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性格形成に与える母親の影響(摂食障害の症例を通して) H14.2.27

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1.人格と性格
2.愛情の問題
3.内在する主体
4.自立と依存
5.見捨てられる恐怖
6.怒り
7.自我の形成
8.終章

性格形成に与える母親の影響-その6

■怒り

怒りは明確に生物学的な根拠を持っています。本能をつかさどる中枢は大脳辺縁系にあり,怒りの中枢もここにあります。動物実験で特定の箇所に電気刺激を与えると,動物はたちまち激しい怒りを表します。そして電流を切ると即座に怒りは鎮まります。いうならば機械仕掛けで怒りは発動します。

動物は,本能的に安心(安全)と満足とを求めようとします。安心を求めて巣を作る場所を選び,あるいはテリトリーを守ろうとします。満足を求めて獲物を捕らえ,異性を得ようとします。安心を脅かし,満足の追求を妨害する相手には,怒りを向けます。ただし動物の場合,同じ種族の中での闘争では,力の優劣がはっきりした時点で,弱いほうは恐れを持ち,尻尾を巻いて引き下がるのです。そうすると強いほうはそれ以上相手を攻撃し,息の根を止めるようなことはしないようです。大脳辺縁系の怒りの座のすぐそばに恐怖の座があります。怒りと恐怖とは,現象的にも相互に素早く入れ替わる類縁関係にありますが,それらはそれぞれ生物学的に個別の根拠を持ちながら近縁関係にあるのは興味深いことです。種の保存が本能的にはかられている動物の世界では,怒りと恐怖とがいわばセットになって,役割を果たしているのが分かります。

種の保存の生物学的な原則を越えて相手に攻撃を加えるのは,動物の中では人間ばかりのようです。怒りは極めて原始的な情緒ですが,人間の怒りは単に本能的,生物学的な現象とはいえません。原始的であることに特有の強力なエネルギーを保持しつつ,人間にあっては,怒りは高度な精神性に寄与する側面と,最も凶悪な忌むべき行為に関与する側面とを持っています。怒りによる攻撃行動は動物一般に認められることですが,相手を殺すこと自体が目標になる凶悪な行為は,人間に固有のものといえます。

動物の世界で見られる怒りは,生きていくために必要な,あるいは種の保存のために必要な適応的なものといえます。人間においても,この意味の適応的な怒りはあります。

動物にとっては,怒りは単純に怒りであり,自然そのものといえます。動物では怒りは他の動物に向かい,自分自身には向かいません。ここでは怒りが持つ意味は関係の破壊ではありません。そもそも動物では関係というものが,人間のようにはっきりしたものではありません。人間になついている動物は人間との関係ができているといえなくもないのでしょうが,そこにあるのは,動物の立場では,人間によって安全と満足とが満たされているということです。それは不快が退けられ,快が確保される動物的な適応的な行動の域を出ないでしょう。動物の行動に’人間的な’情趣を感じ取るのは,大部分が人間の思い入れというものではないでしょうか。

一方,人間の怒りには喜びの反意という性格があります。動物との違いは,人間では他者との,あるいは自己自身との関係の上に怒りが生じるという点です。それはおなじことを角度を変えて見れば,自我を持たないものと持っているものとの違いといえます。人間にあっては動物と違って,怒りには不快への反応にとどまらず,喜びの対極にある感情でもあります。つまり喜びがそうであるように,怒りもまた,精神的な現象です。そしてそれらの精神性の根拠は自我にあり,自我に拠って自己と他者との関係,および自己と自己自身との関係が,人間においては特徴的,かつ重要な意味を持つものとして生じています。

このように怒りの本質的な意味は,人間の場合,関係の破壊です。怒りは他者との関係,あるいは,それとの関連で自己自身との関係で生じます。適応的な怒りでは,怒りによって旧来の悪しき関係を破壊し,新たな関係を再構築する意味を持ちます。

動物の場合は怒りが他へ向かうことがあっても,自分自身へ向かうことがありません。そこが自我に拠らない動物と人間とでは,関係概念が根本的に異な

る所以です。

反抗期にある子が親に怒りを向けるのは,ひとまず適応的です。これまでの親子関係が,子にとっては支配され,抑圧される関係だと子が感じはじめたあるとき,一定のエネルギーの高まりがあって反抗が面に表われるのです。

長年にわたって培われてきた親子の関係は,それなりに強固ですが,親子の関係は,暗黙の合意,暗黙の契約によると考えることができます。そして親と子は,しばしば共犯関係にある,あらざるを得ないともいえます。それは暗黙の合意とはいえ,親の主導によるものなので,子供の立場では多かれ少なかれ不満があっても従わざるを得ない事情に関連します。親は権力的になりやすく,子供は親の権力を恐れるということを前提とした合意ですが,その上に成り立つ親子関係によって,そのかぎりで親子の安心と満足が保証されるのです。しかし親の権力,親の主導ということから明らかなように,親にとっての満足,安心が優位に傾くのは避け難いところです。そういうことを前提に,何に対する犯意かといえば,子供の心の自然的なものに関してであるといえます。これは,しかしながら,なかなか難しい問題です。子供の自然な心といっても,親の関わりがない放任された環境というものは,むしろ不自然なものであるからです。親の保護の下にある子の心の自然というものは,親の介入を人工的と捉えれば,どうしても人工的な心的環境の下でのものになります。たとえば我がままの度が過ぎる場合,あるいは逆に行儀の良い子の場合など,子供の心の自然が何であり,どこまで許容されるべきかというのは,そう簡単なことではありません。しかしながら自然の知恵というのは無視し難く,子供の心の自然の中に,自ずから自己規制を促す能力があるのではないでしょうか。大人の介入が,この自然の自己規制力を混乱させるときに問題が生じ,また,多かれ少なかれ問題が生じざるを得ないのが,人間的な現実であると考えるべきであるように思われます。ここで問われるのは,またしても親の愛情の深さと質とであろうと思います。

