれました。しかしBさんは母親の側を離れるのが不安でした。自分が困るというのではなく,母親が心配だと思えたのです。それでもようやく母親と別れて暮らす決心をしました。夫がまた,そこを離れて住まいを探すことに反対しつづけていたのですが,何とか説得しました。

マンションの一室に移り住んで一息ついたころ,孫達が騒ぐのがうるさいと苦情がきました。また引越しをしました。長女は当然のように一緒に住むと決めていましたが,今度は部屋が狭くてとても無理でした。それに30歳に近い年齢で,親に寄りかかって気ままに暮らそうとするのを黙認するのも問題です。強くいって,可能な援助はして,住居を別にすることになりました。そして悪態をついていた長女も,何とか仕事をする気になりました。しかし幼い孫の面倒をみてあげなければなりません。長女にとってはそれは当たり前で,感謝することでは決してありません。機嫌がわるいと,手伝いに来ている母親を激しく罵倒します。

マンションに移ってからも,相変わらず母親と,母親の手先のようになっている妹に責め立てられます。長女が婚家に帰ろうとしないのは親の責任だから,何とかしろといわれます。

Bさんは,もともと依存的な性格の上に,まったくの孤立,無縁の状況に置かれて,何度も絶望的な気持ちになり,死を待望するかのような日々でした。

そういうBさんに残されている唯一の可能性は,自分自身との関係を強化することでした。Bさんはその意味を理解しました。

敢て自由ということを意識するように心がけました。母親の,妹の,長女の,夫の,そしてBさん自身の自由をです。母親がいかに支配的な人であろうと,母親が何を考えようと,何をいおうと,さしあたりそれは母親の自由といえます。そしてその母親はBさんの自由などまるで配慮しません。Bさんは自分自身の自由を護らなければなりません。そのような甚だしい性格の母親が相手では,関係を断ち切る覚悟がなければ自由は護れません。Bさんは,非難,攻撃する妹に静かに耳を貸し,そして静かに,「縁を切ってもらって結構です」といいました。

母親との依存関係が殊更に強かったBさんにとって,「縁を切る」というのはいかに困難な課題だったか察するに余りあります。しかしBさんはぎりぎりの状況でそれを果たしたのです。

あるとき,晴れ晴れとした顔で,Bさんが次のように述べてくれました。

先日,娘の所にいたときに妹が来た(長女の叔母である妹は,Bさんの孫に会いたいのです)。Bさんが,「私はできることは精一杯やったわ。自分を褒めてあげたい気分よ」といったところ,妹は,「ほんとにその通り。よくやったよ」といっていた,と。

無論,皮肉ではなかったようです。

Bさんが試みた自分自身との関係の強化というのは,逃れようのない厳しい現実状況を,敢て引き受けることが,重要で,欠かせない出発点になります。Bさんにとっての救いは,幼い命を護りたい願いが,理屈ぬきの使命感につながったことでした。幼い子は,二度,三度と肺炎を起こして入院しました。それを助けたいという願いには,自分の命と引き換えにしてでもという切なるものが篭っていました。

現実を引き受けたことにより,それは押しつけられた(厄介な)ものが,(他でもなく)自分自身のものであるという意味に変換されることになります。押しつけられた意識感覚のままであれば,解決の主体は自分自身にあるとはいえません。現在の辛い状況は誰かのせいという被害的気分の中にいることにもなり,当てに出来ない何者かを当てにしつづけることになります。その場合は,不承不承「頑張る」しかありません。

「頑張る」ことには,他から課せられた問題に向かうという意味が込められています。

一般に何か行為をするときに,内発的な欲求と他者から課されたものとの混淆によって動機と意志が形成されると考えられます。

それは自我の自律性が内在する主体との関係において生じること,その自律性に即して主体から送られてくるエネルギーが欲動といわれるものであること,そして自我は自足態ではなく不十全な存在であるために,他者によって補完されるのが不可欠の要件であること,自律性が自我の生命線でありながら,他者の厚い協力がなければ,(無の無化作用の脅威に絶えずさらされている)有限なる自我の機能が存立の危機に瀕すること,他者の補佐は避け難く二心に基づくために不十全であり,かつ脅威ともなること,そのために自我は抑圧機能を不可欠のものとしていること,それは自律機能に対して優先的に働くものであるので,自己の形成,成長にとって阻害的であることなどなどの問題をはらみつつ形作られます。

煎じ詰めると,他者の関与のそれぞれの様態と主体との関係の健全性とが,結論的に,課されたもの(本質的に他者性です)を自我が望ましく引き受けることができているか否かに直結するといえます。このような他者とは,元々は母親を中心とした具体的な個々の誰かですが,しだい次第に抽象化されて集合的他者という体裁になります。それは超自我と呼ばれているものに相当するものです。

幼い時代に家庭環境に恵まれ,母親の安定した愛情の下に育まれた子の自我にあっては,集合的他者との関係も穏やかで,それはいわば心内における先人の知恵者との関係といった趣のものになるのではないかと思われます。しかし母(父)親が自分の二心に無自覚で,子への愛情以上に自分自身の役に立つようにという無意識的意識が優勢であれば,子に対して支配的,浸入的な育児となります。そういう関係で育まれた集合的他者は,自我に対して威嚇的,支配的なものになるだろうと思われます。

以上のような事情から,いかなる行為にも他者の眼差しが入っています。そして内発的な欲求は,内在する主体と関係があると思われます。この文脈で集合的他者が,自我に対して威圧的,支配的なものであれば,後者との関係が不確実なものである傍証といえるものでもあるので,自我は,相対的に他者の眼差しに依存的になります。つまり人の目が気になるのです。

(個々の自由は,自我の自律性が健全であるのを前提とします。しかしこの機能の危うさが他者の補完を不可欠とするので,取り分け人生の早期(自我がまだ未成熟な時代)には,他者(母親が中心になります)への怖れが抑圧機能を自律機能に優先させることになります。その度が過ぎると,他者の支配,侵入を受けるに等しいことになるので,自己の自由は危機に立たされます。つまり他者の眼が殊更に気になり,脅威になります。自己の自由が失われた極致に,諸々の妄想があります)

他者に行為の評価の基準点があるともいえるこのような心理的状況では,かぎりのない疑念に囚われざるを得ません。他者が何を考えているのか,結局のところ分からないのです。そういう状況では,生真面目な性格の人は,’完璧’であろうとする以外にないという心理状況に陥りかねません。

他者不信は,自己への不信と並行する関係にあります。

自己への信頼が揺らいでいないということは,主体との関係がうまくいっていることを意味します。そうであれば自己を支える機軸は自己自身の内部にあるので,他者に対する自由が確保されています。いたずらに人の心を気にすることはないのです。

(以上のように,行為には,一つには他者との,一つには内在する主体との関係が欠かせない契機です。そのいずれもがあやふやな心的状況では,いわゆる’勝手な行動’になります。それは眼差しの中にある重要な他者に(悪しき)依存していながら,それを認めるのを拒否するというひねくれた意識の下にある行動です)

Bさんは,できることを精一杯やりつつ,「これでよいですか?」と尋ねました。尋ねる相手は自分自身,つまりBさんの意識を超えた力を持つ主体です。そういう行為は,一人だけの信仰ともいえることです。

Bさんは,いまもおなじ生活状況にありますが,一定程度の自信を持っています。それが表情に表れています。そういうふうであれば,やがては親子関係の修復も可能でしょう。そのときは過去への回帰ではありません。かつてのBさんは,支配的な母親に従う一方でした。Bさんの主体者は母親だったといっても過言ではありません。いまやBさん自身が自己の主体者であるという,当然のことを自覚しつつあります。そうであれば,母親が従来のように支配者として振舞おうとするかぎり,親子のあいだには断絶があるばかりです。

必要とあらば関係の断絶も辞さないという強く,揺るぎない心の姿勢があれば,自己の自由を護ることができます。それは関係の正常化をはかる基盤を得たことを意味します。やがては,母と子が対等の関係で,それぞれの自由を尊重することで成り立つ,しみじみとしたものに変わる可能性も出てきたといえるのです。

自由は当然のことながらそれぞれのものでなければなりません。そういう理屈は誰もが知っていますが,実際には,個人のレベルであれ,国家のレベルであれ,強者には弱者を支配する自由があるという暗黙の了解があるかのようです。

親が子を支配し,子が親に支配され,そういう関係に依存している親子がなんと多いことでしょう。

膠で貼り付けたように,この依存関係は実に強力です。それを何とかしないかぎり,「病気がよくなる」可能性がないのですが,当然のことながら依存し合う双方共にさまざまに無自覚です。治療者がことを急いで,無理に膠をはがしにかかると,それはいわば自由の侵害になり,治療関係の拒否に合うことになります。母親の方は怒りをもって,子供の方は怖れをもって,共々に治療者の下を去っていくことになります。

何はともあれ自由は尊重しなければならないのです。依存し合う両者が,内側から,不自由な自由に疑問を持つ力を蓄えるしかありません。

このような局面では,治療者も困難な立場に立たされます。

何故なら,「病気がよくならない」からです。そしてよくならない理由を説明することが困難だからです。無理に分からせようと試みると,たったいま述べたように膠をはがす作業になり,痛みに耐えかねるあまりに不信と不興を買うことになりがちだからです。

そういう事情の下にあるとはいえ,問題を解決に向かわせるには,問題が正当に受け止められたとき以外にはありません。

膠で貼り付けたようなと,少々度が過ぎたいい方になりましたが,親子の強固な(悪しき)依存関係の悪しき意味を受け止めなければならない立場にあるのは,いうまでもなく第一には親の方です。

親の姿勢に好ましい変化があれば,子供は自分が自由になることが許されるという,当然で,重要な意味を知るきっかけを得ることになります。しかしそれは不安に満ちたことでもあり,半信半疑でだろうと思います。

何故ならそれは重要であり,そうでなければならないとはいえ,心の組織の破壊でもあるからです。

変革のためには破壊が必要ですが,自分で克ち得たものでないかぎり,破壊はあくまでもしばらくは破壊に留まります。

親に従うことで親に護られていた自己組織を,急に本人自身の自由に任されても,どうしてよいのかすぐには分かりません。むしろ突き放された,見捨てられた,親を怒らせたという恐怖に耐え難い思いをするだろうと想像されます。

しかしながら親の側のそのような意味のある理解の仕方は,子への愛情に違いないでしょうから,それは子の心を安心させる大いなる理由になります。

愛情と信頼とに勝る贈り物はありません。今度は子供の方で,その素晴らしい贈り物に自然な心でお返しをすることになるでしょう。本物の愛情と信頼に応えない子はないはずです。そのように親子の心の交流が進展すれば,心の自然を歪めてしまった人間の介入が,改めて人間の介入によって是正され,修復されることになるでしょう。

■自我の形成 その2
#1 集合的他者

いわゆる良い子の多くは,以上に述べた自己の自由の意味を感覚的に理解できません。

それは心の中軸であるはずの自我が,自立性を保つことができていないからといえます。

自我が自立性に問題がある場合,それに換わって首座にあるのは集合的他者とでもいうべきものになります。

この心の内部の他者が中心的な位置を占めると,人の目が気になって仕方がないことになります。

ここでいう集合的他者というのは,個々の他者ではないだけに,この勢力が大きくなると,あらゆる他者のおめがねに叶おうとすることにもなります。そうなるといわゆる完璧主義者になるしかありません。常に100点を取りつづけないと許さない親のような心の内在化といえます。いわば全か無かということになり,80点を取っても零点と変わらなくなります。自我が健全に機能しているのであれば,「80点は零点ではない」と主張することができるのですが。

それを心の法廷に見立てると,鬼検事ばかりがいて弁護士不在のようになっています。そうであればいつも有罪宣告されるに等しい心的状況になるのです。

鬼検事ですから,攻撃性が強く,怒りのエネルギーを強力に蓄えています。自我によって不当に抑圧された心の分身たちの,潜行する怒りが,命令的,懲罰的な集合的他者を作り出すのです。

以上のことを,具体的な例で説明してみます。

友達(B)の家で遊んでいた二歳の子(A)が,玩具を家に持ち帰りました。その玩具を欲しい,自分の物にしたいというのは自然の欲求です。それは幼い子の端的な自己表現であるといえます。

言葉を変えると,この素朴な自己表現は,自我の自律機能によって促されたものであると考えることができます。

幼い子がこのような表現をすることは,決定的にといってよいほど重要です。

つまり自己表現は人間にとって基本的に重要なことですが,幼い子は他人の干渉を受けずに,素朴にそれを表現し,それができている自分を喜ぶ(遊ぶ)という経験ができる年代にあるからです。

そして幼い子の自己表現が親をはじめとした大人たちの干渉を受けないということは,幼児が自分の力を感じ取るのを大人(主に母親)が是認すること,つまり共に喜ぶことを意味します。

未熟な自我は,ひとしきり素朴に自我の自律性の発露を味わい,楽しむことにより,自己表現の原体験をすることになります。それは母親を中心とした重要な大人たちの愛情によって保護されることにより,豊かで意味深い経験になります。

その経験は,後々,必要とすることを自分で取りに行く意志を持つことが正当化されることに通じ,与えられた人生,ないしは自己を自ら引き受ける意志を持つことに通じるのです。

その表現の仕方は,しかしながら,いずれ母親によって否定されます。「それはBちゃんの物です」と。

Aは不快感を味わいます。しばらくは元気がなかったり,不機嫌だったりするでしょう。母親に認めてもらえないことは,一種の危機なのです。

自分がすることが母親に認められたり,認められなかったりしながら,やがて母親に叱られないように気をつけるようになります。母親が側にいなくてもいいつけを守ることができるのは,母親を無意識的に心に取り込む(内在化)ことによってです。それによって自我は,自律機能の他に抑圧機能を働かせることになります。

ある程度成熟した自我がこのように母親の介入を受けることになり,それによって,素朴な自己表現から,より高次のものが求められることになります。

換言すると,素朴なレベルでは,’あらゆることが許される’のですが,新たな次元では,他者との関係をも配慮に入れることが要求されます。

母親との関係が確かな信頼と愛情とで結ばれていれば,「人の物は取ってはいけない」という禁止は容易に内在化されるでしょう。心に内在化されるのは,この例に従えば母親ということになりますが,一般的には誰とは特定できない抽象的他者になります。

このように内在化された集合的他者との関係で,自我が時によっては抑圧機能を働かせて,自律機能に優先させるのです。それによって,勝手気ままな行動は慎まれることになり,社会性を身につけることになります。そしてそれに伴って,自己表現の喜びには,他者に認められる喜びが含まれていることが明らかになります。

しかし一方では,このような集合的他者が内在化され,心の指導者になっていくと,幼児に許されるような内発的な自己表現が貧困化していく理由になります。つまり発達した社会性は,自己表現の本来の喜びを奪う側面があります。

例えば幼稚園児の’お絵描き’はそれぞれの内発性によるもので,この場合の集合的他者は,「自由に描いてごらん」という姿勢になると思います。また大人たち(外的な集合的他者)も余計な干渉をしないので,’それぞれの絵’があり,優劣は問題になりません。しかし中学生,高校生になると,教師が指導的干渉をします。この場合の(内的な)集合的他者は,一定のあるべきイメージを提示します。これら集合的他者なる指導者に従っているかぎり,優劣の差ができることになります。つまり自己表現の喜びは大幅に減じ,集合的他者が提示するイメージに従って絵を描き,それを教師が等級をつけて評価することになります。

このように,(内的な)集合的他者に従うかぎりは,(外的な)集合的他者によって優劣の等級がつけられることになります。

(真の芸術家は,世に受け入れられなくても,集合的他者にではなく,幼児のように自己の内発性による自己表現にこだわるので,孤独の中でも自己を追求しつづけるのです。そして’真の芸術家’には,(幼稚園児のように)作品に優劣はなく,それぞれのものがあることになります)

一般的には,それぞれの人生はそれぞれのものというほどに個性的,独創的ではありません。むしろ集合的,没個性的といえるでしょう。洗練された芸術家の自我は自律機能に従おうとする一方,一般市民のそれは,抑圧機能を発達させていると思われます。それによって,自己自身であろうとするよりは,人間集団の中で確固とした立場を得ようとします。この場合の野心は,人に抜きん出ることです。

他人より秀でたいという野心によって社会的な成功者になることができた人は,一方では,本来の個性的自己からは遠ざかることになるかもしれません。内在化された集合的他者の下に成功した人は,仲間同士の語らいで時を忘れることができます。うまくいくと一生をそのようにして送ることもできるかもしれません。しかし,例えば会社を辞めたあとに,虚無感に陥る危険がないとはいえません。

また先に上げた例の母親が,心配性で,子供が不始末を仕出かしていないか,絶えず監視の眼を光らせるようであれば,子供の心に内在化された集合的他者もまた監視的,命令的になり,幼い自我は過度に抑圧機能を働かせることにならざるを得ず,子供らしい自己表現(いたずら,泥んこ遊び,喧嘩などの遊び)が封じられることになっても不思議はありません。

このような心的状況では,心の表舞台から封じられた幼児的な自己表現の欲求が,社会性を剥奪された裏舞台のものとして潜航しつつ勢力を蓄え(必ず強い怒りを伴います)ることになるでしょう。場合によっては長じてから,それらが自我の眼を盗んで,万引き,過食,買い物依存等々の黒い満足に走る独立した動きを起こすことがあります。

幼児の心を失わず,素朴な自己表現の欲求を失っていない芸術家たちは,いま述べた心の裏舞台を作品として表現することがあります。成功者が心の表舞台を描いても,それは下らない自慢話になるだけで人の共感は得られません。芸術家が作品の上に描き出すのは,世間的な達成から疎外されている生活者の不安,不幸,あるいは悪とされるものです。世間的な成功者の驕りの陰で虐げられているもの,世間が眉をひそめる性的なこと,人生の惑い,悲しみ,怒りなどの中に,より強く人間のにおいがあることなどが,人の共感を呼びます。それらは世間的な成功から疎外された心の叫びともいえます。それはあたかも,意識上の世界だけが心のすべてではなく,無意識の世界の中にこそ生命の源があることを教えているかのようです。

心に裏面が存在しているのは,人間の真実です。それを何らか表現することは極めて重要なことでもあります。

ある中年女性は,人前では過緊張で字が書けなかったり,歯科治療のときに喉をごくんと鳴らすのではないかということを過度に怖れたり,「人は人を殺すことがある」という強迫的観念に脅かされたりします。

もし彼女が芸術家であれば,これらの衝動をもたらす心の裏舞台にあるものを抑圧しつづける代わりに,作品に取り上げることができるかもしれません。そうするとそれらのものは自我が承認したことになり,もはや意識の地下活動で自我を脅かすことはなくなるはずです。