親の子に対する愛情は,二つの方向性を持っています。つまり親が子によって自分自身の安心と満足とを得ようとする心と,子供自身がみずから安心と満足とを得ていくのを喜ぶ心とです。前者の比重が高ければ子供の自由はさまざまに阻害され,後者のそれが高ければ子供の自立心と自由とは望ましいものになるでしょう。子供の自由を最大限に尊重する親を一方の極とし,その精神が劣悪な親を他方の極として,親子の共犯関係はそれらの両極のあいだのどこかに位置することになるといえます。その程度に応じて親子の関係は強制的合意,あるいは合意の不在となり,最も望ましくは信頼に裏打ちされた自由の契約ということになるでしょう。

次に上げる女性の夢は,母と子の共犯関係を示しているように思われます。

この女性は母親と性格が似ているそうで,両者の関係はよいという認識を持っています。

第一の夢は,「6歳ぐらいの女の子が施設にいる。母親の面会があり,女の子が喜んでいる。しかし母親は,まだしばらくは引き取れないという」といった内容です。そして,この子は私ではないと思いますとつけ加えました。

この女性は仕事の上では人に当てにされ,自信も持っています。しかし家庭では,しばしば幼い子(男子,2歳)に当たってしまいます。受診を思い立った直接の理由はその問題でしたが,夫の浮気に悩まされてもいるのです。夫は子供の世話はよくやき,子供は父親になついているそうです。彼女は経済的には自立できる自信を持っています。しかし一人で子供を育てていける自信がありません。何日間も家に帰って来ない夫に対して,別居,離婚に踏み切ることも辞さないという強い姿勢を取れないかぎり,彼女の将来は暗澹たるものと思われるのですが,元々争いを嫌う性格のせいもあって,彼女は我慢するしかないと思っているのです。そのような気弱さのために,公然と浮気をし,それがなぜ妻にはストレスなのか分からないという不可思議な感性の持ち主である夫の行動は,黙認されたままでいます。

夢に登場した女の子を,「私ではないと思います」と,質問を受ける前から自分でいっていますが,逆にそのことは,半ば自分と関係があるといっているようなもののように思われます。夢に出てきた施設については,女性の弟が肢体不自由者であるという現実があり,それと関係がありそうです。そして主観面では,女性と母親とのあいだの共犯関係の犠牲となった心内の幼い分身が,いわば心の内部の施設に預けられているというイメージが提示されているように,私には思われます。

第二の夢は,「地震が起こり家が倒壊する。両親と弟が押しつぶされ,私が泣き叫んでいる」というものです。

女性の連想が得られず,夢も断片しか記憶されていないので確かなことはいえません。しかし女性が置かれている状況と,第一の夢とを照らし合わせて,次のように読み取ることが出来るのではないかと思います。

第一の夢に現れた,心内の女の子を救い出すには,女の子の持つ怒り,悲しみ,絶望を,女性が認め,受け止めることができなければなりません。それは共犯関係にある母親への怒りの存在を,彼女が認め,受け入れることとおなじ意味を持ちます。心内の女の子は,肢体不自由者である弟のためもあって,幼い時代の女性が,母親に我がままをいい,自由に甘える心を抑圧し,’健気な大人’であったことに伴う犠牲者として(心内に)幽閉されている,というふうに考えられます。彼女の無意識的な怒りは,家という自我を倒壊させる力を持っています。彼女の心内に幽閉されている幼い子が望んでいるように,彼女自身が母親に甘えたい心を隠し持ち,我慢しているのです。だから現実の我が子を一人で育てるだけの母性がなく,頼りない夫への依存を断ち切る勇気が湧きません。夫は彼女にとっては,母親の代理という意味を持ちます。彼女は母親に依存する心を強く持ちながら,意識上では否定しています。そういう歪んだ意識と無意識との関係が,現実生活の上で夫との不可解な依存関係を生じさせています。

女性は怒りを面に表さない性格ですが,心内には大きな怒りが内向していると思われます。夫によって悩まされることに耐えつづけているのですが,ここにも怒りが内向する大きな理由があります。その怒りが夢の舞台で家を倒壊させたようです。彼女の現在の自我は母親への依存が強いので(意識上では独立しているつもりですが),母親が倒れれば,自我もまた崩壊すると感じているのでしょう。

この解釈がまったくの当て推量で,治療者である私の一人合点に終わるのであれば,私がこうした解釈をもてあそぶことは許されないでしょう。しかし治療関係の上の直感としては,かなりの確度で実態を捉えているように思われるのです。それは今後の治療過程で実証されるものであれば,この解釈は意味を持つことになります。

いま私がここで試みたのは,母と子の共犯関係と,その裏で犠牲となる分身のことと,それを救い出すのが治療上の要点になることと,そのためには怒りが重要な意味を持っていることとを例示することです。

ある父親が次のように語っています。

「息子に,幾つかの学習塾を探してやったが,息子は態度を決めかねている。ふと気がついて,もう息子に任せよう,余計な先回りはやめようと思った。そうするとずいぶん気が楽になった。思えば,これまでいろいろと無意識的に先回りして手を貸してきた。年齢から仕方がない面もあったと思うが,息子のためにも私のためにも良いことだったとは思えない・・・」と。

この父親自身がその母親から浸入的,束縛的な養育を受け,自己の姿勢を正すために多大の時間と苦労とを重ねてきたのです。

親が子を躾けるときに重要な役割を果たすのは怒りです。

心には表舞台と裏舞台とがあります。表舞台とは自我に拠る世界です。裏舞台とはいわゆる無意識の世界ということになりますが,無意識には自我がそこから生まれ出てきた,自我の拠り所となる領域と,自我の価値規範外のものとして抑圧,排除された領域とがあります。そしていずれにせよ,自我の基本姿勢は,それら一切を引き受けるということです。無意識の世界は自我の能力から見れば無限大のものであり,であればこそ自我が拠り所とするに値するのですが,それをも引き受けるのが自我の使命という大いなる矛盾があります。自我に拠る人間は,どうしたって矛盾を生きる宿命の下にあるのです。

自我に拠る心の表舞台は生を志向します。そして心の裏舞台は死を志向します。人の心には日常的に生と死とが入り乱れて表われます。一途に,永遠に生を生きることができない人間は,睡眠という形で死を日ごと経験します。目覚めと睡眠とは,生は単なる生ではなく,死をも含むことの一端であると考えられます。そして健やかな心は,睡眠によって一日の生を閉ざし,翌日,健やかな目覚めとともに再生するのです。