彼女がこれらの衝動の突き上げにあって悩むのは,彼女が過度に社会性を身につけて,いうならば不条理な抑圧をしつづけてきたからに違いありません。

集合的他者というのは,体験された他者たちといったものではありません。

生まれて間もない赤ん坊は,いわば純粋主観の世界の住人です。それは自我がまだ機能を開始していないか,未成熟な機能でしかない時代の話です。その時代では,母親が自我の代行をしていると考えてよいでしょう。

そして客観的,外的世界は,自我の成熟と共に乳幼児の世界に取り込まれていきます。

このように自我に拠る人間は,主観的ー客観的である現象的世界の存在者であるといえます。

そのために,確かに経験したはずのことが夢のようにも思われたりします。確かである保証が純粋客観に求められるのであれば,人間にはそういうものは存在しないことになります。

人間に純粋客観はないが,純粋主観はある,それは嬰児の世界であるといえるように思われます。

ただし,このことを経験的,実証的に確かめる術はありません。いわば理論的推測ということになります。

この,存在すると思われる純粋主観の心理的世界が,人類に普遍的な無意識の世界であり,自我の能力を超えているという意味で無限界であるといえます。

心理的なエネルギーの源泉は,所在不明です。

身体にエネルギーがあるのは,実証的に明らかですが,身体と精神とは密接不可分の関係にあるのもまた明らかです。しかし,最初に身体があって,ついで精神の方にエネルギーが移行するといったふうに割り切って考えることは困難です。それは「精神の原因は身体にある」といった類の考えが,割り切り過ぎて,説得性を持たないのと同様です。

このような筋で人間の問題を考えると,「人間の原因は人間である」という奇妙な,悪ふざけになってしまいかねません。

それではこの問いに何と答えればよいのかは,自明といえるほどのことのように思われます。

つまり人間の存在は,不可知の理由によるとしかいい様がありません。

その上で,身体にエネルギーがあるのは明らかなのと,精神的エネルギーの捉えどころのなさと,一人の人間が持っているエネルギーの総量が一定範囲の中にあるらしいのと,それらを拠り所に,次のように仮定的に考えることが可能です。

自我は,無限界へとつながる無意識界(純粋主観の世界)と,身体をも含む外的客観的世界(意識化可能の世界)との接点にあり,主観的ー客観的である現象的世界を演出する主宰者の位置にある。

自我の存在根拠は不可知である。従ってそれは,先に述べたような意味で純粋主観の世界に根拠を持っていると考えるしかないが,身体的な根拠をも持っていると考えられる。それによって,主観的ー客観的な世界の演出が可能となる。それぞれの人間存在は,まだ自我の機能が開始されていない嬰児の段階で,定められた定量のエネルギーが与えられている。それが精神と身体の未分化な純粋主観の世界と,機能開始以前の自我機構とを養っている。

そして自我の機能が開始されると,主観性に客観的側面の根拠を与え,客観的,身体的なものに主観性(精神性)をもたらし,心に外形と内実とをもたらして統合する・・・。

自我が健全に機能すれば,外的客観とこの純粋主観との円滑な協働が果たされることになります。エネルギーは順調に循環することになります。

ここで問題にしている集合的他者というのは,いま述べたような意味で,主観的ー客観的な性格のものです。意識と無意識との中間にあるものでもあるので,それはイメージとして存在するといえます。

過食症者の多くは’よい子’です。自分でそう思っている場合もあり,むしろよい子ではないと思っている場合もあります。後者の方が自己がより多く抑圧され,「完璧ではない」という意味でよい子ではないと感じているのです。

一般的によい子の路線を取っている過食症者は,表面はにこやかにしながら,内面では人間不信や激しい孤独感,虚しさ,寂しさに打ちひしがれています。それらの激しく,ネガティブな感情と共にある彼らは,他人がどんなに優しくしてくれても,容易には情緒的な満足に浸ることができません。

彼らの自我は,母親のそれに密着していわば傀儡化しています。

権力者である母親の自我に過剰にすがるとき,自我は自律機能よりは抑圧機能を優先させる傾向が顕著になります。そうすると子供らしく甘える心は,抑圧されつつ成長していくことになります。それは自律機能に関係する子供らしい諸欲求(内在する主体から送り出されてくるもので,一定の方向性を持ったエネルギーを帯びています。それを自我が受け止め,護ることによって生気感情が育まれていきます)が不当に抑圧されることを意味します。無意識の領域から生まれてきた分身たちが,自我に受け入れを拒否される(母親への怖れ,気兼ねなどから)ことに伴って,寂しさ,悲しさ,虚しさ,怒り,恨みなどと共に,裏の人格を形成していくことになるのです。それは表の自我の無力を意味します。いつまで経っても(無力な)自我に受容される見込みが立たないままでいると,いつか裏の人格が支配的となり,死を志向する力と一体化していくことにもなりかねません。

このような傾向がつよい自己の心の内界は,中心にあるべき自我が無力である代わりのように,集合的他者とでもいうべきもの(外界にある母親に対応するものでもあるでしょう)が支配的な力を持つことになります。

これは他人の眼を過度に気にする基となるものです。

そして,それに相応して自我によって受け入れを拒否されたものたちが,影の分身たちの勢力となります。

自我領域には,いうならば自我の山と集合的他者の山と影の分身たちの山があると考えると,心の病理現象を理解する上で有益です。

それらの山の中で自我の山が主力であれば,自我は自立していることになり,自己形成へと向けた心の体制が整っているといえるでしょう。

過食症者は,しばしば死を希求します。

それはいま述べたような事情によるのですが,表の自我が自立していないために,有益な仕事をして自分で自分に満足をもたらすことができない傾向があるからです。集合的他者の支配を受けている自我が,自分自身よりも母親(あるいはそれに準じるもの)が満足するように仕事をしようとする傾向があるからです。

それに伴い,自我が自律機能をよりは抑圧機能を優先させるために,無意識の領域から生起してくる諸欲求を自我が受け入れ,護ることができないために,得られるはずの生命的なエネルギーを,怒りのエネルギーに変換させてしまうからです。それは生命的な心の表舞台に活力を与える代わりに,死への志向を持つ裏舞台にエネルギーを注ぎ込むことになるのです。

自律機能を十分に働かせ,自己を表現することの喜びを十分に経験するべき時期に,母親の意識的,無意識的な干渉によって抑圧機能が発達すると,大人びた子供になるかもしれません。それはもしかすると,周囲の大人たちに,「よくできたお子さん」と見られるかもしれません。いわば早すぎた社会性を身につけた子供は,周囲の大人たちの目にはよい子に映る一方で「自己の無力」に苦しむことになる可能性があります。

しかしながら乳幼児の場合,目的は,いずれにせよ母親によって自分の全存在が認められることです。

乳幼児に特徴的な重要な心性の一つは,揺るぎない全存在の保全をもとめて,母親を支配しつくそうとすることです。

完全に母親に依存している乳幼児の段階では,母親は神のごとき存在であるといっても過言ではないでしょう。事実,乳幼児は,母親が全能であるという幻想を持っていると思われます。母親と一体の関係にある赤ん坊は,全能なる母親を支配することで自分自身が全能の者となれるのです。

それを裏返せば,赤ん坊はこの全能幻想に疑いを持っていることになり,だからこそそれを要求するのです。あるはずのもの,持っているはずのもの,それらが与えられていないという不安,不満,苛立ち,怒りをもって母親に要求する(これらの疑惑,不満足は,長じて,自分は愛されていない,愛される価値がない等々の自己否定感の源泉になります)ことが,即ち支配欲求です。

しかしその原始的で,強力な欲求は,強力であるがためにカウンターパンチをもらう理由になります。いま述べたように,その要求が強力である分,強い怒りをはらみます。現実に満たされることが不可能な欲求と,満たされないことへの怒りが,母親のカウンターパンチを招く理由になります。母親自身にはそのつもりがなくても,ふとしたときに赤ん坊は自分の怒りを母親の顔に投射して,恐怖を持つことになります。

その恐怖は,赤ん坊が幻想的な全能感を必要とする現実と,それを要求することの非現実性とのあいだの懸隔が,赤ん坊が生まれる以前と以後との存在形態のあいだに横たわる超え難い深淵そのものであるといえ,そのような事情に由来しているように思われます。

しかしながら,いずれにしても,人間の現実世界では通用しないこのような支配欲求は,取り下げられなければなりません。何はともあれ人間として生を受けたからには,この世の現実を受け入れなければなりません。

見捨てられる恐怖には,あきらめて人間的現実を受け入れさせるための役割もあります。

「そんな分からず屋は,おかあさんの子ではありません」というわけで,全の要求をあきらめて,ほどほどの満足と安心とに甘んじる気にさせなければならないのです。そうしなければ,頼りとする母親との関係が保てなくもあるのです。

乳幼児にとっては,母親に見捨てられないようにするのは最優先の課題です。

この見捨てられる恐怖は,母親が赤ん坊に対して持つ怒りではむしろありません。そうではなく,赤ん坊が持っている怒りの逆照射に主因があるといってよいでしょう。しかし母親側の問題も無論小さくはないと考えなければなりません。というのは,支配欲求というのは小児心性の特徴として強いエネルギーを持っているので,母親自身が満たされない思いを潜在させていると,赤ん坊に苛立ちをぶつける十分な理由になるからです。それどころか,苛立ち易い母親,支配的な母親でさえ,珍しいどころではありません。

良い子として抑圧機能を優先的に働かせるのは,自我の戦略としては勧められたものではありませんが,母親に認められたいという目的はそれなりに達成されます。それに相応して,自律機能も護られることにはなるのです。

このように,よい子という自己犠牲の精神で生き残りを図ろうとする問題が生じる発端には,人格形成の最早期での避け難く,宿命的な見捨てられる恐怖があると考えられます。

いかに生きるかという以前に,ともかくも生きようとするのが自然ともいえるでしょう。

根源的に二律背反の原則に従わされている人間存在にとって,見捨てられる恐怖は生と死の分水嶺となるものです。

生を受けた赤ん坊は,残酷にも早々に死の存在を突きつけられ,やがては受け入れていかなければならないのです。

死を,自我が引き受け難いものであるかぎり,生もまた耐え難いものになります。

20代前半のある女性(Cさん)は,姉が’おばあちゃん子’であったのに対して,「この子は私の子」と母親にいわれながら成長しました。大学を卒業後,勤めた会社で否定的に扱われたこともあって,職に就いていません。母親の観点からすると,「昔はよい子だった」ということになります。そのついででいえば,「今はわるい子」ということになりま

あるときCさんが冷蔵庫の中を見ていると,母親が,「やめなさい」といいました。

Cさんによれば,いまも太っている(さほどではありません)のだし,仕事もせずに家でごろごろしているのだから,間食をするともっと太るというのが理由だと思うということでした。Cさんも,その母親の考えに同感しています。

その直後,母親が出かけたときに,菓子パンを2個食べました。食べてから,大変なことになったと思いました。あわててゴミを捨てに外へ出たときに,帰ってきた母親に出会いました。「殺される!」と思い,走って逃げました。電車に乗って遠くまで逃げたそうです。

いくらなんでも実際に殺される心配は皆無です。

支配的なCさんの母親を怒らせると,Cさんは見捨てられると感じたのです。Cさんにとっては,母親が支配的であるということは,圧殺者ではなく護られている者という感覚です。恩義を与える者と受けている者との関係です。そういう意識の下で,圧殺される,侵入される,自由を認めてもらえないといった心と,それに伴っているに違いない怒りとを無意識下に封じているのです。

そのことは集合的他者の山が,自我の山よりも高いことを,従って母親との関係で,自律機能より抑圧機能を優先させていることを物語っています。

間食など許される身分か,というのが母親の気持ちであり,Cさんも同調しているのですが,この同調する考えが集合的他者によるものです。そして母親がいない隙に盗み食いをしたのは,影の分身たちの仕業です。

自我はといえば,いずれにしても主体性を示せないでいます。

集合的他者の山が自我の山よりも大きくなるのは,怒りによってです。

その怒りは影の分身たちの山のものでもあります。

つまり自我が母親の自我に傀儡化するようにして自律機能を抑え,抑圧機能を働かせることに伴って,自我に受け入れを拒否された諸欲求が,生命感情を育成するはずだったエネルギーを,怒りのエネルギーに転換させたといえるのです。その怒りのエネルギーは影の分身たちを養い,集合的他者をも大きくします。

見捨てられると生きていく術を失うのは,幼い子の問題です。Cさんの心の中でそうした幼児心性がつよい勢力を張っていたことを,このエピソードは如実に物語っています。

殺されると恐れたのは,部分的には,もしかすると圧殺されているCさんの怒りが自我を脅かしたからかもしれません。その怒りはCさん自身の心を破壊しかねない(自我に向けられた怒りに自我が耐え難く感じている)ものであろうと推測されます。また,その怖れは母親に向けられた無意識的怒りへのものであったかもしれません。

集合的他者はすべての人の心にあるものです。

幼いときからピアノの天分が認められた子に,その父親が極端なスパルタ教育をして,ついには人格破壊をもたらし,しかしピアノ演奏の才は大いに開花したという映画があります。

この場合は,内在化された集合的他者は命令的,懲罰的で,自我を打ち壊すほどの勢力を持っていますが,自我の自律機能は,ピアノによる自己表現に関するかぎり,それに抗する力を失わなかったと考えられます。

むしろ圧力を加えてくる集合的他者に押し潰される代わりに,それを凌駕するようにピアノに立ち向かう力を自我は持っていました。

一般には,集合的他者は,より穏やかなものです。それは自我と対立,拮抗するよりは,穏やかな教師のように忠告します。その忠告は,おおむね,世間的に認められた人生の途についてのものでしょう。創造的,個性的な途については,自我の自律性の役目になり,集合的他者はその意味では抑制的に自我に働きかけることになると思われます。

Cさんの集合的他者は,支配的,命令的,懲罰的なもので,自我はひたすら抑圧機能を働かせるしかなかったようです。

つまり集合的他者(その中核には母親,そして父親がいます)に圧倒され,従属させられている自我の下では,’自己否定の人’の人生を歩むことになるのが避けられません。こうした場合は,いわば人生レースの敗者になります。

画家を目指す者であれば,集合的他者の介入に抗する内発力を発揮できないかぎり,二流以下の凡庸な画家に甘んじるしかないでしょう。あるいはその道の敗者になれば,絵をあきらめればよいだけのことです。しかし人生そのものとなればそうもいきません。しかし絵と違って,それぞれの性格,それぞれの人生は,本来は出来の良し悪しではありません。自分らしいかどうかです。

問題は心の指導者の立場を,集合的他者が握っていることにあります。そのために自我の自律性が抑圧を受け,機能不全化するのが習いになっていると,人生レースの敗者となり,自己を見失い,虚無と絶望の淵に立たされることにもなります。

そういう心的状況では,改めて,「自由にやっていいのだよ」という’幼稚園児のお絵描き’の精神に立ち返ってみるのも一方でしょう。

「かくあらねばならない」という絵の(集合的他者としての)教師は極力排除して,「自由に描いてごらん」という教師に置き換える努力をするのです。途方に暮れ,打ち倒されるようにして無為に過ごすのではなく,「いまできる自由な絵は思い浮かばない,強いていえば寝ている絵しか描けない」というのであれば,「それでよい」とする精神です。

何をしてよいか分からず,途方に暮れて寝ているとしても,強いられた絵が描けなくて寝ているのと,自分の意志で描く絵がいまは寝ていることでしかないのとの違いは,大きいはずです。

前者であれば一日中でも寝て過ごすかもしれませんが,自分の意志でとなると一日中寝ているのは苦痛になるでしょう。苦痛は不足感でもあるので,たとえば「掃除をするという絵」を描こうという気が起こるかもしれません。

そのように,「かくあらねばならない」という精神から,「何が出来るか」という精神に移行していくこと,強いられた精神から自ら意志する精神へと換えていくことができれば,徐々に自分らしい生活が見えてくるかもしれません。

何もする気になれなくて一日中寝て過ごしたとしても,それがいま自由に描ける精一杯の絵であれば,良しとしてよいのです。それは,旧来の厳しいばかりの集合的他者の指導の下にあれば,「そんなものは作品であるものか」ということになるでしょう。そういう状況では,おなじ寝ているだけの生活にしても,「絵を描けない」という絶望と内向する怒りと共にあることになります。しかしそういう集合的他者の指導に従ってきたので,現在の無気力な姿があるのですから,いまは差し当たりそれでよいのです。寝ていることも,自由に描いてよいという指導者の下であれば,「いま描ける精一杯の絵」といえるのです。

要は,一日を精一杯生きるということになるでしょうか。

強力に支配的な母親に従属していたある女性は,近く家を出て一人暮らしをすると決意を固めています。彼女には,母とのあいだの依存関係を清算するのは容易ならぬことでした。そのように心の状況が変化していくにつれて,無力に見えていた表情が引き締まってきました。この女性が描いた「家を出る」という絵は,立派な作品です。

#2 二人の母親

自我の抑圧機能が過剰に働くのは,母親を核とした他者への過度の気遣いとパラレルな関係にあり,それは集合的他者と影の分身たちとの勢力を増大させ,自我の無力化を招くことになると述べました。そしてそれは死へと斜傾する方向性を持っています。

一方,生気感情を豊かにさせるのは,自我の自律機能によってです。

これまでに繰り返し述べてきたことですが,自我の誕生は光の世界の誕生です。そして自我の誕生は死の誕生でもあります。

自我の誕生以前の世界は,自我に拠るわれわれ人間にはうかがい知ることができません。

自我による世界は,誕生によってはじまり,死によって終焉する有限のものです。自我による意識という光が届く範囲は限られたもので,これを有の世界とすると,自我の誕生以前の世界は意識が届く範疇の外になるので,それは無(または無限,または全)の世界ということになります。

そして先に述べましたが,自我の機能開始の黎明期にある嬰児の世界には客観的な外形はいまだなく,主観と客観とが渾然と一体化している,いわば純粋主観の世界であるように思われます。それはユングのいう普遍的無意識の世界ともいえるかもしれません。外形によって限定化されていないその純粋主観の世界には,無限性の性格があるように思われます。

自己と人生とが,誕生と死によって外側から明瞭に限界化されていながら,それでもなおかつ自己と人生とが目標とするある到達点を持ち,そこに到ってそれらが終結するといったことはなく,その意味では無限性を生きているのが実態といえます。それは嬰児の世界である純粋主観が無限性の性格を持ち,それが他でもなく我われ人間の一大特性であることに関係があるのではなかろうかと思われます。

また,明瞭に有限のものである身体性と,無限性に通じる精神性との総合である人間存在は,永遠の二律背反(生と死の互いに相容れず,しかし相互に絶対依存の関係にあるのがその最たるものです)を生きているのを特徴としています。その永遠の矛盾の対立が新たな統合をもたらし,人間の精神の無限性が保証されていると考えることができます。

つまり,この論旨に従えば,自我の誕生以前の世界は全または無であり,誕生後の世界は,その主宰者である自我によって二分割され,不完全なものの複合体になるといえます。

自我に拠る世界は現象的世界です。つまり主観と客観とが総合された世界で,両者は独立して存在することがなく,相互に絶対的依存の関係にあります。

現象的世界にあって,諸現象を二つに分割して捉える(自己と他者,男と女,善と悪,愛と憎しみ等々は,相互に他を不可欠のものとしています)のが自我の特徴です。その根源には,相互に他の存在を不可欠なものとしつつ,しかし相反するものの関係にある生と死と,あるいは光と闇との分割された対立があると考えられます。

自我による生の世界は,死という終焉にいたる有限のものです。

しかし生と死の対立の永遠性が,生の無限性を生み出すのです。つまり希望は無限定なものでなければ希望の意味をなしませんが,生と死との終わりのない矛盾,対立があるかぎりは,その都度それらが止揚されることが可能であり,それは次々と新たな希望が生み出されることを意味します。そして死という終焉にいたって,人は人間存在としての役目をはたし,自分の全存在を,それをそもそも生み出した不可知の上位者に返還することになると考えることが可能です。

そのように考えると,限られた能力をしか持っていない我々ではあっても,日常の意識の中に無限性をも持ち込みつつ生きているといえます。

ところで,それぞれの私の母親はだれでしょうか?