怒りは裏舞台に所属するものです。怒りの指し示すベクトルの最奥にあるのは死であろうと思われます。

動物が怒りを表すのは,生に適応するためでしょうが,怒りを露わに攻撃すれば自分が殺されるかもしれないのです。しかし闘うしかないのです。怒りを表すときに,動物は死を計るようです。勝ち目がないと分かると,怒りに代わって恐れを表し,降伏する自然の知恵を持っています。

親が子を叱るときはどうでしょう。叱るというのは,分別のある態度です。親の権威を背景にして教え諭すのが叱るということです。しかし叱るということと怒るということとは,見分けがつけにくいものです。叱ることは,抑制された怒りであるといえるように思われます。その証拠に,叱っているつもりでも,子供が思い通りにならなければ,いつの間にか怒りそのものに代わってしまうことも,むしろ一般といえるだろうからです。

人間にとって怒りが動物と根本的に違うのは,怒りを自我が加工するということです。子供が怒りのはけ口になっているように見えても,躾けのためだといえなくもありませんし,正義のために命がけで闘うこともありますし,理不尽な相手を黙らせることもできる等々です。

人間をも含めた動物の生を促す動力は,満足と安心との追求ではないかと思われます。本能的な心の要求に自我の加工が入る人間においては,動物よりは複雑ですが,煎じ詰めるとおなじところに落ち着くように思われます。

親が子を躾ける場合にも,親が満足と安心とを追求する基本姿勢に従っているといえます。どんなに愛他的精神に富んだ親でも,子を躾けるときに親自身の満足も追求されないわけにはいきません。親が子について描く期待イメージが,子の心の自然の要求に即したものであれば,素直に子によって受け入れられ,親も子も満足できるでしょうが,子供が反発して親が描くイメージが脅かされると,何らかの怒りが生じるでしょう。そのときに親がその怒りをどのように表現するかは一定の傾向があるものなので,親子関係に強い影響を与えるに違いありません。親たるもの,そのようなときには自分自身の心にある怒りを見つめ,それが与える自他への影響を計らなければなりませんが,実際には簡単なことではありません。気の強い親,気まぐれな親,頑固な親,気弱な親など,さまざまに異なった表現になるのはいうまでもないことですが,怒りの持つ破壊力に親の自我が翻弄されなければ幸いです。子にとって一番ありがたい親の姿勢は,いろいろあっても引き受ける精神が根底にあることではないでしょうか。それがあれば要するに正直な心でいられますし,何よりもそれ自体が親自身にとって満足と安心との源泉になるので,子の助けに依存する度合いも最小にできるからです。

親の価値観の事実上の強制を,子は多かれ少なかれ不満を抑圧して受け入れ,両者の無意識的な暗黙の契約が成立します。それに伴って子供は親によって安心と満足とを与えられることになるのですが,そこには,親に従わなければ安全を保証しないという隠れた威嚇に,子供が多かれ少なかれ屈せざるを得なかったという事情が潜んでいるのです。これらのことには親と子の双方ともに,一般的には無意識だと思います。ここには親と子の共犯関係という意味があります。この関係によって子供の自我が,子供本来の満足への要求,自分の心の自然的なもの(甘える心,羽目を外した遊び,いたずらなど,子供にとってはそれらの満足を満たすことは,その後の成長に大きな意味を持ちます)の要求を抑圧(いわば心の牢屋に拘束する)し,犠牲に供することになります。共犯と呼んだ意味は,これら抑圧され,犠牲となったものを生み出すということです。それらは心の表舞台の価値規範に合わないものとして裏舞台に回されたというふうにも考えられます。それらのものたちは,しだいに影の分身といえるほどの勢力を持つことになります。それは自我が偽りの自己を作り出すことに直接的に関連しますが,これらのことは人間には避け得ないものでもあります。

また生きることの拠点である自我によって受け入れを拒否され,裏舞台に回されたものたちは,生きることの反面である死を志向する性格を持つといえます。自我がこれらの影の分身たちを改めて自己に再統合することができれば,それは自己の成長ということになります。人生の重要な意味の一つは,そのように影の分身たちを再統合しつつ自己の発展を模索することであるということができると思います。

逆に裏舞台のものたちに対して無関心,無気力でいれば,影の分身たちは勢力を強める一方で,相対的に生きるエネルギーは衰微せざるを得ないでしょう。そういう状況では,裏舞台の極北の首座にあるといえる死の影がもたらす極風が,人の心を戦慄させるでしょう。心の諸々の病気は,この戦慄させる極風に吹きさらされることによってもたらされるといえるように思われますが,しばしば心の病気の諸症状は,その戦慄させる北風から身を守る手段ともいえるように思います。

人は何らかの満足と安全とを求めないではいられない存在です。心の表舞台で思うようなそれらが得られないときに,裏舞台のものたちが,いわば凍え死なないように病気というせめてもの隠れ家に身を潜めるという側面があるようです。いうまでもなくそのせめてもの満足は,症状といわれる苦痛に身を切られる思いと引き換えに得られるものです。

一例を上げれば,拒食症は,身体が痩せ細っていくことにのみ満足感が得られるのです。衰弱して死が切迫していると分かっていても,その満足の追求をやめることができません。

心の表舞台と裏舞台とは一定量のエネルギーを分かち持っていると思われます。表舞台が活力を持っていれば相対的に裏舞台が沈静化され,要するに元気でいられます。表舞台を活性化するエネルギーは,満足感によってもたらされ,その根本的な由来は内在する主体にあるものと想像されます。また裏舞台に注がれるエネルギーは怒りによってもたらされ,その根本的な由来は死界(内在する裏の主体)にあると想像されます。

これら表と裏の主体は,結局は一体のものであり,前者を全と呼べば,後者は無と呼ばれるべきもののように思われます。すべてを分割してでなければ認識的に把握できない自我にとっては,生と死とも正対するものとして表れるしかありませんが,いずれもが自我を超越した存在です。それらについて自我に拠る認識を敢えてほどこせば,以上のような意味を見て取ることが可能だというふうに考えるのです。

このように考えることを単なる暇つぶしに終わらせないために必要なのは,ここでは心の領域での臨床上の問題に寄与できるかどうか,臨床上のできごとに符号するかどうかということです。