それぞれの私を生み落としたのは,それぞれの母親,というよりは,父親との合作によってであるとひとまずはいえます。

しかしそれが全てでしょうか?

その答えは,たったいま述べたことの中に含まれていると思います。

常識的な意味での母親を地上の母と呼ぶとすると,もう一人の母親は上位者なる母ということになります。

人間が人間であるゆえんは自我にあるといえますが,自我を授けたのは父親でも母親でもないのは明らかです。その自我を授与する力を持ったものが上位者なる母です。人間は,人間に似せたロボットを作り出すことができますが,あるいは人間を生むことはできますが,人間そのものを作ることはできません。

自我を授ける力を持っているのは,人間以上のものであるのは明らかであっても,誰と名指しするのは不可能です。名指しはできないが,自我によって人間は存在可能であるという事実問題があるかぎり,上位者の存在もまた明白といわなければなりません。

自我至上主義者は,例えば次のようにいうかもしれません。

人間は生命連鎖の極致にある,動物が進化した究極の存在である・・・と。

それもまた一つの仮説です。

しかし動物の存在形態のあいだに進化論的移行系が見出されているにしても,それが単純に物質的ないしは生命科学的な発展であると証明するのは不可能です。簡単にいえば人間の知恵をいくらこらしても極めることができない難題であることに変わりはありません。

この論法によっても,つまりは我われには知り得ない理由によって動物間の進化があることになり,その知り得ない理由を知っているのは人間以上のものであるということになります。

結局,どのような仮説を立てようが,,自我を最上位に置くことが不可能なのは自明です。

そもそも知性は自我の僕であり,自我は有限の世界での自己の中核です。そして自己ないしは人間存在には,無限的世界も含まれています。自我はこの無限領域に関わる能力を持っていないのですから,知性が人間存在の全般を網羅的に究明し,理解するのはどだい無理な話です。

そのように考えると,以下のような仮説が可能です。

人間の誕生は,第一に自我の授与によってである。それを授ける力を持つものは,自我に拠ってはじめて存在可能となる人間自体ではありえない。それは人間には不可知の上位者であると考える以外にない。

不可知の上位者とは,意識による人間にとっては’全なるもの’と言い換えることができる。

そして全なるもの(天)を母とする赤ん坊は,天からの授かり者ということができる。

自我を授与された赤ん坊は,意識せずにそれを引き受けたものとなる。つまり不可知の上位者(主体と呼んでおきます)の命を引き受ける者として地上の者となったと考えることが可能である。

主体の命とは,「自我によって自由に自己を導け」というふうに考えることができる。

そして地上の者となった人間の無意識世界に,主体は鎮座して沈黙のうちに自我がいかに自己を導くかを見守る。自我が自己を導く道筋を,主体は沈黙の内に指し示している。

人間の誕生は,第二に(地上の)母親によっている。母親は意識せずに主体の命を受け,仮託されたと考えることが可能である。

いうならば父親と母親とはそれぞれに二分割された二分の一以下の存在で,その母親が新たに一人の人間の親であることができるためには,他の二分の一の存在である父親と合体して’完全’にならなければならない。そうなることで子供が二分の一の存在として生み落とされる。

有限の世界を生きるそれぞれの自己は,二分の一以下の存在として心の内に他者を構造化し,外なる他者との関係を不可欠なものとしている。そのようにして全に準じる存在形態となり,人間の現象世界を包囲している全(自我に拠る人間には無と区別がつかない)の無化作用に対抗している。

第二の母親が第一の母親と決定的に違うのは,前者には二心があり,後者にはそれがないことである。

第一の母は,無意識世界の主体となって,個々の人生,個々の自己の途を無言のうちに指し示している。

第二の母は,人間的な大道を志向する。つまり,この世的な達成を志向する。それは勢い,他に負けないことが要点になる。

二心というのは,例えば,子供の成長を親が喜ぶのは子供への愛情である,と同時に,親自身の安心,満足でもあるということです。

二心それ自体は良くも悪くもなく,人間に固有のものです。

善心と悪心もまた人間に固有のものであり,二心です。その存在自体にはよいも悪いもありません。しかし悪がどういうものかを知らない者はないので,この場合の二心はある意味ではあまり問題ではありません。

人間に善心があるかぎり悪心は必ずある,しかし社会性と精神性とが欠落している悪心は,裏の自我による世界のものであり,公然と心の表舞台に乗せることは許されない・・・ということになります。

育児上の二心は,子のためを思ってしているつもりの躾が,実は親自身の不安や不満の解消を子に求めていること,それが意識されることがないこと,という形で問題になります。

以上の仮説に基づくと,躾は,主体が指し示す自己の途を探り当てる自我の仕事を,親が助ける形が望ましいことになります。

しかし躾や教育は,人生の大道の歩き方といったものにならざるを得ません。

個々人の真に個性的な達成などというものは,もし分かる者があるとすれば本人以外にはあり得ません。しかも幼いうちからそういう道筋をたどろうとするのは,ごく稀な芸術的天才だけでしょう。一般的には社会性を身につけさせる努力以外には,躾であれ教育であれできない相談です。

「世間体を気にする親」といったこともいわれたりします。世間体を気にしない人間もまたいないはずですが,このようにいわれるときには,子供の方で親の二心に敏感になっているということなのでしょう。

Sさんが,父親が乱暴にドアを叩き続けている,といった内容の夢を見ました。

実際に父親は怒りっぽく,母親も負けていないので両親の口喧嘩が絶えません。非は父親の方にあるとSさんは思い,両親のあいだに立って家庭の空気を和らげる役目を負いつつ成長しました。しかしSさんが仕事をすぐに辞めてしまうので,それが両親の頭痛の種になってしまいました。

常々,Sさんは母親の意向に従っていましたが,この夢を見て,乱暴にドアを叩き続ける父親も可哀想だと思いました。夫を閉め出している母親の方が問題ではないかと思ったのです。

Sさんと両親の三者との何度目かの面談の席で,Sさんをはさんで両親が声高にいい合いをはじめました。母親が夫の態度を責め続ける状況で,私がこの夢の話を持ち出しました。「Sさんも,母親に対してこのような批判的な気持ちを暗に持っているようだ」といったことを伝えました。

これはかなり乱暴な介入だったと思います。事前にSさんの同意を取りつけないままにしてはならないことでした。しかしSさんと母親との強固な依存関係が変わらないかぎり,通院を必要としているSさんの問題は改善される見込みがないのも確かです。どの段階でかこうした介入は必要ですが,その場の成り行きで,いわば賭けのような介入をしてしまったのは危険なことでした。

果たせるかなSさんの足がしばらく遠のきました。そしてしばらくぶりで受診したSさんは,言葉が少なく,不満の様子が見て取れました。

しかしその後気を取り直した様子が見え,私は改めてSさんの基本問題の説明をした上で,「あなたの意志を伝えることができるようになるのが課題です。おかあさんに,今後はそのようにするつもりがあるといってみてはどうですか?治療上の必要があるのでそうするようにいわれたと,話されてもよいかと思いますが」と提案しました。

Sさんはうなずいていました。

その数日後に母親がやって来ました。

母親は,Sさんが「逆らいなさいといわれた」といっているが,どう対応したらよいものか相談に来たといいます。そして最近辞めた会社の元上司と個人的な交際をしていて,彼は父親ほどの歳だが何もいわない方がよいのかといいます。

「逆らいなさい」というのはSさんの取り違いと思います(「意志は伝えるように」というアドバイスをしてあります)が,年上の男性との交際は初耳でした。

母親の困惑は当然です。

恐らくは感情を抑圧しつつ成長してきたSさんは,情緒的なものに飢えていたのだろうと想像されます。

しかしこの交際が正しいかどうかには疑問があり,母親が心配するのはもっともなことです。しかしながら,良くも悪くもこれもまた母親の二心であることに違いないのもたしかです。

仮に母親の強い介入があり,二人が分かれることになったとして,やがてはSさんも自分の迷妄に気がつき母親に感謝をすることになったとして,母親は自分の二心をよく承知している必要があります。

本当のところはSさん自身の問題であるのはいうまでもないからです。Sさんが当事者能力を欠いているほどに幼いとすれば,その責任の過半は親が負うべきものだからです。この時点で未熟な心のSさんに代わって,母親が善処策に走るのも愛情の形でしょうが,両者の依存関係はSさんの未熟な心と共に手つかずになってしまうでしょう。

二心を母親が十分に理解すれば,容易には手出しができないはずです。

このように母親(に限りませんが)が子供を思ってすることが,子供の身を護るためだけではなく,親の安心のためでもあるのは当然なのです。そもそも親の安心がなく,子の満足だけがあるなどということはあまりないことでしょう。親と子は強い関係としてあるので,一方の幸福は他方の幸福です,一方の不幸は他方の不幸です。子供を虐げる親は,何らか不幸であるからに決まっています。親の安心が薄ければ,子を安心の道具としがちなのです。

先に上げたBさんの例のつづきです。

Bさんは,「自分の狭い部屋に一人いて,何か牢獄にでもいるような感じがしていました。自由って何だろうと考えましたが,どうしても分かりません」といいます。

Bさんは支配的な母親からも,その手先のような妹からも,怒りをぶちまけるようにして支配してかかる一人娘からも,いまは距離を取っています。Bさんが本気で怒っているのを知っているためと思われますが,母親からも娘からも連絡はありません。

Bさんはいまは怒りの存在と,それが蓄積されてきた長い心の形成の歴史と,母親のまったくの支配の下にあったこととをよく理解しています。だからこそ母親から距離を取ることができています。気に入らないと怒り,罵ることでBさんを従えて来た母親にとって,Bさんは手であり足であり,道具であるに過ぎなかったといえるようです。だから何も連絡を取ってこないというのは,怒りの表現とはいえません。むしろBさんの真剣な怒りに怖れをなしているのだろうと想像されます。

Bさんは幼い時代に,母親への強い恐怖を体験しているだろうと推測されます。

その恐怖心が,母親の二心に対する怒りを徹底して抑圧しただろうと思われます。そのために母親のいかなる態度も,子である自分への愛情に基づくものという意識態度が強固に形成されたのだろうと想像されます。

それは自我が怒りを抑圧することに伴って必然化された,意識の欺瞞化でもあります。

そのような意識構造の下では,母親はいわば全なるものです。

母親への絶対服従の呪縛から解かれるきっかけとなったのは,他でもなく母親自身の更に激しい怒りでした。

Bさんは母親が何といって罵ろうが,自分の使命は母親の側にいて下女のように仕えることでした。

しかし夫のことや娘のことも重なって,Bさんが打ちひしがれているときに母親が放った痛罵に,さすがに怒りを覚えました。そして,「ここ(実家の敷地の一角にある古家)を出て行け」といわれたときに,Bさんは転居の決心を固めました。

母親への怒りの存在を認めたBさんは,ようやく母親の二心に注意を向けることができたのです。いわば全なるものが,自分と等身大の哀れな存在に過ぎなくなりはじめたのです。

自由とは,自我に拠る自由と考えてよいと思います。換言すると自我の自律性に従うということになります。これはいわば自我を付与したもの,人間の上位にあるものの意志に基づくものと考えることができ,内在する主体との関係において展開される性格のものといえます。

一方,現実の母親は,全面依存する赤ん坊には事実上の神といえるほどの存在で,生殺与奪の権利が委ねられているといえます。

先にも述べたように,見捨てられる恐怖から,母親の自我に同一化することによって自我の自律性を犠牲にしたところにあると考えられます。自我が自律性を失い,抑圧性を手放せないままでの人格形成の歴史ということになり,自我は衰退し機能不全化していくのです。それは相対的に裏の自我が力を強めることを意味し,やがては衰退した自我を支配することになります。母親の自我の傀儡であった自我は,裏の自我の傀儡になるしかなくなる必然性をも持っているといえます。

裏の自我は社会性と精神性とを欠いています。その自我が求める満足とは身体的,刹那的であるのを特徴とします。

食物に代理満足を求めます。それは決して満たされることがない欲求であり,常軌を逸した激しさで,餓鬼そのものの姿になるのです。

自己を善導する役割を持つ表の自我に対して,死への志向性を持っている裏の自我は,目先の利欲にかまけたり,狡猾であったりということはあっても,自己の将来などはおよそ念頭にありません。

よい子であった彼らが,強く依存している母親に怒りを向けることがあります。’よい子’によっては決して怒りを人に向けないことも少なくありません。怒りの感情の存在さえないかのような人もあります。しかし怒りの感情がないなどということは考えられないことなので,抑圧の強さの問題と考えるべきです。怒りを向けないという意志的なことではなく,怒りを表出できないのが実情だと思います。いずれにしても,’よい子’は(恐怖心から)感情の抑圧をするのが習い性になっているということなので,怒りのエネルギーはむしろ意識の下層に蓄積されていると考えるべきです。

’よい子’が母親に向ける怒りは,悪しき依存の枠の中にいる衰退した自我が,怒りを強めている裏の自我の支配を受けてのことです。そうすることにより母親を支配してしまうこともあり,これも裏の自我の営為といえるでしょう。怒りを表現することは大切なことですが,彼らのこうした行動は,表の自我の無力を反映したものなので,たんなる怒りの奔出という現象にとどまり,心の成長にはつながりません。

それが表の自我の仕事であるなら,大いに意味を持つことになるでしょう。それは抑圧してきた意識下の分身たちの感情に自我が眼を向けたことを意味します。いわばそれらの分身たちを意識下から救出するという意味があるのです。

しかし裏の自我の営為であれば,単なるうっぷん晴らしの域を出ず,表の自我の無力が浮き彫りになるばかりです。感情が鎮まれば,更に落ち込むことにもなるのです。

不登校の子を持つある母親は,母親自身の子供時代の親子関係の反映もあって,子供に支配的,浸入的な育児をしてきました。それを反省した母親は,不登校に陥った子の理解者であるよう努めるようになりましたが,父親や学校の先生たちは,不登校の子をかばう母親が理解できません。あくまでも’よい子’を求めるのです。かつて母親自身がそうであったように,学校に行ったか,家でだらだら過ごしていないか,親のいうことを素直に聞くか,などなどといったことにばかり注目して,それを守らせるのが本人のためであると信じているのです。それができないのは悪い子なのです。

かつてはこの子も,これらの大人たちの基準によるよい子でした。そのよい子の自我は,親の基準に従う傀儡自我にほかならず,’悪い子’を抑圧してきたのです。その基準の下での’悪い子’は,実はそれほど悪くはなかったはずです。先にも上げたように,単に甘える心を持つことが,抑圧という形で悪い子にさせられてしまうということが起こります。子供らしいいたずら,わがまま,反抗は,いわば子供の自然といえる程度のものが大半でしょう。それを抑圧する’よい子’の傀儡自我は,本来はあってはならない抑圧をすることで,無駄なエネルギーを使いつづけることになります。

しかも自我の自律性が犠牲にされているので,主体との接触がうまくいかず,いわばエネルギーの元を自ら絶ってしまっていることになります。必要なエネルギーの供給を思うように受けられないでいると,表の自我は無気力のままでいるしかなく,悪循環になります。それはすべて傀儡自我が招いた災いです。社会的な存在であることに無気力になってしまった表の自我は,いまや裏の自我の傀儡になってしまったといえるでしょう。主導権はこちらに移った結果としての不登校なので,’悪い子’といえばいえるのです。しかし,その子に’よい子’を求めてどうなるというのでしょう。仮に学校へ行くということが目標であるとすれば,表の自我が,’悪い子’のいい分に耳を傾ける力をつける必要があります。そのためには,周りの大人たちが,この子の自我の仕事に協力していかなければなりません。つまり自我が親の自我の傀儡にならざるを得なかった事情を汲み取って上げる必要があります。そのためには,学校へ行けない事情を理解しないわけにはいかないでしょう。傀儡化してしまっている自我には,自らを省み,問いただす力はないのです。

そもそも’悪い子’が実は悪かったわけではなく,大人の態度にこそ子供の自我を無力化してしまった理由があるのだということを,大人たちが改めて理解しなければなりません。それが行き渡れば,いずれ子供の自我の自律性は息を吹き返すのではないでしょうか。

このようによい子というのは,見方を変えれば,情緒的な満足を断念した子ということになります。それはずいぶん理不尽な話です。幼い子らしく駄々をこねたり,甘えたりしたいと思う心が,母親への恐れを持つ自我によって,片端から意識下の牢屋に閉じ込められるという残酷なドラマが,幼い子の心の舞台で密かに起こっていたに違いありません。

これらのよい子たちの,母親や他人の前でするにこやかで礼儀正しい笑顔の演出は,傀儡自我によるものです。そしてその一方で表面化してくるのは,意識の暗部に閉じ込められてきた分身たちの侮れない勢力です。それらは裏の自我の下に,満たされなかった情緒的な満足を求めて,役に立たない表の自我に公然と反旗を翻すことになっていくのです。

自己を導き,社会的な顔を育成する使命を帯びている自我としては,裏の自我の支配を受けるのは,恥ずかしく,屈辱的な事態です。それは,そのまま自己の喪失,人生の形成の失敗という意味があるからでもあると思います。

過食症の治療の困難は,依存症一般がそうであるように,依存の対象を容易には手放したくないという強固な心理が働いているからです。そのような強い依存欲求の存在は,それだけで小児心性を表していることを証明しているだろうと思います。依存の方向を間違えているとはいえ,激しい力を秘めている裏の自我にいわば捕捉されている表の自我は,本来の依存対象に自らを引き戻す力は既にあきらめかけているようにも見受けられます。治療的に必要なのは,依存の対象を手放しても安心できるほどの治療関係ということになるでしょうが,依存症者の心を現に捉えているのは,悪魔的に魅了する力と破壊力とを併せ持った何ものかであるようです。