心身症を病むものの多くが,もともと良い子といわれてきた人たちです。人生の最早期の幼いころに,心根を震撼させる何らかの怯え(死の極風に関連するでしょう)があると,親に捨てられないように(捨てられると生きていけないという心理が働くと思われます),親に満足されるように専心します。それは一方では,子供自身が自らの意志で,本来望んでいた,情緒的に満足したいとする心を断念することになります。それによってそれらの心は,心の暗部に幽閉されることになるのです。言葉を換えれば,自然的には受け入れられて然るべきものが,自我によって不当な拒絶を受けたことを意味します。

以上のことを敷衍すると,子の心根にある怯えが親の介入に対して自我を無気力にさせ,引き受ける精神を放擲させるのです。その結果自我によって裏切られたのも同然の自然の心たちは,心の裏舞台に回されることになります。人生の最早期にそのような心の動きがあれば,その後の心の成長過程において,親の価値観に同調しつづける自我になります。そしていうならば同じ過ちを繰り返すことになり,雪だるま式に増大する影の分身を抱え込むことになります。それらの勢力が増大するにつれ,分身たちの怒りのエネルギーもまた増大していきます。

それら分身たちの怒りの圧力に突き動かされて,子供の自我はそれに同調しないでは済まなくなるか,あくまでも畏怖する自我がそれらの分身たちの圧力を強力に抑圧しつづける(この場合は分身たちの怒りがほとんど意識されません)かということになります。後者は大きな問題を残したまま成長しますが,前者は,これまでの親子関係に異議を申し立てなければ済まなくなります。その心の動きは,旧来の親子の共犯関係を破棄し,分身たちの要求を受け入れた形で改めて契約を結び直そうとするものです。

これらのことを実行に移すには,それ相応のエネルギーの高まりを必要とし,覚悟が要ります。反抗期の反抗は,人間として成長し,力をつけてきた証拠でもあります。そのように,反抗期での怒りは,親との関係で子供自身もその関係維持に加担し,恩恵を蒙ってきた旧来の関係が,一方では自分自身との関係での軋轢が耐え難いほどに大きくなったことに伴うものです。

しかしながら関係の破壊には,それなりの危険は避けられません。それはある意味では忘恩なのです。共犯関係とはいえ,そういう形で親の恩を受けてきたのは事実ですから,世話になってきた親に弓を引く罪悪感も伴います。そして必ずしもその後の保証はありません。関係を破壊しようとすることの重要な意味を,親が理解すれば子の勇気は価値のあるものになります。困難な人生に適応するために,勇気と信頼と愛情とが踏み絵にかけられることになります。

20代の女性,Lさんの例です。

Lさんはしばらく休んでいた仕事に出ることにしました。Lさんは,「心の中にもう一人の子供の私がいる感じがしている」といいます。これは先に述べた’分身’が,自我に脅威を与えるほどに成長し,乖離した存在として意識にのぼり,自己の一体感,統一感が危機に瀕していることを示しています。

この幼い分身が表に出ると,頭がボーっとして思考力がなくなるそうです。しかし,「会社に出れば大人の私がしっかりするので,仕事はこなせる」のです。それが今回はいつもと違い,しばらくぶりに職場に復帰したところ,分身に邪魔をされて,思ったようには仕事をこなせなかったのです。帰宅して,情けなくて号泣しました。そして幼い分身を殺す気持ちで,胸に刃物を向けました。その夜,幼い分身に仕返しをされました。実際には,自分で自分の首を絞めました。その後二日間にわたり手首に傷を負わせました。

このことがあった前日,母親と雑談していた折に,自分の病気のこと,幼い分身のことを母に聞いてもらいました。母親は,「そんな話は私には分からない」といいました。また,「病院に一緒に行って・・・」と頼みましたが断られました。Lさんは,「母親が理解しないだろうということは,期待する部分もあったけれど私には見当がついていた。しかし幼い子供はそのことで傷つき,怒ったみたいだ」といいます。

この話は,要約すると以下のようになります。

母親に認めてほしいと願いつづけているLさんは,母親の願いどおりの子でいようと努めるのが習いでした。それで母親との表面の関係は平和に保たれてきました。しかしLさんの本当の願いは,(二人の関係の犠牲者として)存在が明らかになっている’幼い分身’をも含めた,全身的なLさんの存在の容認です。そのためにLさんは,母親に’幼い分身’について説明し,一緒に病院へ行ってもらいたいと頼みました。それが聞き入れられれば,乖離している分身との和合が可能となり,乖離の解消と自己の統合とが図られると考えたのです。ところが母親はその願いを拒否しました。母親との関係を手放せないLさんは,逆に分身の怒りを活性化させてしまったことになります。自我は混乱に陥り,仕事に支障をきたしてしまいました。従来は,「仕事に出れば大人の自分でいられる」と思い,それが一つの支えになっていたので,このことは二重に心に打撃を与えました。そしてLさんは母親にではなく分身に怒りを向けました。分身が消えれば乖離は消滅するのです。しかしそれはお門違いというものでした。分身を作り出したのは他でもなく,Lさん自身なのです。分身の仕返しにあったとLさんはいいますが,それは起こるべくして起こったといえる出来事です。分身はLさんと一体のものなので,Lさんが引き受ける以外にないものです。分身の立場からすると,Lさんの自我が分身の存在を容認し,自我に統合する意志を持つか,あるいはその可能性があくまでも閉ざされ,もろともに滅びる道を選ぶか,ということになるのです。いうならば母親を取るか,分身を取るかは,死ぬか生きるかということに等しいのです。

このように,生死を賭けてでも手放したくない母親との共犯関係を支えるものは,Lさんの心根にあるだろう,根源的といえるほどの恐怖以外には考え難いことです。

Rさんは男子大学生です。

初診の半年ほど前から,これといった外的な理由がなく,無気力感に囚われるようになり,母親に促されて受診しました。

Rさんの成育史で重要なのは,母親が入院を含む精神科受診歴を持っていることです。

母親はそのことを,自分の病気が子供たちに迷惑をかけたと大変気にかけています。母親自身は最近は一日の中の一定の時間,睡魔に襲われる(そのことを,眠りに逃げ込むように,と表現します)ものの,それ以外は健常状態と変わらず,残遺症候はありません。

Rさんは,小学校以前の記憶はあまりありません。小学校のころが一番楽しかったといいます。家では母親が怖いのでおとなしくしていたといいますが,外では先頭に立って,(幼い子としては)過激ないたずらをしていたということです。

5年生になってから,母親に命じられて塾通いがはじまります。勉強がいやで仕方がなかったそうです。しかし母親には絶対服従でした。目標の学校は中高一貫の有名校で,母親のいうなりに決まりました。受験勉強をはじめてから,2年間にわたり,身体への暴力を含むいじめにあいました。

受験は成功しました。しかし,自分から進んで入った学校ではなく,強制されるばかりだったという思いがありました。合格してしまうと,「もう勉強はしなくていいんだ」と思いました。勉強を怠けているので,成績は下がる一方でした。中学2年のとき,進級が難しいことになりました。そのころ両親の喧嘩が絶えなかったといいます。母親が独断で,学校に行き,退学を決めてきました。Rさんは勉強はいやだと思っていましたが,自分で勝ち取った学校という思いはあり,また学校が嫌いなわけではないという気持ちもありました。この学校に入ったのは母親主導でしたが,やめるときも同様でした。Rさんは逆らえませんでした。

公立中学に転じたあとも’やる気’は起きず,欠席が多かったということです。それでも友人には恵まれました。高校は管理的に行き過ぎていたそうで,1年で中退したRさんは,現在にいたるまで引きこもりがちの生活ですが,遊びに誘い出してくれるのは,そのころの友人たちです。

大学への進学希望は特にはありませんでしたが,通院後,大検を受け某大学に入学しました。Rさんには興味がある学問分野があり,そこを選んだものの,入学が決まったときに何の感動も覚えませんでした。疲労感が絶えずあり,講義への幻滅感もあり,いつか通学の意欲を失くしてしまいました。いまは休学中です。

通院後は,いわば一進一退です。気分がよいときと,乱気流に巻き込まれたように不安定になるときとが交互にやってきます。死を待望する気分にしばしば陥ります。生きようとする心と,死にたいという心と,二つの心が綱を引き合うように交互に表われるのです。

通院をはじめて1年半ほど経ったある日,いつになく険しい表情で受診しました。

母親に,「生んでほしくなかった」とはじめて口に出したといいます。そのあと自殺も考えました。「いままでいわなかったが,物心ついたころから,死にたい,生きていたくないと思ってきた。元気にしているときも,その気持ちを隠していただけだった。口にしなかったのは,そうすることで家庭が壊れるのを心配したからだった」といいます。

深刻な事態であり,深刻な告白です。しかし,新たに困難な局面にさしかかったというよりは,元からあった心の問題が告白されたのです。そのような苦しい胸のうちを明かしてくれたのは,むしろ注目され,評価されてよい局面です。いわば生きようとする心が勝ってきたからこそ,口にすることが出来たといえます。

評価してよいもう一つは,これまで抑圧してきた怒りを,母親に向けて表現したことです。そしてその怒りが,母親のみならずRさん自身にも向けられたものであることを,Rさんはすぐに気がつきました。

従来,母親とのあいだには,母親の意向には逆らわないという暗黙の合意がありました。母親の病気に伴う不安定,怒りっぽさ,入院による不在等々は,幼い幼いRさんには脅威だっただろうと容易に想像されます。幼いRさんは,母親の気持ちに迎合することで母親の怒りを鎮め,母親が(多くは心理的に)遠くへ去ってしまわないように心を砕いただろうことも,容易に想像されます。このように,母親の意向には決して逆らわないという暗黙の合意は,母親を恐れる心を背景にしたものであるのは明らかです。その暗黙の契約は,幼いRさんが自分の内部にある自然の心の要求を無視し,黙らせることなしには済まないものなので,共犯関係といえる性格のものです。

Rさんが母親に向けた怒りは,その関係の不条理性を問い質すものです。怒りを込めた異議申し立ては,両者の関係の犠牲となっている分身たちに端を発するものですが,それをRさんが受け入れたことになります。

一般に怒りは自我に所属するものではありませんが,自我がそれを受け止め,みずからの責任において怒りを利用するときに,怒りは適応的な意味を持ちます。

Rさんの異議申し立ては,「生んで欲しくなかった,無(死)を望む」ということです。「生んで欲しくなかった」というのは母親に向けられたものであり,「無を望む」というのはRさん自身に向けられたものです。

怒りは関係の破壊を志向します。母親との旧来の関係を破壊しようとするRさんの怒りが適応的なものになるかどうかは,一つには母親の姿勢にかかっています。つまり母親が冷静に受け止めることができるかどうかですが,「子供に迷惑をかけて申し訳ない」気持ちで一杯の母親は,悩みながらも受け止めることの意義をよく理解しています。またRさん自身も,自分の中にあるはずの怒りの正当性を認めたからこそ,無意識層深くに潜んでいた怒りを意識の上に浮上することを許したといえるのでしょう。ある程度はそれを口に出しても,母親の病気は悪化しない,親子の関係が破壊されることはないという計算も働いただろうと思われます。いわばそれなりの心理的な準備が整って,かつては考えられなかった自己主張をしたのです。

評価できるもう一つは,治療者に,「いままでいわなかったがずっと死にたいと思っていた・・・」という’告白’です。これは重い荷物を治療者に預けても大丈夫だろうという心理があってのことです。ある意味では治療者へのプレゼントです。また,その告白の意図の重要な要素は,「死にたい気持ちがあるのは事実だが,それを共有してほしい,何とかなるものなら方法を教えて欲しい」という気持ちが無意識的に働いているだろうと思います。ですからこのことは,治療的な展開といえるのです。

これまでにRさんは,「自分が最も望むのは無です,消えることです。一人になることは何とも思わない。友達は要らない・・・」と繰り返しいっていました。その都度そのことについて話し合われてきました。この’告白’は,そのやり取りの延長線上にあるといえます。

その後何度か母親に向かって,「生んで欲しくなかった・・・」という怒りの表明をしています。そして,母親への怒りの表明が繰り返されることに伴って,乱気流に巻き込まれたかのような気分の乱調は,目に見えて収まってきています。