人前でのにこやかな笑顔を持つ人格と,一人で過ごすときのなりふり構わない人格と,表と裏に極端に分裂した姿は,表の自我の力の弱さの反映です。餓鬼と化したかのような圧倒的なエネルギーを,裏の心は秘めています。

自我は受け止める力を持つときに,機能の回復が開始されます。餓鬼と化したといえるほどの激しい力を持つ裏の心を受け止めるのは,容易なことではないでしょう。衰弱している自我は,母親との依存関係に殊更の愛着を持っています。それは愛着というよりは,恐怖を媒介とする同盟関係という方が当たっているかもしれません。愛は人と人とのあいだで緩やかな関係を保ち,恐怖は強固な関係を必要とするでしょう。

恐怖心が一役買っている母親とのあいだの強い依存関係に楔を打ち込むためには,どうしても治療的介入が必要だと思います。それができるためには,患者さんの側の’求める心’がそれなりに強くなければなりません。それがなければ,母親との関係にしがみつく患者さんは,治療関係を築く間もなくあきらめてしまうでしょう。治療者との関係がしっかりしていけば,恐怖が愛に置き換わる可能性が出てくると思います。治療関係とは,愛と信頼の一つの形です。それがある程度進行したときに,これは自分の問題だ,このままでは自分に申し訳が立たない,という自己への責任感と贖罪の気持が芽生えるかもしれません。

問題を受け止めることができれば,最初の第一歩が踏み出されたのに等しいといえます。そうすれば,過食行動をさしあたっては承認する気力が湧いてくるかもしれません。たとえ当面は太る恐怖があるとしても,治療関係を通じて愛と信頼との力が回復することができれば,’太っている自分’を許せるのではないでしょうか。自己愛が回復すればそれは可能です。そして他人を信じてよい気力も回復するはずです。他者愛が回復すれば,他人の眼もさほどには気にならなくなるはずです。そういう心が育っていけば,何よりも,心の成長という得がたいものを手にすることができるのです。

自我のもう一つの重要な機能は,境界です。とりわけ意識と無意識とのあいだと,自己と他者とのあいだを分ける境界が重要です。

自我は人間を特徴づける最たるものです。その自我の機構の中核的な位置にあるのが自律性であると考えられ,その機能が健全に保たれることが人間的な自由を謳歌する条件です。自我の機構には,境界機能も含まれていると想定されます。自律性が健全な状態にあれば,境界も健全に機能すると思われます。

境界が意識にとって外界にあるもの,とりわけ他者とのあいだで,そして意識にとっての内界である無意識とのあいだで,有効に機能しているかぎり,自我の自律性が保たれると想定され,これらは互いに相補的な関係にあると考えられます。

男子大学生の例です。

予備校生だったある時期に,幻聴と被害妄想がはじまりました。予備校に入って間もなく,見かけた女性に好意を持ち,接近を試みたことがあり,それが関連してのことです。受診したのは大学に入ってからですが,その大学に,かつて噂を流した’張本人’がいると信じています。’彼とその取り巻き’に恐怖を持ち,大学を辞めようかと思いつめました。薬が奏効したこともあり,危機を乗り越えることができました。しかし,ふとしたときに,妄想的な疑惑が頭をもたげます。その’噂’が核になって,他の人の耳に入ったのではないかというふうに拡充します。また,将来の進路について迷いに迷い,決められないこと,母親になんでも相談し,判断をしてもらうことなどが顕著なときもありましたが,そういうこともしだいに自分で解決できるようになっています。

本人の受診以前に,父親が会社の問題でうつ状態となり通院しておりました。その父親は会社の要職にある人でしたが,妻を大変頼りにしておりました。夫の診療が終結した後に,その妻が,「実は・・・」と長男の相談に訪れたのですが,彼女は自分の対応がまずいのではないかと気にしておりました。夫につきそって来ていたころは,頼もしい妻という印象でしたが,実は大変に不安と混乱に陥りやすい性格のようでした。

本人(大学生)の母親観は,「怒ると怖い。もともと神経質でヒステリックになる。顔色をうかがう癖がついてしまった。・・・こうしなさいと何でもパッパと決めてしまう。それに従ってきた・・・」ということです。唯一の同胞である姉は,対照的に,自分で考えて行動する性格ということです。

母親が長女よりも長男の方を,依存のターゲットにしてしまったという印象を受けます。心根が動揺し易く,不安に駆られ易い母親が,長男によって安定を図ろうとしたようです。自分を助けることができる大人になるように,むきになって仕向ける母親のイメージが浮かびます。それがどうやら仇になったという印象を受けます。どうすれば母親が望むような息子でいられるか,’怖い母親’に,いちいち確認しなければならないほど,自立性を欠いてしまったのでしょうか。

幻聴や妄想が活発な時期がありましたが,経過から見て,統合失調症ではありません。この病的な問題は,境界機能が混乱し易いことを示していると思います。境界機能には,内外の問題を受け止める役割があると考えられます。無意識の勢力を受け止め,意識の領域との境界を画然とすることで,心の秩序が保たれます。自我が心の秩序を保つために,自我のときどきの価値規範に合わないものを抑圧するのは,境界機能を利用していると考えられると思います。

幻聴,妄想に関連して,誰かが自分の悪口をいっているように感じられるとき,外界の他者と自己との境界を画然とさせる機能も混乱しています。(ある女性が,最近,母親が身勝手なことを言い出して父親を困らせるというエピソードを語っていました。一時的にそのことで憂鬱になりましたが,「私は,私だ,お母さんとは独立しているんだ」と思い返して心の安定を回復させることができました。もともとは,こういう状況では混乱して自分を失うことが受診の動機だったのを考えれば,自我の境界機能が有効に働くようになったといえるのです。それは成長の証です)

境界機能が混乱するときは,必ず自律機能も混乱します。この大学生の場合は,関係念慮に苦しんでいたときは,将来の進路を決められず,一途に混乱していました。彼の自我がこのように混乱し易いのは,たぶんに母親の影響があります。母親の自我の混乱の影響を受けつつ成長したためであろうと思われます。

なお,統合失調症の中核型は,人格が恒常的に後退してしまいますが,これは自我が機能不全のレベルを越えて,自我機構自体(生物学的な根拠があると思われます)が何らかの破壊を受け,不可逆的な変化が生じたと考えられます。

自我の破壊という意味では,先の大学生が述べていることが参考になります。病的体験が活発なころに,殺される夢を繰り返し見たというのですが,これは自我が無意識の高波を受けきれず,破壊されかけているという意味に取れるように思います。

心理的な治療では,全人格的なものが,あるいは人間そのものが問われる側面があります。それは,治療者は病者を診る立場ですが,病者の問題を通じて自分自身を問う姿勢が要求されるという意味を持ちます。この心の作業には,問題を解く方程式もあります。いろいろある中で,たとえばフロイトを始祖とする精神分析はその一つです。この’方程式’の価値が他を凌駕するのは,人間の心への洞察の深さにあるでしょう。しかし我々がするべきことは,フロイトの真似ではありません。学ぶべきことは,その精神です。目の前の患者さんにフロイトの方程式を当てはめようとする治療者があるとすれば,彼は反フロイト的な行為をしていることになります。生きている現実に,’方程式’を当てはめて検討してみるのは意味があるでしょうが,’方程式’に患者さんを押し込めようとするのは,治療者がすることではありません。’自分の眼’を持たない心理治療者は,その名に値しません。しかし,’方程式’を無視する無手勝流も排除されるべきです。心を白紙にして臨むことと,学ぶ精神とは別個のことではないからです。学ぶ精神と白紙で臨む精神とを共に持つことが,病める心を前にする治療者の,理想とするべき’方程式’です。

心の問題に,万人が納得する永遠の真理といったものはあり得ないことなので,先達に学ぶ心を持ちつつ,なおかつ心が白紙であるときに,新たな里程標のようなものが立ち上がって見えて来るかもしれません。

人間の心理の問題は果てしなく奥が深く,そこに分け入ろうとすると,終わりのない探索行為になります。心理的な治療はそうした土俵の上ですることになるので,これまた果てしなく深く,複雑で,難解です。そうした困難に耐えて探索行為が続けられるうちに,心的現象の連鎖として,里程標のごときものが自然に見えて来ることがあると思います。やがては,現象的なものを超越したものも視界に現れてくることがあると思います。それらは実証されることはなく,仮説にとどまりますが,一定の意味を持ち,探索行を続けていく上で,勇気をもたらします。症例を積み重ねることによって,それらが無効化されることもあるでしょうが,有用性が更に確信されることもあると思います。

そのようなことを前提にして,主体との好ましい接触が出来ているときに,自我の自律性が健全に機能するものと仮定的に考えることができます。逆に自律性が傷つけられたり,混乱させられたりしがちなときに,自我の主体への接触が不良であると考えられます。

そもそも自我の起源の胚種である段階で,機構的に自律性や境界などが組み込まれていると考えられます。育児の主力である母親によって,自然的な自我の機構がほどほどに保護されつつ成長すれば,いい方を変えれば母親によって著しく擾乱されなければ,自我の中核である自律機能を育てる根が,到達目標である主体にまで伸びていくと仮定的に考えられます。

このように自我の自律性の根が,心の発達,成長につれて主体に向かって伸びていくと想定されますが,主体との接触が好ましいものであれば,親からの自立は順調に進行するといえるでしょうし,接触が著しく不調であれば,何歳になっても幼児のように親の助けを必要とするでしょう。

20代のある女性は,一人でいる時の不安,恐怖が著しく,その心の様子を,「幼いままの自分が,まるで一人で荒野に取り残されている感じ・・・」と表現しております。

自我の自律性の根は自然的に成長していくのがよいはずですが,原初の段階では自我はそれ自身で機能する力はなく,母親による愛情で保護されることが,絶対的に必要です。このことが,人間の心を育てる上で大きな矛盾を引き起こすのです。他者の介入は,赤ん坊の自我の自然的な機能を護るには,’あまりに不自然’にならざるを得ません。自然が全的な存在であるとすれば,人間は能力的に二分の一以下的な存在です。どう転んでも赤ん坊の自我は混乱させられるのです。それに相応して,自我の主体との関係はなにがしか接触不良に陥るのが,人間存在の宿命的現実です。そして,その不良の程度に応じて自我の自律性に混乱が生じ,それに伴って裏の人格が勢力を持つことになります。裏の人格の中核にあるのは,主体との関係を欠いた裏の自我ともいえるものですが,こちらは死に関わるエネルギーと一体化します。死に関わるものの中核にあり,裏の自我の拠り所となるだろうものを,裏の主体と呼ぶことができるのではないかと思います。

表の自我の自律機能の主要な役割は,自己の善導にあるだろうと想定されるのに対して,裏の自我の機能は,自己の善導の破壊,否定という性格を持ちます。従って,悪という性格を帯びています。

これら表と裏の自我の拠り所もそれぞれに違うということですが,それは別個に存在するというよりは,一つの主体の中の二つの機構とでもいうべきものではないかと思われます。つまり生と死は,生命体にはすべて起こることですが,中でも自我を持つ人間の特徴は,

単に生物学的に生と死があるのにとどまらず,精神的な意味をも併せ持つというところにあります。

心の外界には自然がありますが,これは宇宙にもおよぶ無限大の広がりを持ちます。また限りある人の命という観点からすると,永遠の時間と共にあるといえます。これら無限というものは,人間には概念と感覚の対象としてのみあり,人の身体にも心にも実態としては存在しません。

心の内界にも同様の無限の属性を持つ無意識界があり,これも外界の自然と一体のものと考えて然るべきです。どうやら無限の属性を持たない人間の精神に特有なものとして,現象として現前する事実や観念は,二つの極性に分離して現れる傾向があるといえるようです。外界の自然と内界の’自然なる無意識界’もその一つです。それは自我に拠る人間存在ならではの現象的な事実です。そのような特性を持つ人間の自我に対応して,自我の母体である’自然なる無意識界’にも,生と死に関与する二つの機構が存在すると仮定することができます。それらは人間にこそ別種のものとして存在しているように見えるものの,自然の様態としては一体のものに違いありません。

生と死は本来は一体のものと思われますが,自我を持つ人間に特有のこととして二極に分化し,互いに逆方向のベクトルを持つものとして現前しています。生は自我の誕生であり,意識という光の世界のはじまりです。そして,それは自然からの乖離でもあります。死は,意識という光の消滅であり,世界の暗黒化です。それは同時に自我の終焉ないしはお役ご免を意味します。そして,それは自然への帰還です。生は明るい光の中にあり,死は暗黒の中にありますが,それはあくまでも意識の存在が前提となっていえることです。

人間の誕生は自我の誕生です。自我が生まれることによって光が生まれました。そして光が生まれたことによって闇が生まれたのです。光は生の世界です。そして闇は死の世界です。人間は生きながらにして,死を併せ持っているといえます。

自我の誕生と共に自然から乖離したのが人間です。自我は生きる方向に向けて光の世界を構築する拠り所です。そして光を得ることによって,生の対極に死が布置することになったのです。生きるという方向で自己を形成していくのが,いわば人間の自然的な使命であると思われますが,そのことの裏面である死は,生きる機能に不具合が生じれば生そのものを回収しようとするもののようです。

寿命がつきかけたときに,「これでいい,これでいい」とつぶやいたという哲学者の話がありますが,回収作業を開始した死に自己を差し出す心を語る言葉として,人間の生き様の理想を見る思いがします。つまり死もまた,人間にとっては一つの目標です。いかに生きるかということは,いかに死ぬかというのとほとんど同義です。死は,単なる生の否定ということではないと思います。死は生に既に内包されており,いかに死ぬかが人間の課題です。自我が人間的な事態そのものであるとすれば,死は自然そのものの人間的な事態です。そういう意味で,死は裏の主体といえるのだと思います。

身近な者の死が悲しいのは,生を否定する力としての死が,生きよう,行きたいとする人の心を日常的に脅かすものであり,その直接的な事実の現前に立ち会うからです。死は生の脅威です。生きるためには喜びが必要です。それは意識という光の下でくりひろげられる祭典です。その喜びを意識と共に永遠に回収されてしまうのが死です。それが悲しくないわけがありません。生きる喜びをそれなりに楽しんできたあるとき,「もう,そろそろいいだろう」と,意識という舞台上の照明を一挙に消されてしまうのは残酷な話です。回収する側は,「そんなことは初めから承知していたはずだ」というでしょう。それは確かにそうなのです。回収する側が,舞台の照明の点灯をも含め,一切の権限を握っているのですから,文句をいってもはじまりません。人間としては,いずれにせよ与えられたことを受け止める以外に手はありません。人の力を超越しているなにものかが,こういう意味不明の舞台を提供しているのですから,なにか我々には及びもつかない深い思慮が働いているのだろうと考えるのが関の山です。どうやら人間が第一等に偉いわけではないのは確かですから,そうであれば,安んじてその第一等者に身を任せるのが分というものです。

それとおなじ理由から,つまり第一等者によってよりよく生きよと命じられているのですから,あれこれいわずにおのれの分に従って,謙遜に,よかれと信じる日々の営みを大切にし,自分らしい人生の創出に励むのが最善ということになるのではないでしょうか。

ということで,自我と意識の光を頼りに生きる我々としては,意識の否定である死の影は大変な脅威ですが,死というものの存在も生と同じくらい重要であるのは疑いありません。ですから潔く死の意義を積極的に評価するに越したことはありません。

そういうわけですから,自然のものである死が人間の脅威であるにしても,人間の敵というわけではありません。人間の敵は他でもなく人間自身のようです。人間は人間によって,相互に自然的な素地を混乱させ合い,それぞれの自己が,自己ならざる自己に迷い込むように仕向けあっているかのようです。困難な人生を,共に生きるものとして相互に助け合うのが筋というものでしょうが,不幸の渦中にあるものがしばしば意地悪であるように,大小の意地悪を,かけがえのない我が子に対してさえしてしまうのが,残念ながら我々人間の愚かな性であるようです。そのように,悲喜劇を繰り返しつつ一生を過ごそうとしているかのように見えます。

迷妄の渦に巻き取られる程度が甚だしいときに,生よりも死が関心事になっていきます。つまり,よりよく自分自身でありつつあるとき,生は大きく途を開けてくれますが,自己ならざる自己に迷い込んでしまうと,死が手招きしはじめるのです。前者が表の主体と表の自我の蜜月がはかられているのに対して,後者は裏の自我が表のそれを圧倒する力を持ち,裏の主体との接触を深めてしまっていることの表れといえるでしょう。そうなると,いわば死の極北から吹きつける風が,心のさまざまな不調,病気をもたらし,あるいは悪化させ,あるいは生きる意欲を失わせたりということも起こるのです。

人間が,自己の存在条件に他者の存在を前提としていることは,自我に拠る人間の完全性(自然の属性)の欠如を表していると考えられます。それは先にも述べたように,もろもろの事実や観念が二極に分化して現前するのが,人間の認識機能の大きな特徴であり,その一つの表われということです。自己と他者が合体して完全になるのが,自然的完全を志向する人間の理念といえるようです。そのように考えるのは,人間には,自他が互いに相手を求め合う無意識的な心の叫びがあるように思われるからです。その心の叫びは自然的な合体を求め合うようであり,現実に恋愛関係にある男女において,そういうことが垣間見えているように思われます。それを志向する心は,純度の高いものなので,実際には,むしろ他者は幻滅を与えるだけになるのでしょう。

他者は,自己の存在にとって必要不可欠な存在です。それは外部にある他人との関係が不可欠ということでもありますが,それにとどまらず,その根拠として自己の存在構造に他者が組み込まれているということでもあります。

自己の存在構造は,自我機構を拠り所としていると思われます。従って自己の存在構造の原基は,自我機構にあると考えられます。それらを敷衍すると,自己の中に内なる他者があり,それは当然,他者の中に外なる自己があることを意味します。それがあるために,現実に外部に存在する他者への親しみを持つことが可能になるのです。しかし一方では,他者は自己ならざる者でもあるので,疎隔感を持つことにもなります。人は孤独であり,孤独でないという一見矛盾した存在ですが,それは人間が全ではない存在であることの一端といえるでしょう。

自己愛と他者愛は相互的なひと組の関係にあります。自己愛が健全であれば,他者愛も健全のはずです。自己を愛する心の原基は,自我機構に備わっていると考えられますが,それを賦活し,機能的に発達させるのは,他者の中の特別な他者である母親の愛情によってです。私なる乳児を愛情をもって認めてくれている母親の受容力が,乳児の自己愛を育みます。そして,そういう豊かなものを与えてくれている母親に愛情のお返しをするのです。そのような相互的な力動関係が自我の自律性の根を護り育て,内なる主体へと根が伸びていく素地を作るのです。

逆に,このような豊かな愛情の関係で結ばれなかった親子の場合,乳児の心の自己愛は屈折したものになり,他者に対しても屈折した心を持つことにならざるを得ません。

恵まれた自己愛を持つ心の持ち主が,他者の中に他なる自己を感じたときに,他者への愛情と信頼が生まれるでしょう。自己の内部の他者(内なる他者)と外部にある他者の内部の自己(外なる自己)とが,それぞれに活性化され,結合的になったと考えられるのです。そして他者が単なる他性であるに過ぎないとき,他者は無縁の存在です。それらは状況によっても違うはずです。異郷の地で心細い思いをしているときに同胞を見かけると,日常の世界では味わえない親愛の感情を持つこともあるでしょう。道端で転んで怪我をしたときに,かけつけてくれる人があれば,恩人のように感じられるでしょう。

また,屈折した自己愛の持ち主が,他者の中に自己を感じたとき,容易には心を開けないと思います。自己愛の光りがとばりの中にあるように感じられている人は,他者に対して一様に距離を保ち,周囲の人には冷淡に感じられることもあるでしょう。

孤独であることを,人は一般的に嫌います。実際,一人遊びが多い幼い子は,将来が案じられる理由があるのは確かでしょう。

子供の場合,遊びを楽しむことが大変重要です。子供は生のエネルギーにあふれているので,元気がふさわしいのです。そして遊びを通じて自分を全身で表現することができるからです。時には喧嘩もするでしょう。喧嘩にも自己主張,自己表現の重要な意味があります。動物は,仲間との戦いを通じて群の中の自分の力,位置を知ることができ,仲間とうまくやっていく知恵を得ます。人間もおなじです。遊びの中の喧嘩で,人との関係の中での自己調整をはかることができます。そこで何を会得するかは,個々の問題ではありますが。いずれにせよ喧嘩という真剣な行為を通じて,自分を知り,他者を知り,怒りを体験し,対立する緊張を知り,断裂を味わい,和解する感動を覚えます。それらは大人になっていく上で,得難い体験になることでしょう。

まだ自分で自分を支える力を持たない子供にとって,孤独には危険な厳しさがあると思います。というのは,孤独には,死の極北から吹きつける風にさらされるという意味があるように思われるからです。心を凍りつかせるほどの力を持つ孤独は,子供には耐え難いものがあるでしょう。それは心を育てるよりは,破壊する方向に仕向けるかもしれません。

また他の元気な子供たちは,これらの孤独な子の理解者になるよりは,迫害者になる可能性があります。生きるエネルギーにあふれている子に,死の北風に震えている仲間への同情を要求するのは,一般に無理なことだろうと思います。しかし,これらの元気にあふれた子供たちにも,死の予感がないとはいえないはずです。それがあるからこそ,その気配に憤りを覚え,叩き潰すか,無視するかしたくなるのではないでしょうか。もっとも大抵の元気にあふれた子供たちの口から,その通りだという言葉は得られそうにありませんが。

いじめられっ子たちを護るのは大人の役目です。生きるエネルギーにあふれた子達に,そういう役割は期待できないように思います。大人たちが役目を果たしている姿があれば,それでいいのではないでしょうか。

孤独な子供たちは危険な状況にあると考えるべきですが,注意を要するのは,彼らを危険に追いやるのは,”元気な子’たちの悪意です(それ以上に親の不理解が問題ですが)。それは無意識的なものかもしれませんが,悪意の根底には死への恐怖が潜んでいると思われます。’元気であること’は子供にとって大切ではあるでしょうが,そこには生の裏面である死を意識しないで済ませるという意味もあると思われます。’元気な子’の悪意は,恐らく元気を沮喪させる影を持つ子に向けられます。それは本能的なものだと思います。影は死の領域に属するものです。それは’元気’を挑発するのです。そして彼らの悪意によって疎外される孤独な子は,自分自身の中に新たに燃え上がる心の炎が生まれ出て,自分自身を励ます力となることができるのでなければ,更に一層,死の極風が心を凍りつかせることになる可能性があります。そうなると,著しい悪しき依存から抜け出すのは容易なことではなくなると思います。

幼い時に情緒的な満足を覚えることは,その後の性格形成に重要な意味がありますが,しかし,それだけでは足りない何かがあります。人とうまくやれるということは,集団の中で生活をしていくことになる子供たちにとって,是非とも身につけていなければならないものでしょう。’集団の中にいる仕合せ’といったものは,大多数の者が理想とするものだと思います。そこには,しかしながら,’集団への逃避’という別な側面があります。何からの逃避かといえば,死の脅威ということになると思います。そういうことは意識にのぼることがあまりないでしょうが,集団依存的な一般的な市民の盲点だと思います。そうであるとすれば,先に述べた乳幼児期の情緒的な満足が性格形成の上で重要だというのは,括弧つきでということになるのでしょう。つまり市民一般のもう一つの顔である集団依存は,守りの姿勢を変えるのを難しくさせる要因になります。この意味での保守性は,特に日本人では個性の否定に傾きます。世間体を気にするということにもつながると思います。これらは育児の上での干渉にも通じる問題です。

これは,いわゆるペルソナの問題です。

C.Gユングは,次のような意味のことをいっています。

人間は,誰もがしっかりとペルソナを身につけていなければならない,しかし,それは自己ならざる自己の世間向けの顔である,それが発達し過ぎると,自己の実体が形骸化するだろう,中年期以降に,それが問われることになるだろうと。

このことは,社会的な存在である人間は,社会の中で人と調和してやっていけるための人格的な修練を欠かすわけにはいかないが,しかしそれは自己本来のあるべき姿とはまったく別問題であるということです。

世間的な成功を収めた人は,会社なりの組織にいるかぎり他人から評価され,それに助けられて自分の価値を支えることができるでしょう。しかし定年退職になって会社を離れると,いわば支えを失うことになります。それをどこに求めるかが問われます。しかしどこにもそれが見当たらないとすると,晩年が過酷なものになります。

ペルソナを鍛える一方では,自己と人生について思いをめぐらせて,集団の中で調和していることの意味と限界を理解しているに越したことはありません。そうすることで,集団への依存から,ある程度自由でいられることが可能だと思います。それは自己自身との関係をしっかりさせ,重心の移動を図る心の用意をはかっておく意味を持ちます。

集団の中で平和に過ごすことができる穏やかな心は,何よりも人間にとっての極限的なものを回避していられるという意味があると思います。それはそれで必要なことでもあるでしょうが,回避という姿勢は問題をはらんでいるのは確かでしょう。後々,いま述べたような自己の実質の空洞化に悩むということもあるでしょうし,他者に対しては無意識的に同族的,均質的なものを求め,排他的にならざるを得ないという別の顔を持っているのも否定できません。どんなに’良い人’でも,疎外されて傷ついている部外者には,結局のところ冷淡,非情であるしかないのです。

人生を創造し,人生の大問題に取り組むことになるのは,’元気な子’たちに疎外され,辛い時代を過ごした子供たちであるように思われます。彼らには,死の極風にもまれ,’人生に遭難する’危険を切り抜けてきた力への自負があると思います。人生そのものを受け止め,直視しようとすることがなければ,芸術も思想も成立しません。彼らは孤独であることを恐れないと思いますし,’明るく群れる’ことに価値を求めることはないでしょう。孤独を恐れない者には嘘は通用しないのです。逆にいえば,一般には,人間にとって重たすぎるものは回避するという,一種の嘘があるといえると思います。

彼らにとっては,自己自身との関係が最も重要になるので,他者との関係は,それぞれの仕事を通じた間接系になるだろうと思います。偽りの関係は無意味なので,真の友人以外は不要なことかもしれません。彼らにふさわしいのは人類愛ということになるのでしょうか。主体との関係がしっかりしていれば,自我の自律性もしっかりしているので,極風にたじろぐこともないように思われます。

こうしたことを考慮に入れると,先ほど述べた乳幼児期の母子の好ましい愛情関係について,つけ加えなければならないものがあることになります。

母親の愛情が重要な意味を持つことは強調されて然るべきですが,これには例外があります。俗に,「天才と狂気は紙一重」というように,長じて大きな才能を個性的に開花させることができるのは,むしろ幼少時に母子関係に恵まれていたとはいい難く,何かと問題があった生い立ちの子であるようです。「艱難汝を玉にす」という諺があります。幼いころに集団になじめない’変わった子’が,孤独の中で極風にもまれて,創造的な自己を創出する場合があります。それは本来的な自己の達成ともいえることです。そういうことが可能であるためには,孤独に耐える強い自我に恵まれている必要があると思います。彼らは,人生の早い時期に自我の自律性が危機に瀕したものを,自力で取り戻すことができたといえるのでしょう。このような場合に,自我は主体と最も望ましい関係にあるといえると思います。

このことは人生の難しさを教えてくれます。いわば’人生に遭難しない’ために,幼いころに母親を中心とした近親者たちから,豊かな愛情を与えられることが望ましいのですが,それは一面では,’集団への依存’という日常のぬくもりの中に人を安住させがちです。それがいけないということもないでしょうが,人生を回避している姿といえるのも確かでしょう。人が自己を本来化させるためには,孤独を引き受ける力が必要です。

一般的な市民にとっては,隣人愛が最も価値があり,美しいものでもあります。極風にさらされることから身を守るために,他者は重要なパートナーです。愛情の親密な関係で結ばれた他者があれば,日常はどんなに救われ,励まされることでしょう。災厄や不幸に見舞われれば,みんなが協力して助けてもくれるでしょう。それで十分だともいえるのかもしれません。

平凡な市民と非凡な個性派を分けるのは,他者への依存の仕方の違いといえます。他者への依存の比重が高くなれば,その関係に縛られて自由度が低下せざるを得ません。その分,いわば自己の重心は自己自身の中にはなく,何かの都合で自己の軸が傾いたときに,態勢を回復させるのに難渋することもあると思います。

一方,非凡な個性派は,他者との関係が比較的ゆるやかで,それだけに自由度が高いと思います。自己の重心がいわば自分の中心にあるので,ストレスで軸が揺らいでもダルマのように容易に姿勢を回復させることができるようです。

それは,極風にもまれてきた人と,それを回避してきた人との違いともいえるでしょう。

しかしながら,場合によっては命がけで人を救おうとするのも,隣人愛に富んだ人たちのようです。人間の価値の基準は簡単にいえるものではありません。

隣人愛の性格の一つの例を,シェクスピアの戯曲,「オセロ」に見てみます。

ムーア人の将軍であるオセロ(黒人)は,貞淑な妻,デズデモーナ(白人)を大変愛しています。美しい妻に満足しているオセロは,仕合せな日々を送っています。ところが忠臣と信じている部下のイアーゴー(白人)が,デズデモーナが不貞を働いていると吹き込みます。妻を信じようとして懊悩するオセロにとどめを刺したのは,一枚のハンカチーフでした。それは二人のあいだを繋ぐ愛のしるしとして,オセロが妻に,「決して失くさないように」と念を押して渡したものでした。それをイアーゴーが盗み取り,動かぬ証拠としてオセロの心を揺さぶります。嫉妬の激情にかられたオセロは,ついに最愛の妻を殺してしまいます。そして,やがて真相を知り,自らも命を絶ちます。

オセロが妻を愛する心情は一途なものであり,生きる喜びそのものです。しかし当然のことながら,貞操を疑ったときに暗転します。そのように仕向けたのは,悪魔的な心を持つ者です。暗転したオセロの心は,死の方向になだれ込んでいきます。そして最愛の人を殺し,自らも絶望して死を選びます。

オセロにとってデズデモーナは生きる意味のすべてに等しいものでした。高い愛と信頼への代償のように,絶対的な貞淑を求めました。表の心がそのようなものであるとき,心の裏面がどうであったかといえば,悪魔であるイアーゴーがつけ入る隙があったということが証明しています。つまり心の闇には,猜疑,不信など非愛の心が拭い難く潜んでいたということです。山が高ければ谷も深いのです。デズデモーナの気高い心を信じようとした分,一方ではそれを疑う心が意識を悩ませていました。それ自身が悪魔と手を携えて出番を待っているといえます。イアーゴーは,この無意識の中に潜むもの,そのものです。そして悪魔は黄泉の国の住人です。

デズデモーナへの愛の光が,オセロに生きる喜びを与えていました。しかし愛という光を求める心が強すぎたことが,オセロの心の闇の深さを物語っています。この戯曲で,黒人であることが白人へのオセロのコンプレックスを,象徴的に表しているようです。

隣人愛は,オセロのように純度の高いものの要求であるとき,自ら崩れ去るしかないのです。デズデモーナは貞淑の化身として描かれています。このドラマは観念的に過ぎるきらいがあるのですが,デズデモーナが生きた魂の持ち主であれば,オセロ的な愛の要求に耐えられないでしょう。離別するか,浮気でもするしかなさそうに思われます。オセロは滅びるべくして滅びたのです。滅ぼすべく誘ったのは外部にあるイアーゴーですが,それを可能にさせるほどに,オセロの内なるイアーゴーは勢力を強めていたのです。

隣人愛は人類愛のように純度が高いものであっては,ある意味ではならないのです。それは戦略的でなければならないといっていいと思います。不貞や欺きや裏切りや不公平などが,少々のことなら認め合わなければ成り立たないと思います。程度の問題でしょうが,そういうものを内に秘めて,なおかつ仲間として肩を組み合えるのでなければ仲間にはなれないでしょう。愛は少々のことは許すということも含んでいます。

生と死,愛と非愛の二者関係の両極の中間にあるのが人間存在です。従って愛は自然発生的であり,かつ世俗的,打算的でもある相対関係の中にあるといえます。

生と死の両極は,しかしながら,同等,同格ではありません。人間は生の極と全的な結合をすることは決してありませんが,死の極への全的な結合は,必ず起こるのです。死には,生という意識の光を回収する役目があるようです。あたかも人生は一つの作品のようであり,魂のこもった作品の制作が見込めないと分かったときに,人生そのものを回収する作業が始まるかのようです。それは同時に,主体との関係がほぼ断たれたことを意味すると思います。その撤収作業の主役が悪魔的な力です。言葉を換えれば,この悪魔は裏の主体ということになるのでしょう。

人間は,死を決意して自死にいたることができるでしょうか?寿命がつきたような自然的な死は別として,死を決意したときに,悪魔の回収作業が最終段階まで進んでいるようにも思われます。ですから死は決意してできるというよりは,回収作業に身を任せるというほうが事実に近いのではないのでしょうか。自死の気配を強めている人に,人の愛がどうしても届かないときには,そのようなことが起こっているのかもしれません。

表と裏の心のあいだの境界は,いうならば関所のようなものと考えるのが合理的なように思われます。裏の心は無意識界に勢力を張っていることになるのですが,表の自我は関所を通じてそれとの交流をはかっているというふうに考えることができます。

無意識の世界では,最下層で身体との直接的な関わりを持っていると考えられます。精神のエネルギーの源泉は身体にあると思われますが,精神と身体の関係は相補的です。一方的に心が身体からエネルギーを補給されているということではなく,心が健全に機能していれば身体にも影響が及び,身体も健やかでいられるわけです。

身体と接する層を最下部に,自我の層を最上部に置くのが,心の機能的ー構造的なヒエラルヒーです。そのような構造が仮定的に想定されるので,境界もまた,それらのあいだにあると仮定するのが合理的ではないでしょうか。

C.Gユングによって,身体と接する無意識の最下層を普遍的(あるいは集合的)無意識と呼ばれ,その上層の自我の領域と接する無意識層を個人的無意識と呼ばれております。それらのことは十分に説得的だと思います。

精神の力動総体は,自我の働きに決定的な影響を受けます。自我は,自己を指導する立場にあります。そして社会的,対人的な関わりの直接的な責任者の立場にあります。しかし自我は心の全体の主体ではありません。自我の働きがどう評価されるかは,内在する主体を拠り所とするに足りる働きをしているかによって決定されるでしょう。自己に対して責任を負う自我が十分な働きをすれば,主体との関係が良好に保たれていることになるので,いわば全身にエネルギーが行き渡るのです。そのように自我が望ましい働きをしているとき,境界での検閲は柔軟であると考えていいと思います。つまり現状のままで殊更の問題はなく,仮に,たとえば夢を通じて無意識からの何らかのメッセージがあれば,それを受けて前向きに検討することができる等々という意味でです。

自我の検閲が厳しくなるときは,自我が何らかの脅威を受けているときでしょう。それが外部に問題があってのことであっても,無意識が活性化するので,緊張を強いられます。自我に余裕がなければ,無意識の圧力を受けることになりますので,不安やいらいら感などに苦しむかもしれません。そういうときは,一時的に無意識との関わりを停止しようとするのも自我の仕事です。

自我の機能が衰退していると,無意識の支配を受けます。社会との関わりを持つのは表の自我の役目なので,衰退した自我は相対的に勢力を強めている裏の自我の傀儡と化し易くなります。

また自我の混乱と衰弱が甚だしいと,裏の自我が表のそれを無視して,直接的な行動に出ることがあります。解離性障害といわれるのは,そういう心の現象です。

更に自我の機能が不全化すると,境界機能も不全化して,深い層の無意識の内容が意識の中に侵入するという事態にもなります。精神病といわれる諸相は,そのような問題です。

関所がまったく封鎖されることはないでしょう。そういうことが必要なほどに無意識の力が増大しているときは,自我の境界機能はむしろ破壊されてしまう危険が増大するだろうと思われます。統合失調症のような事態が,一時的に現実化することは,状況によっては誰にでもあり得ることです。いずれにしても自我が柔軟な強さを失うと,境界の検閲機能も頑なになり,無意識の圧力を封じようとすることはあると思います。そういう時は,感情が表に現われなくなります。

関所での検閲を厳重にする必要があるのは,個人的無意識層にあるものが,単なる過去の体験群の集積にとどまらないからです。抑圧という心的活動は自我の価値判断に伴うものですが,それは自我に与えられている能力が限定的であることに帰着します。自我が抑圧するものには一定の傾向があります。自我がいわば神経質になっているものが抑圧の対象になり,その傾向の原点は乳幼児期にあると思います。人間が自我に拠る存在であるということは,自然的に心を形成することが不可能であるという意味を持ちます。しかも自然的であることが常に目標になるという矛盾した性格を強いられております。自然的であることが不可能である最大の理由は,自己なる存在が他者の存在を前提として可能であるということです。他者の介入によって自然的な心の営為が混乱させられ,それを改めて自分の力で自然的な方向に自己を整え直す,それが人生の目標であるという観があります。ここに人生の意味と無意味が交錯しており,人間が存在する理由の不可解さがありますが,これらのことは,あくまでも我々人間が人間的に答えていく以外にないことです。そもそも,なんといっても人間が存在する理由を人間自身が持っていないのですから,その根本理由をいくら詮索してもどうなるものでもありません。

自我による抑圧という心的行為には,他者の介入によって強いられたという側面があります。その始原的なものの過半は,原初の他者であり,最も関わりの深い母親との関係において生じると考えていいと思います。