Rさんが怒りの存在に気がついたのは通院後のことです。それまでは怒りは自我によって強く抑圧され,無意識下に潜行していたのです。それは母親を恐れる自我が,母親の自我に同調したことによるものでしょう。抑圧が強かった分,恐れも強かったと考えるのが合理的だと思います。

(30代のある主婦は,「結婚するまで母親のいうことに疑問を持ったことがなく,ましてや怒りを覚えたことがなかった」のです。ところが結婚してから,夫の家庭や育ち方などが,自分とあまりに違うのでびっくりしました。夫は寒い日に外出しようとすると,「温かくして行けよ」といいます。ところが母親は,「みっともないから一枚脱いで行きなさい」といいます。一事が万事この調子でしたが,「世の中こんなもの」と思っていました。母親は世間体が常に気になる人だといいます。しだいに怒りが収まらなくなりました。いままで溜まっていた怒りが,堰を切ったように意識に上ってくるようになったのです。あるときから電話の連絡も断っています。母親を「心の貧しい人」といってはばかりません。些細なことで苛立ちを覚えると収まりがつかなくなり,しばしば落ち込みもします。そういうことで受診にいたりました。この方の場合は怒りの存在を,幼いときから自分でも気がつかないように抑圧し,その存在を消していたのでしょう。それはいうならば親子の共犯関係に基づくものです。いまは心の中を飛び交うようにして表われる怒りの処理に窮していますが,怒りの存在を過度に抑圧する自我から,その存在を受け入れた自我に移行したということなので,差し当たりは苦しくても彼女の自己の回復過程では重要なことが起こっているのです)

Rさんがうつ状態に陥ったのは,高校を中退してコンピューター関連の仕事を目指していたころです。ある時期からそのことへの意欲を失ったのがきっかけでした。そのことに特別な外的事情があったわけではなく,いわば内的に閉塞状況に陥ったようです。そのころから,いわゆる引きこもりの生活になりました。心のベクトルが生よりも死の方に傾いたといえる状況です。見方を変えれば,心の舞台の重心が表から裏に移行したともいえるでしょう。

通院後,まる2年ほど経ったころに,次の内容の夢の報告がありました。

パラシュートで降下する。綱が切れる。死の恐怖と安堵。しかし山の頂上に落ちてたすかる。「たすかった」と思った。苦労して自力で山を下りる。

Rさんの内的世界では,生きようとする心と滅びようとする心の綱引きが長期にわたってつづいています。夢の内容もそういうことを表しています。パラシュートでの降下は,この夢では生と死を賭けたものです。もし綱が切れなければ死はありません。危険ではあっても,ただのスポーツです。しかしここでは綱が切れてしまいました。そして生きようとする意志がはたらいて,山の頂上に落ちることになります。仮に夢の中で激突死していれば,近い将来に実際に死の危険が迫っていると考えなければならなかったかもしれません。

この夢によって,Rさんの生きようとする心が死を望む心に勝ったことが窺えるのですが,現実にはすぐにはその意志が強化されていく様子が見えません。あるとき自殺を考えて外出し,しかし恐怖心から果たせなかったということも起こっております。それは夢の内容に符号するものです。母親(父親にも)への怒りの爆発はその後も見られました。そしてそれが母と子の旧来の関係を破壊する上で必要であり,有意味でもあったのです。その証拠に,しだいしだいに気分の安定が図られております。

Rさんから,「自分の仕合せを問い詰めていくと,どうしても無を望むことになる。それがなぜ問題なのか,その自由はあると思うが・・・」という問いかけがしばしば見られていました。そして気分の安定化に伴ってそうした問いかけが見られなくなっています。

Rさんの問いかけに,私は,自我に拠るのが人間である所以だから,というふうにこたえております。

自由と死のテーマは,他の方からも提出されています。その方は自死について言及することが多いのですが,次のような夢を見ました。

だれかがステージに立って,「自由を勝ち取ろう!」と演説している。そのとき私自身が空から落ちて行く。

この男性の問いは,自死と自由とは同等だろうかという問いでした。

自由は心の表舞台のものです。死は裏舞台の最奥にあるものです。前者は自我の世界のものであり,後者は自我の範疇の外にあるものです。もし自死が自由に選べる性格のものであれば,それは自我の世界に所属することになるのですが,そうではありません。自死は自我の力の行使ではなく,自由な選択の不能として起こることではないでしょうか。

ここで検討に値するのは,ソクラテスの死です。

ソクラテスは,「悪事をなす者で,若者を堕落させ,国家の神を信じず,自らの何か新しい心霊を奉じている」というかどで告発されたといわれています。彼は刑罰を免れるための一切の弁明をせず,亡命のすすめも拒否して,毒杯をあおって刑死しました。

ソクラテスが裁判にかけられ,死刑の宣告までされるにいたったのは,(「ソクラテスの弁明」におけるソクラテス自身の説明によれば)次のごとくです。

それはソクラテスが自分自身に課した’奇妙な使命’から生じました。あるとき,カフェレオンという彼を信奉する親友の一人がデルフォイへおもむき,ソクラテスより知恵のある人がいるかどうかと,神託を訊ねました。その答えは,ソクラテスより知恵のある人はいないというものでした。

ソクラテスは,それは何を意味するのか知りたいという使命感に駆られたのです。というのは彼自身は,善美のことや徳(それらは魂を世話することを何よりも重視するソクラテスにとって,最深奥にある課題でした)について,自分はむしろ何も知らないと考えていたからです。そうすると神託は,何も知らないことを知っていることが知恵のある者であるといっているのだろうかと考え,それを確かめたいと思ったのです。この答えを知るために,自分より知恵のありそうな者を探し出す必要を感じました。これはと思う者に会って,彼らの知恵に耳を傾け,それを論駁できるだろうかと考えました。結局,彼らの誰一人としてソクラテスより知っている者はいないというのが結論でした。何ほどかすぐれたところがあっても,自惚れることでそれを帳消しにしているということが明らかになるばかりでした。彼らはほとんど知らないか,何も知らないのに,すべてを知っていると思い込んでいるのです。ソクラテスは,結果的には,自惚れる者たちに問いを持ちかけ,自己矛盾に陥らせることで,見せかけの知恵を暴き立てる仕事にのめり込むことになりました。こうして恥をかかされた者たちの激しい敵意を呼び込み,知識の教師を自認する者たちから,「詭弁を弄してアテナイ市が認める神々を認めず,別の新しい神を信じるように促し,若者を堕落させる不埒者」呼ばわりされることになったのです。

こうした問題になった背景には,当時のアテナイ市が国家の存亡をかけた政治的状況にあり,アテナイ市民に与えるソクラテスの立場と影響力の大きさ,加えて多くの市民が彼をソフィスト(神を否定するもの,弱小の問題を強弁して世を惑わす者)と混同していた,などの事情があるようです。

ソクラテスは人類の教師と讃えられていますが,ソクラテス自身は神に仕える者という使命感を持っていたようです。彼は合理的な精神を誰よりも尊重し,身につけてもいた人といえるのでしょうが,一方では親しい関係にある者にとっても,神秘的で不可思議な人という側面を持っていました。それは,「子供のときから何か神からの知らせとか,鬼人からの合図とかいったようなものがよく起こった」と彼自身が述べていたと伝えられているように,’心内の声’に聞き入っている姿がしばしば見られたからです。

当時は,神の定めた圧倒的な運命の前に,人間はいかんとも抗し難く,神託,予言,前兆,夢などを通じて自分たちの運命をさぐり,悪しき運命をできるだけ避けようとする時代精神から,一方で,そのような運命的な必然に対して,人間の自由を主張する合理的な精神の方向へと時代が動いていました。特にアテナイ市民は自由を何よりも誇りとしていました。彼ら市民たちが自由と合理性を謳歌しようとした背景には,神々がまだ生きていた時代であったということがあるでしょう。一方では神々の威力を畏怖し,一方ではそれを非合理なものとする合理的な精神が台頭し,しだいに後者が時代をリードしつつあったといえます。

神々への畏怖を背景として,掟や部族の宗教に縛られる古代人に較べると,アテナイ市民たちは大きな自由を謳歌しつつありました。しかし宗教的な戒律に代わって,今度は市民たちは,ポリスへの全的な服従という戒律に従わなければならなかったのです。いずれにせよ自由という高度な精神は,人間はどう扱ってよいものか分からないものになりがちです。ソクラテスが,「身体は一切の災いの素である・・・・・・魂(精神)ができるだけすぐれたものになるように気を使わなければならない・・・・・・そのことよりも先に,もしくは同程度にでも,身体や金銭のことを気にしてはならない」というように,身体性を持つ人間には,純一の魂と同義であるらしい真正の自由というものは,永遠に理念でありつづけるばかりです。ですから戒律がなければ,人間がそれぞれに勝手なことをはじめる混乱は避け難いことです。

神々の名の下であろうとなかろうと,戒律を定めるのは人間です。自由を与えられると勝手なことをはじめる愚かしさが人間のものであるなら,本当にはその権利も資格もないのに,市民に戒律を押しつけて自由を奪う愚か者もまた人間です。自由を真には謳歌できない人間は,どうしても愚か者以上にはなれないというべきでしょうか。

ソクラテスは,自分自身がそのような意味での愚か者であることを誰よりも承知していました。そして真の賢者は神であると認め,自分は神の助手として,自分の愚かしさをかぎりなく煎じ詰めることによって,人間の分としての賢者でありたいと熱望した人です。そして神の助手であるという自負心と使命感とを持って,アテナイ市民たちを少しでも有徳で謙遜であるように仕向けようとしました。彼は自分自身が神の助手としての資格を本当に持っているのかということを確かめるためにも,世の中の権威者と考えられている人間たちと,ある意味での知恵比べをしたのです。

ソクラテスは自分の使命を,「(神が私を)虻のようなものとして,このポリスに付着させたのではないかと思われる・・・」という比喩を使って表現しています。「・・・ポリスという馬は,素性がよくて大きいが,そのために却ってふつうより鈍いところがあって,目を覚ましているのには,何か虻のようなものが必要だ・・・(諸君は)目を覚まされて怒っているのだろうが,そのような(虻である私のような)人間を軽々に殺してしまうと,後は(諸君は)ずっと眠ってしまうことになるのだから,困るのは自分ではなく諸君の方だろう・・・」といいます。

神の助手を自認するソクラテスを理解するには,内心の声に聞き入った特異の体験の持ち主であることを抜きにしてはできないでしょうが,神々がまだ生きていた時代であればこそ,その特異さが彼を神々しく色づけることに益したのでしょう。彼の時代であれば,「神からの知らせに聞き入っていた」といっても,「それは幻聴というものです」としたり顔にいって聞かせる者などはいなかったのは幸いでした。もっとも内心の声に従ったといっても,声が彼を突き動かしたのではなく,何か間違った考えが浮かぶと声がそこに介入してきたという意味のことを,ソクラテス自身の言葉としてプラトンが伝えています。つまり彼は憑かれた者ではなかったということです。

ソクラテスは一方の足を神の世界にかけ,もう一方の足を人間界にかけていたといえなくはないように思われます。ソクラテスの信奉者たちはそういう彼に神々しいものを見たようです(プラトンは「饗宴」の中で,アルギビアデスの名を借りて次のように語らせています。・・・ソクラテスの話は女,男,少年の区別なく,みな驚嘆してそれに魅入られてしまうようなものであり,・・・ソクラテスと接することで,心臓は激しく動悸を打ち,涙が流れ,奴隷のような状態になって恥じ入るという体験をした)。神の世界に片足をかける存在が許容される時代でなければ,ソクラテスのように,あれこれの誇り高い人物のところにおもむき,その思想の迷妄を確かめ,正そうなどというお節介は,決してまともに相手にされることではなく,許されることでもないでしょう。その意味では現代は神々に対する人間の自由は,完全な勝利を得ています。そしてアテナイ市よりは,社会を律する掟もずっと洗練されたものになっているに違いありません。しかしながら真の自由を謳歌できるほどに人間が洗練され,愚か者であることからも自由になりつつあるかといえば,それは設問自体が愚かしいことになるでしょう。

私がソクラテスに見る最大のものは,引き受ける精神の具現者であるということです。何を引き受けるのかといえば,神命ということになります。つまりソクラテス流に考えれば,自我に拠って人間であるようにというのが神命であり,彼はそれを潔く引き受けたことになります。

自我はまさしく引き受けることを使命としています。そしてソクラテスが耳を傾けた内心の声の発信者こそ,先の章で問題にした「内在する主体」であると考えられます。

これは非科学的な考えでしょうか?