たとえば性的な行動は,動物ならば自然なものとしてあるのですが,人間は抑圧します。それは自我を持つものと,持たざるものとの違いのようです。それは少なくとも一つには,自我に係属していると考えられる自己と他者とのあいだの境界によるのではないでしょうか。性的行動には,攻撃という側面があります。人間は人格的な存在なので,性行動が人格への攻撃という側面を持つのは否めません。境界を護るということは,自他の人格を尊重する意味を持ちます。自我機構に係属すると思われる境界機能は,生物学的な根拠を持っていると思われるので,性行動の抑圧は単なる文化的なモラルの要請以上のものがあると思います。しかし強すぎる性への拒否感は,他者(多くは親)の何らかの介入による自我の反自然的な性格傾向によると思います。

性がタブーになりがちなのは,その欲動の強さと攻撃性に関係すると思います。それは他者との関係を結びつける力にもなり,関係を破壊する力にもなります。従って,その本能の無原則的な発動は自我によって制限されます。そのときに自我の境界機能が意味を持つのです。その欲動の強さは結びつける作用の強さでもあるので,愛し合う男女のあいだでは好都合にはたらく一方,男女それぞれが異性を支配する本能的な手段にもなります。他人の性行動が気がかりになったり,不快感を持ったりするのは,欲動の魔力を扱いかねる複雑な心の動きがあるからでしょうか。

乳幼児が甘えを抑圧するのは,性の問題とは異なった意味があります。幼い子の甘えが母親の怒りを誘うのは,どういうときでしょうか?母親が情緒的に満たされているときに,幼い子の甘えに不快感を持つということはなさそうに思います。むしろその逆に,満たされていない情緒が拒否感を持つ理由になるのだと思います。自分の幼い子の甘えに怒りを覚える母親は,特別な状況にいるのでなければ,自分自身がおそらく乳児のように甘えたいのです。幼いころに甘えを満たされなかったという感情が働くのです。無意識にある満たされなかった情緒的諸欲求が自我を支配して,我が子の甘えを拒否するように,怒りをこめて要求するのでしょう。母親自身が幼いころにその母親からされたのと同じことを,我が子にすることになります。

全面依存の身である幼い子の自我は,ときによっては生き死にに関わる恐怖で母親の怒りを恐れると思います。

幼い子の甘えが,性的な欲求のように,母親に対して攻撃的な側面を持つとは考えられないことなので,この問題に関して自我が境界機能を必要とする意味はなく,一般的に甘えがタブーになることはありません。

甘えなどの情緒的なものが母親によって満たされることは,健全な自己愛と他者愛の育成に重要です。自律性の涵養という意味でも同様です。それは自我の自然的な機能が,母親によって護られたことにもなります。甘えを封じられることは,これらの意味がまったく逆になります。自然的な自我の機能が母なる他者の介入によって混乱させられ,自我が自律的な機能を捨てて母親に取り入ったという心の動きが抑圧と呼ばれています。幼い者の自我がそのような非常手段を取らなければならなかったのは,必ず恐怖と不信が働いたからだろうと思います。間違っても,母親が大好きだから母親に取りすがったなどということではありません。

このとき自我は母親の怒りを恐れたと思います。そして,自分が大切なものではなく,愛情に値しないと考えているのではないかという恐れと不信を持ったと思います。乳児にはそれに対して怒りを持つ理由がありますが,母親に向けるわけにはいきません。その怒りは,母親を怒らせる理由になるとおそれた甘えたい心に向かうのです。怒りをこめて,甘えたがる心を抑圧するのです。

このように,抑圧には,抑圧を蒙る側からすると不当であるという性格があります。ですからこれらの分身たちは,怒りによって抑えられるのですが,怒りを蓄えつつ無意識下に抑圧されているともいえるでしょう。

抑圧には,自我による死の宣告という性格があります。それは,自我は生の方向で機能するものですが,その折々の自我の判断が,ある種の体験が受け入れ難いとして無意識の闇に葬ったということを意味するからです。怒りはそれに伴って生じる感情です。つまり怒りは,死の方向で活動するエネルギーです。

自我のよい働きは生の方向で,わるい働きは死の方向で,心を動作させるといえます。また自我は,どう頑張ってみても半分しかよいことをできないともいえます。それは,自我には自然的な機能を大切に護るようにという大命題があり,それを達成するために他者の介在を必須のことして与えられているというふうに見えるということです。しかし自己と他者は合わせて’全’となるのは理念の上でのことで,現実には’全’どころか,他者は自我の破壊要因にさえなりかねません。どう転んでも’全’になりようがない人間は,それは永遠に彼方にあり続ける命題です。そして現実には自我の仕事としてではなく,自我の終焉として,死という’全’の世界に回収されるのです。自我の仕事は永遠に未完であり,悔いを残すことなく終焉を向かえるのは,すこぶる難しい話です。しかし’第一等者’ではない人間は,人間の知恵のおよばない’第一等者’にすべてを委ねるのが分というものでしょう。

母親との関係で,甘える心が自我によって抑圧されるとすると,甘えを封じる力が怒りです。それは母親の怒りが自分に向けられるのを恐れる自我が,扱いの厄介な甘えに対して怒りを持つということでもあります。本来は甘える心を自我が受け入れることで情緒的に満たされ,生のエネルギーを増幅させることができるはずですが,いわば母親の怒りに迎合するように,怒りをもって無垢の分身たちを葬り去るのです。受け入れられなかった分身たちは,悲しみ,寂しさ,虚しさなどの感情と共にあるでしょうが,そのエネルギーが強いだけに,境界を超えて自我に圧力を加えてくることになります。更にそれを強く抑圧することによって,自我は硬直したものになっていきます。これらのことは,エネルギーの流れの自然法則に反した,人工的なともいえる動きです。他者が介入することによって,心の自然な流れが乱されるのです。

怒りは,この例に即していえば,甘えを封じるために動いたのですが,意識の地下に封じられているものたちに所属する感情ともいえるでしょう。

破壊的なエネルギーである怒りは,死の方向で奉仕するものです。そして意識の地下に葬られているものたちは,怒りによって地下に繋ぎとめられているといえます。これらの分身たちは,自我が自由になり,自律機能を回復させて,改めて救い出されるのを待っています(それを実践するのが,分析的精神療法です)。しかし救出されないでいる状態が長期化すると,分身たちは怒りのエネルギーと一体化して,理不尽,不当な目にあっているものらしい恨みや羨望の感情に変質していきます。

抑圧は,すべての人に起こる人間に必須の心的過程です。そして常になにがしか不当であり,自然の心的機能を歪めます。その矛盾は人間に苦悩を与えます。不当な抑圧の比重が高くなっていくとすると,それは自我の弱さの反面ということでもあり,ますます自我の衰弱を招きかねません。しかし自我に強さがあれば,自分が知らずにしてしまった過度の抑圧が招いた,いわば不祥事を悩む力を持つことも可能です。意識の地下の分身たちの反攻を受けて,矛盾と苦悩に耐えながら,いつか,それらのエネルギーを己のものとしてしまうことも可能です。芸術作品には,このような心の過程が働いていると考えていいと思います。

分析的治療の経過中に,不用意に抑圧が解除されると,封印されていた怒りが,意識の表面に躍り出てくるような混乱が起こります。それが治療者に向けられるとき,治療者が抑圧,迫害の張本人であるかのような一種の取り違えが起こるのですが,やがてその怒りが治療者によって受容されるときに,患者さんの自我が抑圧者から受容者に変貌することができるのです。自我は更に自由になり,自律性が回復することになります。こういうことも考え合わせると,怒りは封印のために機動しただけではなく,受け入れを拒否された無垢のものたちと共にあるという側面があるのが分かります。治療者に向けられた怒りも,破壊的に作動しています。治療者が思わぬ怒りを向けられてあわてるとすれば,治療者は怒りの犠牲になるかもしれません。具体的に暴力を受けるとまではいかなくても,治療関係の破壊の危機に立ち至っているといえます。治療者が治療者としての節度を護れない困難な状況では,治療者・患者の関係は,迫害者・被害者の関係に変貌します。

しかし治療者が冷静さを失わず,治療者の立場を護ることができれば,怒りをもって破壊的な動きをした分身たちが,自我に受容されたに等しいことになるのです。それに伴って患者さんの自我も,自律性を回復する方向で動くはずです。それは既に生の動きです。死への志向性を持つ怒りに充当されていたエネルギーは,生の方向に志向する自我の自律性に所を換えることになります。つまりエネルギー自体は同一のものであり,自我の動きに伴って生と死とどちらかの方向に動くのです。怒りは死への志向を持つものの,生への方向で自我が力を回復させたときに,お役御免になるのです。

このことを考え合わせれば,怒りには自我の姿勢を「どやしつける」意味があるのが分かると思います。自我に,「受けて立つ」気があれば,怒りによって自我がよい仕事をすることができるのです。

一般に,つよい感情を潜在させてしまっている抑圧する自我は,特定の人や物へのしがみつき的な依存が強くなっています。それは必ずよくない依存です。過食症もその一つですが,依存症一般にそういうことがいえます。

依存症の異常なところは,食べることなり,飲酒なりが,人生の関心事のほとんどすべてと化していることです。そういうことは一般の人には理解に苦しむことです。

それらはいうならば死をかけた依存ともいえます。そうすることで必死に生につながっているのです。それは自我が,裏の自我にまったく支配されている姿ともいえます。その依存の手を放すと,死の世界にまっさかさまという恐怖が支配しています。

過食地獄に長年のあいだ苦しんでいるある女性に,次のような意味の問いかけを試みました。

「過食は自我が著しく衰弱して,裏の自我に支配されていることに伴うものと考えられます。言葉を換えれば,過食は,死の世界に属しています。一方で,会社へ行っていることや,めげずに診療に通い続けていることなどは,生の世界に属しています。いわば生死をかけた戦いといえますが,死の世界に引きずられかけているといっても過言ではありません。だから,食べることがすべてであるかのような事態になっているのです。しかし,こういう話はなんのことか訳が分からないと感じますか?」」

それに対して,彼女は首を振って,「いいえ,よく分かります」と明快に答えてくれました。

彼女は,過食のために異様に腹が膨らんでいると信じています。それは,もちろん,そんなふうには見えないといって上げたところでなんの意味もないほど,激しい恐怖です。それを人が見ると,異常な人だと思うだろうと恐れます。

それで私は,つづけて次のように問いかけました。

「異常なのは太っていることではなく,事実を認めようとしない気持ちです。たとえ醜かろうが,どうだろうが,事実は事実です。それは認める以外にないことです。しかし,あなたはそれを認めようとしない。それができるまでは,あなたの地獄は止むことはできないでしょう。逆にいえば,それができたときに,克服するきっかけをつかめるのです。癌と宣告されたとすると,すぐには受け容れられないと思います。そして受け入れることができるまで,平穏はあり得ないでしょう。事故で視力を失った人が不幸であるかどうかは,その事実を受け止めることができるかどうかにかかっています。失明が即座に不幸を意味するものではないと思います。そういうことと同じことで,事実としてあることは認める以外にありません。しかし,認め難い問題に直面することはあります。そして,認めることができないあいだは心に平穏はないのです。ところで,あなたは過食と癌か失明か,どちらかと差し替えることがでえきるとすると,どうしますか?」

彼女は少しのあいだ考えて,小さな声で,「眼です」と答えました。私が,「しかし,失明は治りませんが,過食は治ることが可能ですよ?」といったところ,「そうですね」と答えてくれました。

過食と肥満の恐怖とは,自己愛(と他者愛)と自己不信(他者不信)と直接の関係にあります。醜い身体の私という恐怖は,ありのままの自己を受け入れられないという自己不信と恐怖に帰着すると思います。それは密接不可分の関係にある他者不信(と恐怖)にも直結するのはいうまでもありません。

克服の第一歩は,’醜い私の身体’を,’ありのままの事実’として認める勇気を持つことです。それができた後で,やはり「私は醜い身体をしている」と思うかどうかは疑問です。たぶん,そうは思わないでしょう。

繰り返しになりますが,過食という依存を手放せない背景に,死につながる強い恐怖があり,それは依存症一般にいえます。

アルコール依存症者は,しばしば,会社や家庭など,持っているもの一切を失います。命と引き換えにしてでも酒瓶を手放さない人も少なからずあります。普通に考えると理解しがたことですが,アルコールという依存の対象を手放すと死の世界にまっさかさまに転げ落ちる恐怖があるからといえるだろうと思います。アルコールを飲みつづけることで心も身体も蝕まれていくので矛盾しているようですけれど,いずれにしてもいわば死の影に捉えられている心的状況でのことで,身体が緩徐に蝕まれて受動的に死を向かえるのは仕方がないと思うのかもしれません。

抑圧されている分身たちの欲求不満が長期にわたると,それは自我が無気力で当てにならないということでもあり,怒りと一体化して,いわば自我の根がしだいに腐っていくかのような印象もしばしば受けます。

破壊的なエネルギーを持つ裏の主体と一体化するに至ったと考えられる犯罪者たちにも同様なことがいえるようですが,こちらは裏の自我が強力化して,生きる理由が悪であると,裏の自我に迎合する形で自我が完全に傀儡化してしまうことにより,ある意味で活性化している様相であるように思われます。

他者との関係を自己の存在要件としている人間には,他者が自然的な自我の機能にさまざまな程度に破壊的に作用し,自律的な機能を歪め,混乱させるおそらく唯一の理由なので,他者はある意味でおそるべき強敵です。そして最も頼りとする最重要の立場にある母親が,他者の脅威を左右する鍵を握っているといえるでしょう。

しかしながら,精神の涵養の問題を安易に定式化することはできません。それぞれの持って生まれた自我の性状にもよるので,他者の脅威を受けつつ,それをやがては跳ね返していく力を導き出す子もあるでしょう。

自我の自律性は,個々人を,真の意味で個性的で人間的な達成に導くために欠かせないものと考えられます。その独自の人生行路を歩もうとすれば,どうしても孤独であることを免れないでしょうし,それを引き受ける覚悟,勇気,自分自身を信じる強い力などを必要とするでしょう。また,自然にそのような人生行路を歩み出すというよりは,何らかの決意と共に始まるものだと思います。というのも,将来を保証してくれる具体的な手がかりは特にはなく,自己を信じる曇りのない眼だけが頼りだろうからです。芸は身を助けるという諺があります。この独自の途を進む人には,なんらかの’芸’が手がかりを与えてくれると思います。

このように考えるのは,人間が生涯かけてまっとうしようとするのは,人間に与えられた自然的な自我の機能が,なかんずく自律的な機能が,他者の介入によってさまざまに混乱させられ,自己を失い,それをもう一度自然的な機能に修復することであるらしく見えるからです。

他者の問題は,すこぶる重要です。人間が自然そのものから乖離し,自己という存在者として誕生したとき,感覚的な存在である赤ん坊は,恐らく強い驚愕と恐怖の中にあるのではないでしょうか。周囲の大人は目出度いこととして祝福しますが,赤ん坊自身が自分の誕生を喜ぶ気分になれるか,甚だ疑問です。そういうものが皆無ということもないでしょうが。

赤ん坊にとって,生まれてきたことが目出度いと感じられるとすれば,それは母親が自分の存在を慈しみ,喜んでくれるのを知り,改めて自分の存在を愛でる気になったときだと思います。そういうことが可能であるためには,赤ん坊自身の中に,誕生をよしとし,自己を肯定する心の原基がなければならないといえるでしょう。伸びる芽がなければ,何事も伸びようがないのです。

いずれにせよ,自分の存在を大いに喜んでくれる他者なる母親の存在は,心の成長のためには不可欠です。自然児ならぬ人間の子は,母親の愛情に最初に触れて最初の安堵を知り,それから先は,その母的な愛情に絶対的な安心を求めると思います。生の方向に向けて自己を導くためには,なくてはならないと思われる自我の自律機能が萌芽の状態にある赤ん坊は,自己の内部に自己を支える力を持っていません。そうした心的状況では,おそらく絶対孤独の不安にさらされることになると想像されます。それは死の不安に包囲される脅威といっていいだろうと思います。その赤ん坊に大いなる光りをもたらすのは,なんといっても母親の愛情に違いありません。

赤ん坊の母親との関係での原初的な愛情体験は,心の成長のためには欠かせないものですが,赤ん坊が希求する愛情への欲求は絶対的なものがある激しいものです。それは人間以前だった全的な存在から,人間という不完全な存在への移行に伴う恐怖と驚愕と怒りをまじえた希求,というふうに考えることも可能ではないかと思います。そうした全的なものへの要求は,どうしても現実の前に失望に変質せざるを得ません。

愛というものを感じ取ったときに,全能欲求への期待はふくらむと思われます。しかし,それが満たされることは決してありません。期待が高いレベルでつづくかぎり,現実は冷酷です。赤ん坊はどうしてもそのことに気づく必要があります。それができたときに,人間として生きていくための第一条件をクリアしたことになります。自我に拠る人間は,能力的にいわば二分の一以下の存在です。人間には完璧はなく,ほどほどの満足が分というものです。強迫性障害などに見られる完全への要求には,原初のこうした問題がからんでいるのかもしれません。乳児が’二分の一の存在’であることを体得できるためには,母親の安定し,一貫した愛情が欠かせないでしょう。絶対的というものではなくても,自分を護る力を持っていることを理解し,許容する気になれるときに,心が落ち着いていくと思います。そして愛されている自分に気がつき,それに値する自分の価値を知り,生きている喜びを味わうことができるでしょう。また,自分を慈しみ,大切に思っていてくれる他者なる母親に,感謝と共に愛情のお返しができるようになるのです。ただし繰り返しになりますが,これらの肯定的な満足感は限定的であり,つまり不満,不信,怒りなどが一掃されることは決してありません。それが自我に拠る人間が,’二分の一以下の存在’であるという意味です。心が光の面と影の面とを持つということでもあります。

それはそれとして,日常生活の一般的な特徴は,反復です。来る日も来る日も,おなじような生活が繰り返されます。退屈は平和の証でもあります。

それに対して,気慰めをしつつの人生を送っていいものか,それは人の頽落態ではないかという議論も起こるかもしれません。それはもっともな議論だと思います。しかし凡庸な精神をしか持っていない我々の大方にとっては,それは厳しすぎる,場合によっては危険な問いかけです。

反復的な退屈な日常に,不意に不安が顔を出すという経験を,誰もがしていると思います。そうしたときに,急いでなじみのある日常に逃げ込み,胸をなでおろすかもしれません。たとえ退屈であっても,なじみの深い日常はこうした得体の知れない不安から身を守ってくれるので,贅沢なことはいえないのです。

退屈だが平和だった日々のあるとき,得体の知れない強い不安に見舞われ,それが執拗につづくとき,心の病かもしれません。それは平和だった反復的,日常的な世界の相貌が,もはや親和的ではなくなったということでもあるでしょう。

反復的な日常世界に安住できるためには,安定した自己愛と他者愛とを備えていることが必要のようです。それは,繰り返し述べてきたように,乳幼児期の母親との関係で情緒的に満たされる体験をしている(E.Hエリクソンの「基本的信頼」に相当すると思います)ことが基盤になります。。それによって,ある意味でバランスのよい性格を身につけることができ,いわゆる隣人愛の精神を発達させることができるのです。これらは,いわば平均的な市民感覚が発達している人たちです。彼らは,著しい不安に悩まされることがあまりないと思います。しかし,それが人間の模範的なあり方かといえば,それは疑問です。そこには,死の脅威(無意識的な)に対抗する愛の同盟という趣があり,そのかぎりでは自分たちの’健全な’市民感覚にほとんど疑問を持たないのです。危なっかしい生き様に見える肌合いの異なる他人たちに,隣人として優しい気遣いを示すことがあっても,所詮は理解しがたい世界の住人の域を出ることはないでしょう。彼らは自分の眼差しの優しさに,かなりの程度自足するのです。そして,また彼らの心配と忠告どおりに,’危なっかしい連中’は,人生の泥沼にはまり込むことが多いのも確かでしょう。これら市民的な健全さをしっかりと身につけている人たちは,隣人への優しく,愛情のある眼差しを持ち,決して無理をせず,突然見舞われた災厄にも従容として従う謙虚さと穏やかさを失わず,持って生まれた美質のために人の支援を得やすくもあり,ある意味で生き方の手本といえるでしょう。しかし,それにもかかわらず,死の脅威から目をそらす欺瞞化の才に富んでいるという趣は否定できません。

これらの’才能のある市民感覚’の持ち主ほどには,その種の才に恵まれていないものたちには,不意に顔を出す不安は,時によっては御し難いものがあると思います。それは一気に孤独を突きつけられるということでもあるでしょう。拡大視すれば,そこには死の影が漂っているといえるように思います。

影があるということは,光があるということです。心にとって光は自我の力を示すものであり,影は自我の無力を示し,死に所属するものです。自我はどうしても影を一掃できないものでもあります。

影は,それに捉えられると自我の滅亡を招きかねません。その予感が不安となって現れるのです。不安に見舞われたときに,自我がどういう姿勢を取るかが問われます。自我の解決能力が問われているのです。最も望ましいのは,他者との関係の途絶の不安,一切を無化する恐怖,等々であるこの死の影に,恐れずに立ち向かう勇気を持つことです。それがあれば,人を日常への頽落から脱出させるきっかけになるかもしれません。真に個性的な独自の途を開拓しようとすれば,’死’との戦いを抜きにしてはできない相談であるといえるのではないでしょうか。

しかしそういうことが可能であるのは,強い自我の持ち主であることが条件になると思います。それは先に述べた’健全な市民感覚の才能’の人とは,別種の才能ということになるでしょう。これら真の意味で個性的な人生を送る人は,’才能のある市民感覚’ということを基準とすれば,いびつな,バランスの悪い人格の持ち主ということになるようです。

以上に述べたように,なじみのある日常世界は,’死’に包囲されている現実を忘れていることができるという効用があります。そうした日常の世界に自足することができるのは,’健全な市民感覚’を身につけている人たちです。当然,彼らが人間社会の中心にいることになりますが,その特徴は良くも悪くも世俗的ということです。これらの集団依存的な生き方がうまくいっている人たちは,どことなく人生の勝利者という顔を持っています。人があるところ,いたるところに様々な集団がありますが,リーダーとなるのは,当然といえば当然ですが,人を上手にまとめたり,操ったりする能力に長けた人です。そういう人を中心に,その力を当てにする多くの仲間が集まって集団が形成されますが,肌合いの異なる者は巧妙に排除されることにならざるを得ないでしょう。偏狭といえばそうなりますが,集団の輪というものが要の意味であれば,それはやむを得ないことです。ですから,どうしても世俗的です。

人と仲良く暮らすことができるのはいいことです。それに異論はありません。それができれば人生はひとまず安泰といえるのでしょう。しかし,一方では,諸々のクラブから,排除され,疎外された人たちも必ずいることになります。クラブとしては,そんなことは知ったことではないということになるでしょう。それはやむを得ないこととはいえ,人間の偏狭が人間の不幸を生み出すという側面は否定できません。

そういうわけですから,そうした性格を持つ集団を,小市民的であるとして忌避する人がいるのもうなずけることです。他者に対して不信と恐怖と猜疑を払拭できないでいる人たちは,そういう拒絶感を持つでしょう。そこには,元々がそれらのクラブ的な人間の偏狭さの犠牲になり,心に傷を負ったといういきさつもあるだろうと思われます。

それらの人の中で,なにか秀でる一芸があれば,それは確かに,「芸は身を助ける」ことになるのでしょう。それらの恵まれた人たちは,自分自身の中に拠り所を持ち,自己を評価する基準を持つことになるので,他人の直接的な助けを必要としません。それだけに欺瞞的なものに敏感でもあるでしょう。従って彼らは,集団に対して批判的,否定的になるでしょう。孤独でもあるかもしれません。しかし他者との関係は,自己との関係同様に,内的に安定しているといえます。それは主体との接触がうまく図られるているということでもあると思います。

これらの独自の途を行くのは,いうまでもありませんが生易しいことではありません。自我がよほどしっかりしていないと,集団から離れて暮らすのは,やはり危険です。自分では個性的に生きているつもりでも,いつか途が見えなくなり,自分を見失う危険は,むしろ高いでしょう。そのときに死の極北から吹きつける冷たい風にさらされ,人間がいわば立ち枯れてしまうということも起こり得ると思います。死につながる意味を持つ孤独の彩の濃い生活は,精神を蝕むことになる危険があります。独自の実りある途を行く少数の人間エリートと,世間のクラブ的な社会に安住する常識派とのはざまに置かれると,どうしても危険な状況にあるといわなければなりません。

自我の自律性が確固としたものであるとき,自我に内属すると思われる境界機能もしっかりとした礎を得るでしょう。そして不幸にして,その好ましい心の作業に乱れが生じると,自我の根の主体との関係が不安定になると考えられます。そうなると自我は混乱しやすく,境界機能も不安定になるのではないかと思われます。

親,特に母親は,子に対して,心の境界をしばしば無視して侵入します。その極端なものは虐待する親です。虐待する親の下では,子の自我の自律性は失われます。そして甚だしい依存の仕方をしがちです。脅威を与えている親から逃れようとするよりは,その親への依存を手放せなくなるのです。それは死(乳幼児にとっては,親に見捨てられると,死の脅威にさらされることを意味します)をかけた必死の依存になるのではないかと思われます。

親の虐待に関するテレビの報道番組がありました。虐待されて命さえ危ぶまれる状況で,第三者が援助の手を差し伸べようとしても,虐待される子の十人が十人とも,「構わないでほしい」と述べたという内容でした。

境界を甚だしく無視して子の心の領域に侵入する親の養育を受けた子は,親への甚だしい依存を手放すことができません。それは自我の境界機能の欠落と自律機能の欠落を意味します。

そのような親子関係にある十代の患者さんがありました。社会性が大変低く,未熟な人格の人で,自分の問題を適切に表現する力もありません。しかし診療には通いつづけておりました。手前味噌のようになりますが,「ここへ来るとほっとする。私の聖域です」といったことを口にしておりました。そして,あるとき母親が訪ねてきました。ごく普通の母親のように見えました。診療への協力をお願いしたところ,こころよく聞いてくれました。しかしそれを最後に,その患者さんはクリニックを訪れることはありません。そのまま通院しつづけたからといって,’良くなる’ということも難しいと思いますが,私は,「回収されてしまった」と感じました。私の勝手な思い込みで,実はどこか別の医療機関に母親が連れて行ったというのであればまだしもと思うのですが。

こうした甚だしい依存関係(そうしたものは必ず悪しき依存です)では,自我の主体との関係は極めてよくないはずです。

自我の境界の問題は,隣り合う二つの国の関係によく似ています。両者に力の差があれば,強国がもう一つの国の主権を尊重するのはむしろ難しい問題です。強国が浸入して併合したり,植民地支配したりというのが歴史的現実です。

それと似たような事情にあるのが,親と子,特に母親と子供の関係だと思います。母親は胎児を宿し,お産の後も母子一体の時期を経験するので,余人には計り難い特有の感情を子供に持つと思います。そういうことと関係があると思いますが,母親がおかす一般的な間違いは,子供の領域への侵入です。それは子供の心の成長を阻み,心の障害をもたらす要因となる危険性もはらむことになるのですが,母親には容易には理解しにくい問題でもあるようです。母親自身が多かれ少なかれ依存の対象を必要としているので,恰好の相手を手放したくないというのが,むしろ一般ではないかと思います。そこには隠れた悪意さえうかがわれることもあります。母親は,子供のためを思ってしていると考えがちですが,意識の欺瞞というべき側面があることが決して少なくないと考えるべきです。

国境と異なるのは,強いはずの侵入する親が,実は強くはないがための侵入であるという点です。そういう弱さを自覚し,見据えることで心が成長するのでしょうし,子供の心の成長も助けることになるはずです。弱さは,それを自覚するときに,もはや弱くはないのです。

心の境界は,自他の存在をそれぞれ別個のものとして承認し,尊重するという意味を持ちます。国境が,相互にそれぞれの独立を尊重するものであり,それを護らなければ紛争になるのと似ています。

余計なお節介をされると腹が立つのは,境界を無視されたと感じるからです。親子といえどもおなじことで,親は子の存在を独立したものとして承認し,尊重しなければなりません。親が子の領域に侵入的になりながらその自覚を持たないのは,かつては自分自身がその親からおなじことをされてきたためであるかもしれません。これは好ましくない依存につながり,悪循環に陥りがちです。そして心の沼を広げる理由になります。

親は,特に母親は子供に依存しがちです。依存には良い形のものと悪い形のものがあります。前者は相互の人格を独立したものとして,それなりに認め合い,尊重し合っている場合で,いわば対等の関係で信頼と愛情を分かち合えるのです。後者は,親の力を子に対して行使するという体裁になります。あからさまに,あるいは暗黙のうちに,子供を従えてしまうのです。子供のころに親にされたことを,無意識のうちに取り込んで性格の一部にしてしまうのが人間です。そして自分では意識せずに,当然のように,子に対して,自分自身が子供であった時代にされたことを押付けていくのです。人はそういうことを繰り返し,まずいことをしているという自覚を持たないのです。人間は,代々このように苦しみの元をつないでいく不思議な一面を持っています。

境界機能がしっかりしていれば,他人が脅威に感じられることもあまりないでしょう。逆に,他人の脅威におびえる人は,境界機能が不確実なのです。それは隣国の侵入を受けてきた小国のおびえに似ています。そのことをYさんの例に見てみます。

Yさんは30代の男性です。彼は父親を大変恐れています。家族のだれもが父親には逆らえず,母親も夫に従って,Yさんはいわば放置されて幼児期を過ごしたと思っています。それは問題の一端で,長じては,勉強,進学,就職,友人との交際など,一事が万事,父親は激しい罵声をまじえて干渉しました。

父親は家族の全員が覚えているそれら昔のことを,ほとんど想起できません。しかし治療に非協力というわけではありません。出来ることがあれば力を惜しまない姿勢が見えています。被害を蒙った家族が覚えていることを,与えたらしい本人は記憶していないというのは,被害を与えたつもりがなかったからでしょうか。それとも都合のわるいことは忘れてしまう心の知恵なのでしょうか。

Yさんは成人し,結婚もしてから発病しました。職場で配置換えがあり,しばらくして年上の女性上司に恐怖心をいだくようになりました(客観的には人を恐怖させるような人ではなさそうです)。Yさんは,年上のその女性に取り入ろうとしたようです。父親を取り込み,内的な支配を受けている彼の自我は,取り入ることで身の安全を図ろうとしたのかと想像されます。しかし人とのあいだの距離の取り方がよく分からない(人の心が分からないのとおなじことです)Yさんの試みは,逆効果になりました。相手の女性には,しつこくつきまとう困った人と映ったようです。強い口調でたしなめられたYさんの心は,一気に崩れてしまいました。そして女性上司に依存することでおのれを保とうとした自我が,対象を見失って混乱に陥りました。Yさんは上司への恐怖心から,自分の席に座っていることができなくなりました。当然,仕事を満足にできず,欠勤することも目立つようになりました。

表の自我の主要な役割の一つは,社会的な立場を築き上げることです。それは自我の自律機能と境界機能が成長,強化されることによって可能になります。境界機能の重要なものは,問題を受け止める力です。

上に述べたことは,Yさんの自我が役割を果たすことができていないことを示しています。それと平行して裏の自我が勢力を強めていることになるはずです。

Yさんは,女性上司におそらく母親的なものを求めたと思われますが,拒絶されたと感じたときに,女性は拒否的,威嚇的,浸入的な支配の人に変貌したのです。女性は父親と同列の人になったということだと思います。彼女が出張などで不在のときはまだしも,ふだんは五分と席に座っていられないのです。

Yさんには退行しやすい幼児心性が色濃くあります。それは一つには母親的なものに甘えたい,頼りたいということです。また,拒否的,威嚇的なものに怯えを持ちやすいということでもあります。それらのことは自我の自律性が混乱しやすく,頼りないということと,自己の主観世界が他者の客観世界との混同が生じやすく,境界機能の受け止める力,侵入的にならない力が未分化であることを示しています。

父親への恐れと共に怒りも持っているYさんには,自分がこうなったのは父親のせいだというつよい思いがあります。しかしその父親を取り込み内在化しているのは,父親に対抗する力がない自我が,取り入る道を選んだということだと思います。父親の内的な支配を許し,依存した無気力な自我は,父親が期待したような自分ではないことについて,常に罪悪感に責めさいなまれる代償を支払わされているのです。自分の意志は,父親によってことごとく踏みにじられてきたと思っている一方で,内的な父親と一体になって,自分を不甲斐ない奴と内心で罵っているのです。内在する父親に依存し,Yさん自身の自由意志が不在であるかぎりは,心が晴れる日がないのは,当然といえば当然です。

妻は優しい人です。夫を気の毒に思い,受容的,母親的な姿勢で助けようと努めています。しかしそれが仇となって,著しく退行的(いわゆる幼児がえり)になる時期がありました。その姿は,幼い子が保護者の下に安らごうとしているのに似ています。それに伴って自他の区別がつかなくなったように,仕事がある妻の心を気遣うこともなく,朝方まで時間かまわず心の内を語りつづけます。Yさんは,他者を客観的に見るのが難しく,極めて主観的に,主観世界を外界にある他者に投影して見てしまうのです。

これはまさしく乳幼児の世界で起こることです。それら幼いものたちと同じように,心の境界機能が極めて未発達なレベルに後退していると考えられます。幼いころに母親に甘えたかった心を剥奪されたと思われ,早々に自我が父親に取り入ったと想定されます。それによって幼い時代は,むしろ大人びたませた子であったかもしれません。そして,それに伴って情緒的な満足を求める心は,自我によって抑圧されたと思われます。それに相応して,自我の自律性は未発達に終わらざるを得なかったのではないでしょうか。

学生時代のある時期まで,Yさんは学業成績が優秀でした。そのころまでは父親の支配を受けているYさんの自我は,学校の成績を重視する父親との協調が出来ていたということだと思います。そして,子供とはいえない年齢にさしかかったころに,息切れがして,成績が振るわなくなりました。高校生のころに,Yさんは勉強をしなくなり,見た目には怠惰な生活をするようになったのです。自我の目覚めといったものでもあったのか,消極的ながら反抗の意識もあったようです。自我の自律性が問われる年頃になって,問題が表面化したということでしょう。

いずれにしても,父親の支配を受けてきた無気力な自我は,子供の時代のままの父子関係に耐えられなくなったのだと思います。とはいえ,自分の価値を自分自身で支える力がありません。反抗ということが親の自我の傀儡であることを意志的に拒否し,自己の独自性の宣言という意味であるとすれば,Yさんのそれは,曖昧なところがあったように思います。つまり自我が明瞭に無意識の分身たちと一体になろうとしたというよりは,その圧力に効し切れず,機能不全に陥ったという印象を受けます。その筋で見れば,父親の価値規範から見て失格という状況に立ち至ったということです。選んだ大学は,父親が望んでいる(と信じています。父親は,「そんなつもりはなかった」と否定しますが)’超一流’ではありませんでした。自己の主張の萌芽ともいえると思いますが,父親の期待に即せなかったことへの罪悪感も並大抵のものではなかったようです。’超一流’を目指すことをあきらめたのは,明快に反抗したというより,荷が重過ぎるという一面もあったのだろうと思います。それは単に学力的な問題という単純なものではなく,父親との関係の長年にわたる重圧に耐えられなくなったということでもあるのでしょう。

発病は結婚後のことです。それは結婚によって情緒的なものに触れたことと関係がありそうです。というのは,無意識界に潜んでいたと思われる情緒的なものへの欲求が活性化したと思われますが,Yさんの自我は,それを受け止めるだけの力がなかっただろうということです。自我がそれをできたのは,幼児的に退行すること,妻を母親に見立てることによってです。無意識下の欲求の強さは,乳幼児の貪欲なそれに等しいものだろうと想像されます。その分身たちの勢力に支配された自我は,客観的に妻を見る力はなく,分身たちの眼差しで,つまり投影によって妻を見ることになったのです。妻の受容的な人柄も,そういうものを助長させたのではないでしょうか。自我は,無意識の力に押されて,妻をほとんど母親と見立てたと思います。

退行せざるを得なかった弱い自我によって,自律と境界の機能においても幼児的に退行したと考えるのが妥当でしょう。従って,錯覚し,混乱してもいる退行した自我は,受容的な妻に対して感謝の気持ちを持つことはほとんどありません。むしろ当然のように,’わがままに甘える’ばかりです。

発病は,意識の姿勢が崩れるということでもあります。Yさんの自我は,もともとは情緒的なものを抑圧して父親と協調しようとするものでしたが,思春期にいたってその姿勢があやしくなり,結婚をしたことによって崩れたといえます。

崩れるということは一巻の終わりですが,新たな出発の始まりである可能性も秘めています。その破壊作業は,死につながる裏の自我の営為であると考えられますが,破壊の次に再生があるか,単なる崩壊かは,表の自我にどんな力が秘められているかにかかっているでしょう。

Yさんの自我は,少しずつですが,再構築の作業に取り組んでいます。その証拠に,最近はほとんど欠勤しなくなっており,同僚たちへの過度の恐怖も少なくなってきています。その背景には,妻の根気のいい支えと,会社の度量ある態度にも大いに助けられているということをつけ加えなければなりません。

自我の重要な機能のひとつは判断力です。未熟な自我は,自分ではどうすればいいのか分からないので,外部的な頼れるものに依存します。親や権力者や友人に依存します。

いま上げたYさんは,恐怖をもたらした父親に取り入り,依存しました。どこかミイラ取りがミイラになってしまった趣です。この過程で自我が主体性を保つことができていれば,何らかの判断が働いたことでしょう。判断の機能が生きていれば,その後のことに責任を持てます。ミイラ取りがミイラになることはないと思います。父親との関係で無気力なままでいる自我は,幼い子が母親にするように,外的なものに過度に依存するしかない状況に置かれているようです。

退行しているYさんには,妻が困っているのが理解できません。「どうして怒っているの?」と悲しそうに訊ね,すねるように黙り込んだりします。自分の気持ちでしか他人をはかれないのです。

ところで判断力は自我の機能として重要であるといいましたが,判断をするということは,当面している問題を,まずしっかりと受け止めるということが前提になります。その上で自立的に考えをめぐらし,一定の結論を出すということです。そのようなことですから,判断という心的活動を支えているのは,境界機能の’受け止める力’と自律機能であるといえます。これらの機能が,人間の心的活動には,基本的に重要であるのが分かると思います。

女子大生のIさんが,次のような夢を報告してくれました。Iさんはおかあさんが大好きなのですが,夢の中でそのおかあさんに追われ,殺されそうになったのです。

もちろん現実にはこういうことはあり得ません。夢の舞台でなぜこのようなことが起こっているのでしょうか。

Iさんの主訴は,パニック発作や人前での異常なほどの緊張でした。

この夢について,本人の連想から次のような意味が汲み取れました。

殺されるというのは,母親の望むように生きなければ見離される,そうすると自分は生きていけない,精神的に抹殺されるという恐れです。

実際の母親は,Iさんが必要な意見を臆せずいうようになったこともあって,最近ではあまり口出しをしません。しかし内心では何を望んでいるか,Iさんにはよく分かるような気がするのです。それは,やはり無視しがたい圧力になります。また,Iさんの場合,母親を取り込み内在化している度合いは人より強いといえます。その’内なる母’は,直接的にIさんの自我を監視しています。かつては傀儡自我といえるほどだったのが(パニック発作や,人前での過度の緊張の要因です。母親の仮想的な要求に完璧に即さなければならないという強迫観念と,ロボット化している自我による抑圧された怒りなどが,関与していたと思われます),このごろでは大分自由になったとはいえ,十分ではありません。このような内的状況で,自我の自由はしばしば脅威にさらされるということが,’母親に追われて殺されそうになるというふうに解釈できると思います。

Iさんはいわゆるよい子です。夢の舞台ででも,母親に対抗する怒りが見えていません。抑圧がずいぶん強いのでしょう。人前での過度の緊張は,侵入される恐怖だと思います。それは母親から侵入されてきた養育過程と,それに対抗するだけの自由な自我が育っていないこと,境界機能が不十分であることを意味していると思います。

母親の侵入,支配を受ける形の上に,母と子のあいだの強い依存関係が成り立っています。Iさんは知性的で,問題を理解する能力は基本的に高い人です。解決を要する基本的な問題への理解が進むにつれ,症状的なレベルのものはしだいに解消していきました。ということは,その分自我が力をつけてきているということです。事実,こういう夢を見て報告をする気になったのは,自我が成長した証です。診療に協力する姿勢の現われでもあると思います。

患者さんにとって無意識的だった問題を,治療者が感じ取って,タイミングよく解釈という形で還元してあげれば,患者さんの方では思いもよらぬ収穫を手にすることになります。それは患者さん自身が半ば気がついていたからこそ可能なのですが,本当に知ることには抵抗があったので,気がつかないままで済ませていたのです。治療者との信頼関係が進展すれば,自分の中の扱いが厄介だった問題を預ける気になれます。それに伴って抑圧して無意識だったものを,ようやく認める気になれるのです。

夢のこのメッセージに注意を向ける気になったのは,自我が,おそるおそるながら従来の母親への姿勢に懐疑を抱くようになったからですが,それでも,いままでの恐れが強力なので,自分が持っていた母親のイメージに異を唱えるのは,やはり容易ではないのです。

Iさんは薬をほとんど必要としなくなってきており,やめようと心に決めました。しかし,バイトに行くときなど,特別なときは服薬をしています。これが本人には問題なのです。薬は飲まないと決めた以上は,それをまっとうしたいのです。新たな混乱が生じました。

薬はやめるべきだということ,一度決めたことはまっとうしたいということは,母親への同一化を示しているようです。強迫的なこの不自由な思いは,’囚われている自我’の姿です。母親の思いとしては,Iさんが’心の弱い子’であってはならないのです。

「その葛藤は,お母さん的な考えから自由になっていないからですかね」という問いかけに,Iさんは,「そう思います」とすぐに肯定しました。そして実際に母親が,服薬を快く思っていないとつけ加えました。

母親の支配を受けているIさんの自我が,もがき苦しんでいるという様相です。

Iさんの心の世界と,Iさんが対処してきた様子を比喩的に述べると,次のようになります。

それぞれがそうであるように,Iさんは小舟の船長です。小舟には母親も乗っています。小舟は心の世界で,Iさんが自我です。小舟には他にも同船者がいますが,それらは常に姿が視界にあるわけではありません。しかし母親は絶えず視界の中にいます。それを考えると,母親は特別な同船者のようです。おそらく船長としてのIさんの腕前を信用してはいません。Iさんは母親が口を出さなくても,なにをいいたいか分かっています。常に傍にいるので一心同体も同然なのです。

海が荒れています。船長はパニックに陥りそうです。船長はまだ半人前の腕前なので自信がないのです。母親にどうしても頼りたくなります。いままで母親がいう通りに小舟を操ってきました。それなのに海の荒れ方がひどくなってきたのはどうしたことかと,分からなくなってきました。

このごろ少し分かってきたのは,自分の舟なのに,まるで母親自身が船長であるかのようになっているのと関係があるようだということです。そのために,知らず知らず荒れる海の方に舟を導いてしまっているのではないかと考えてみたのです。

しかし母親に舟から下りてもらうわけにはいきません。そんなことをいえば母親が怒るに決まっているし,下りられてしまえば舟をどう操ればいいのか見当がつきません。それで母親が眠っているときに,母親にいわれたことを無視して自分流にやってみることにしました。それなら危険な状態になったとしても母親に助けを求められるのです。いかしいざとなると動悸がします。それで病院で相談したときにもらった安定剤を利用してみました。医師がIさんの考えに賛成してくれたことも心の励みになります。薬を飲むと心が落ち着きます。しだいにそういうやり方に自信が出てきました。薬を飲むと安心することができ,自分が舟をどう操ればいいのか,落ち着いて考えることが多少はできます。

Iさんは友人達に,自分にパニック障害があるとはいえませんでした。うかつなことをいえば,自分がよほどおかしな人間であると思われるのではないか,彼女たちが遠ざかってしまうのではないかと恐れたのです。それはIさん自身がパニック障害という問題を,自分のこととして受け止めることができないでいることも意味しています。やがて彼女は,それはおかしいと気がつきました。それは辛い問題ではあっても,恥ずかしいこととはいえないと気づいたのです。思い切って友人たちに話してみたところ,彼女たちはあっさりと受け止めてくれました。理解し,共感してくれました。一番の問題ともいえることを友人たちと共有できたのは,大きな収穫でした。

これらのことは,自我の境界機能と自律機能の混乱と回復とを示しています。

あるとき,母親が口出しをしてきたときに,自分の意見をいえるようになりました。初めのうちは母親は怒っていました。それを見て恐れをなしたのも事実です。しかし,だんだん負けないようになりました。それにつれて,母親もむきになってIさんを服従させようとするのを控えるようになりました。一目置くようになったのです。

小舟に同船していたがる母親に,下りてもらう勇気はまだありません。一部は母親が可哀想だからです。Iさん自身が,独立した船長であるといえるだけの自信がついたとはいえないからでもあります。しかし,どういう問題があり,どうしなければならないかということは理解ができていると思っています。

小舟の運命は,船長にかかっています。どうしたらよいのか分からずに,右往左往しているようでは舟を守れません。ともかくも船長の自覚を持ち,船長としての仕事をすることです。自分のためによいと思うことを考え,それを実行に移すべく判断をすることが求められています。それが間違いであると気がつくこともあるでしょう。それはそれでいいのです。判断をすることが,船長が仕事をしたことになるのです。そうすれば責任を取れます。次にどうすればいいのかが見えてきます。

この舟の船長は私である,母親は相談の相手ではあっても,最終判断を下すのは船長である私だという自覚を持つことが大切です。

診療への協力云々ということを書きましたが,診療のために通っている現実があるのに,変ないい方だと思えたかもしれません。それは患者さんの側に,一般的に治療への抵抗が潜んでいるといえるからです。そのために,場合によっては,治療が成功するのを阻む無意識の心の動きさえあり得るのです。

ある人が次のようにいっておりました。

3ヶ月で治る・・・と書いてある本を見た。私は良くなっているのだろうかと疑問を持った。もしかして私は治りたくないのかもしれない。治るとお母さんが心配しなくなると思う・・・。

このように’心の病気’にはコミュニケーションの一つの形という面があります。自我が解決できないでいる問題を,病気が部分的に救う面があるのです。疾病利得といわれているのは,そういう意味です。’自爆テロ’と呼んだ人がありました。自宅で暴れたことや,薬の過量服用を指しているのですが,言葉でいくらいっても通じない両親への暴力的なアピールという意味です。

自我が無力である状態が長くつづいているとき,身体が答えを出してしまうことがあります。たとえば過眠症にはそういう意味があります。学校や会社に行きたくないときなどに,それを解決するのが自我の役目です。(自我が)判断をするという形が必要ですが,それをせずに気分まかせにしておくと,身体が答えを出してしまうのです。自我が責任を取らずに回避しているという図になるといっていいでしょう。

メラニー・クラインが,羨望の心理の強い患者さんの中には,治療者の成功を妬み,治療の成功を妨害する心理力動が見られると述べております。

患者さんは,誰にも話せないでいる自分の問題を,治療者であるがために打ち明ける気になれます。しかしそれも程度の問題です。意識的にもさることながら,本人にも気がつかないレベルで重要な問題を隠蔽してしまうのは,なんら不思議なことではありません。治療関係の信頼度には,現実にはさまざまな程度があるのはいうまでもありません。治療者の能力に足りないものがあれば,患者さんの方で,ある程度以上のものを打ち明ける気にはなれないでしょう。

相手が誰であれ,自分の心をさらけ出すに値しないという心を誇りにしている人もあります。それでも一般には,自分が理解されたい,心の地獄絵を解決に導きたいという心があるからこそ通院するのに違いありません。例外的には,心の回復をほとんど信じていないで,治療者に対する何らかの悪意から通院する場合もあり得ると思いますが。

心の根底に絶望的なものがあるからこその心の障害です。そうであるからこそ,治療者がその難解なものを解決する能力を持っているかどうか,容易には疑問を拭えないと思います。治療妨害,治療抵抗の一面は,治療者の力量をテストする心の動きともいえるでしょう。

治療者は,そうした治療的な難問をかかえていると感じられる患者さんを,自分の手に負えるかどうか判断しなければなりません。その上で引き受けることになった場合は,さまざまなレベルの治療抵抗を,むしろ治療的な手がかりにできるかどうかが鍵を握るでしょう。一つ一つそれらの関門を克服していくのは,心の治療そのものです。

自我は無意識の心に依存しつつ,なおかつ自立した,主体的な存在であることが求められています。実質的に,心全体の主体は,内なる自然である無意識に,言葉を換えれば内在する主体にあります。しかし自然界のものである主体自身は,人生を直接生きることはありません。その役割は自我に与えられているのです。

無意識の上層部は,人為的な手が加わることによって混乱させられた自然界であるといえるかと思います。その混乱の責任は自我にあり,しかし自我にはありません。自我が未熟すぎて,責任の取りようがない時代の話におよぶものがあるからです。その上で自我の責任において,これらの人為的に混乱させられた自然を,元の自然へ回復させる作業をしなければなりません。それは主体との関係を確立する方向で進められなければならないと思います。その作業が首尾よく進んでいるかどうかは,心の全体が充実し,豊かになっていく感覚が答えになると思います。

自我の機能は,便宜上三つに分けることができます。一つは自由な機能,一つは社会的な機能,一つは非社会的な機能です。

自由な機能は,なにものにも囚われない高度な自我のものです。この機能が活発なときは,内在する主体との関係がしっかりしているので,自分の価値を信じることができています。それだけに他者への依存から理想的に自由になっています。これが健全に機能しているときに,内外の状況に主体的,自立的に柔軟な対応ができるのです。自我は一個の組織体ですが,自由な機能は組織体を改善していく上で重要なものです。

非日常的な状況に置かれたとき,自由な機能の発動が必要になります。一例を挙げれば次のようになります。

小学校の一年生が交差点で信号を待っているとき,幼児が車道に入ったとします。小学生は先生に,「赤信号では止まりましょう」と教えられています。一年生はどうするでしょうか。

法規を守って信号で立ち止まるのが,社会的な機能に依ってということになります。幼児が車道に出たとき,とっさに車道に飛び出して(法規を無視する)幼児をたすけようとするのが,自由な機能の発動ということになります。

社会的な機能は,主に日常の行動に関するものです。いちいち考えながら行動するのでは,ぎくしゃくして,日常生活が円滑に営まれないでしょう。人間関係もぎこちないものになります。無駄なエネルギーを使うことになり,疲れもします。そういうことがないように,日常の生活行動は,組織的,自動的に行われるのが望ましいのです。またこの機能には,その人の社会的な顔という側面もあります。

非社会的な機能は,上にあげた二つの機能が固化して不全状態に陥ったときのものです。生活状況のストレスが耐え難いほどに感じられ,人間関係にうまく対応できないでいると,このレベルに後退する場合が出てきます。身を守るために人を避け,いわゆる引きこもりの生活に入ることになります。このレベルになると無意識の影響をつよく受けるようになります。心の沼の勢力が大きくなっているので過敏になり,ストレスを受け易くなります。それが活性化しないように刺激を避ける必要があり,他人との関係を遮断する方向に向かいます。

自我の以上の区分は,いうまでもなく便宜上のものです。実際には非社会的な機能といい,社会的な機能といっても固定的なものではなく相互に移行する関係にあります。それら自由な機能の下位にあるものは,日常の思考や行動をパターン化し,それぞれの個人の特徴を表すものです。そして自由な機能が随時,それらの下位の自我の営為を監視し,修正する指令を発します。自由の機能が活発であるときは,内在する自我との関係が望ましい状況にあり,自我は与えられているエネルギーを十分に駆使することができます。

自由な自我は,内在する主体との関係が保たれているかぎりにおいて機能すると考えられます。主体は超人間的な存在であり,自我は人間に固有のものです。両者が自我の機構において接点を持ち,主体の意志を自我が人間的に変換して一定の指令を発すると仮定的に考えることができるように思われます。そのかぎりでは人間の力の源泉が主体にあり,かつ無限な可能性が秘められているともいえるように思われます。人間の可能性が無限であるという感覚がなければ,人生はすべて自我の範疇に収まることになり,閉塞球の中に閉じ込められた存在であるしかありません。人間の有限性は現実問題ですけれど,不可知な無限感覚もまた人間のものです。

非社会的な機能に陥っている自我は,自由な自我の機能がほとんど見られなくなった心的環境に自己を置きますが,この状況では内在する主体の意志は,自我を通じて人間的に有意味のメッセージを伝えることができません。エネルギー的にも枯渇する自我である非社会的なそれは,生きる意味を紡ぎ出す根拠を欠いているに等しいといえるようです。

また,この自由の自我の活況如何が,自己感を表すと考えられるように思われます。

自我を騎手に,騎手がまたがる馬を無意識にたとえてみると,自由な機能が健全に働いているとき,両者の関係は良好です。そのとき騎手は馬の力を巧みに引き出して,いわば人馬一体の状況にあるといえます。馬である無意識には,内在する主体が存在します。賢明な騎手は,その意向を探り当てることができているといえます。

これに対して非社会的な機能のところまで後退するとき,騎手がまたがっている馬は気まぐれで,しばしば不機嫌です。おまけに騎手は自分の力を信じていないので,人生行路が二重に難しくなるのです。このとき騎手は,自分がどこへ行こうとしているのか,なにをすればいいのか見当がつきません。いわば馬まかせになってしまいます。自我の主体性は発揮されず,主従の関係は逆転してしまいます。

馬が不機嫌なのは,自我が自分の役割をきちんと果たしていないからと考えるべきです。

すべては主体との関係に帰着します。その関係に問題があれば,いわば自分の筋を離れて迷子になってしまいます。自分がなんだか分からないという気持ちに悩まされることになります。

状況に応じて,自我の様態は変化します。自由自我が健全であれば,状況に柔軟に対応できるので,人間性がますます豊かになっていくと思います。しかしそうでなければ,悪い形のさまざまなものに依存します。

非社会的なところまで自我が後退している状況では,自我は無力化し,それに反比例して裏の自我が勢力を拡大するという事態になります。強いエネルギーを蓄えた内向する怒りが,長期的に滞留することになります。主体性を失った自我は傀儡化され,いわば裏の自我の虜になってしまいます。裏の自我に率いられる無意識界の勢力は,いつしか悪魔的,破壊的な彩りを深めていくかもしれません。

人間が犯罪者になっていくのは,そうした心の変質が起こってのことだと思います。アルコールで身を滅ぼしていく姿も然りです。過食症者が過食にふけっているときも,拒食症者が命の危険を省みないのも同様です。そこには悪魔的な心に捉えられ,引きずられていく様相が表れていると思います。
拒食症の患者さんが,夢の報告をしてくれました。

暗い道を通って家に帰ると,見知らぬ中年男が来て,荷物を差し出す。「これはあなたのものだ」という。荷物を開いて中身を見ると,ミイラ化した死体が入っている。「これは私のではない」という。相手は自分の主張を繰り返し,私はむきになって否定する。

むきになるのは確かに変だ,自分のものでなければむきになることはないですからと,夢の報告者はいいます。

いうまでもなくミイラ化した死体は,患者さん自身でしょう。やせることに囚われていると,こういう結末が来るだろうということ,あるいは心が身体を否定しようとするかのような行為は,既に精神的な死をもたらしているということ,そういう意味が見て取れるように思います。

では荷物を突きつける見知らぬ男はどういう素性の者でしょうか?彼は実際には見たことのない男です。現実の人物ではないらしいということは,無意識の世界から浮上してきた,なんらかの使命を帯びた不気味な者と考えられると思います。死を予告する冥界からの悪魔的な使者のようでもあります。
患者さんがあくまでも受け取りを拒めば,使者は冥界にいざなう役目を帯びてやって来た危険なものの姿を剥き出しにするかもしれません。しかし荷物を自分の物と認め,受け止めれば,その危険を回避するのを助ける使命を帯びてやって来た者ということになるでしょう。

荷物の受け取りを拒んだ前者は,自我が機能しなかったことを,受け取った後者は,機能したことを意味します。

夢を見た人の受け取り方一つで,夢の意味が変わり,次に見る夢に影響を与えます。夢は無意識の世界にある意味を伝達する機能を持つことがあるので,それを正しく受け止めることができれば,それ自体が自我の力の証明になります。提出された問題を受け止めることは,常に重要な意味を持ちます。それは心の世界全体が好ましく変容していく上で欠かせないことです。

Updated 07/10/06

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