思うに人生とは,ソクラテスが内なる声に耳を傾けたように,内在する主体の意向に耳を傾け,それに即してそれぞれの自分の心の姿勢を整えていくことにより,自己自身になろうとする行為過程であろうというものです。ここでいう自分自身とは,ソクラテスに従っていえば,純一なる魂に到ること,換言すると’囲いの外’へ超え出ることによって神の意志そのものと合一すること,という意味合いになると思います。こうした人間的な知性,認識力を超越したものもまた人間存在の構成要件になっている以上は,想像的に人間的に解釈し,人間的な言葉に置き換える努力は,目下の問題に答える上で欠かせません。問題は全体を包括的に見る視野の上に立たなければ,いかなる理解も本来的なものに近づくことはできないでしょう。

具体的に主体者の意向をどう捉えるのかというのは難題ですが,ソクラテスの愛知の精神,常に最上のものを知りたいとする精神はそういうものです。また我々の日常に即していえば,一つには,’心の障害’といえるほどの心の苦境からどのように脱するのかということに手がかりを与えるものがそういうものである,と考えることができます。実際,「内在する主体」というのは,机上の空論を弄んだ結果の産物ではなく,患者の皆さんとの関わりを通じて経験的に浮上してきた産物であるのは確かです。

ではギリシア時代の神はどこへ行ってしまったのでしょう?宇宙的規模で森羅万象をつかさどる神を擬人的に描いたさまざまな神話は,それが生き生きとた感動を人々に与えていた時代にあっては,それに呼応し,活性化される心の内部の状況があったのでしょう。現代では神話はくだらないお話の域を出ません。それに呼応する心がほとんど死んでしまっているのです。言葉を換えれば自我が至上のものとなり,非合理的なものが意識からほとんど排除されてしまった現代では,神が云々されることは困難になりました。しかし神を征服し,至上者の位置についたかのような自我に拠る現代の人間は,ソクラテスの時代に較べて一段と成長し,賢くなったとも思えません。物質文明が栄え,心が砂漠化している現代は,ソクラテスが魂の世話をせよ,金品や身体を魂に従えさせよと警告を発しつづけていたことに学ぼうとしなかったために,精神の貧困化を必然的に招き寄せたといっても過言ではないでしょう。そしておなじ理由によって,神や自然を畏れる時代には豊かにあっただろう謙遜の心が,現代ではあやしいものになっています。人間にとって自我は最上位のものではないという自明のことから,謙遜の精神は人間にとって最も意味のあるものに違いないのです。

ソクラテスがしたように,内心の声に耳を傾けることは現代でも大きな意味があります。それは人間が拠って立つ自我がその上位のものに依拠しているのは論を待たず,その上位者を内在する主体と位置づけるときに,この主体の意向に耳を傾ける必要があるからです。自我を通じて我々がするべきことは主体の意向を模索することです。C.Gユングは,夢は意識の補償作用の意味を持つといっております。自我が主体の意向の軸に即するように活動しているときに,自我の働きはいわば補償される必要がありません。そして心の障害という事態にあっては,自我の活動の方向性と主体の意向の方向性とが甚だしく合い隔たってしまっているといえ,補償作業が必要になるのです。

内在する主体の意向に耳を傾けるのは,ソクラテス流にいえば,「神からの声」に耳を傾けるのとおなじ意味になると考えられます。現代の神は,内在する主体であるということが可能であり,そのように考えることによって臨床的な問題の理解と,治療上の工夫と有効性とが確かめられていると私は考えています。また,そのような意味のある思考の連鎖を,私は科学的であると主張できると考えます。

ところでソクラテスは,死刑の判決を逃れるための画策や,あるいは,まだ幼い年齢の子供たちを含む家族の苦境も考えて欲しいという弟子達の声に耳を貸そうとしませんでした。彼にとっては最も正しいと考えることを,いかなる理由によっても捻じ曲げることは許されないことでした。神の助手としての自分の崇高な使命を翻し,地上の汚濁にまみれている者たちに媚びるなどは,彼には考慮に値しないことでした。神を信じるソクラテスには,この世で善を生きようとする者は,囲いの外である彼の国ではますます善が喜ばしく遂行されるはずのものでした。

引き受ける精神の具現者であるソクラテスにとっては,死は雄雄しく引き受けるべきものでした。

死に関して彼は次のようにも述べています。

人間というものは,囲いの中に入れられ,その囲いを監視するものにいつも見張られている動物のようなものである。その動物が勝手に自分の命を絶つようなことをすれば,監視するものは当然腹を立てるに違いない。一方,哲学者は無知な大衆によって’死んだ者’と馬鹿にされるが,真の哲学者とはいわば死の練習を日夜しているようなものである。死とは一切の災厄の元である身体を去って,魂そのものとなることなので,それこそ真の哲学者の望むところである。(死は)知の探求の究極の姿である・・・。

ソクラテスにとって哲学者とは知の探究者であり,知を探求することは,人間にとって最も重要な徳や善,美を求めようとするかぎり必須のことです。そして知を極めた者が死を正当にまっとうできると考えているようです。ソクラテスにとっては,知の探求は人間が魂を最高,最善なものになるように世話をするための王道です。その道は囲いからの解放と,監視者の監視からの解放への道でもあります。それが達成されたとき,人は既に人間存在ではなく,それを超越した存在です。人はそのような死を理想的な目標と考えることが可能で,哲学者たるもの,日夜そのための練習をしているというわけです。

一方で,人間は身体的存在であるのを免れず,それはどうしても災厄の素になるので監視者が要る,とソクラテスが述べているのも頷けることです。いわば煩悩から解脱しないかぎり人は災厄から逃れるわけにはいかないが,解脱をもとめる心があるかぎり,彼方に理想としての死が微笑んでいるということでしょうか。

ソクラテス流に考えると,魂はこの世を超越した世界のものです。そして身体はこの世のものです。この世を超越した性格のものと,この世的なものそのものの性格のものとが混交しているのが人間存在に他ならない,ということになるようです。

魂はこの世のものであるかぎり身体と連れ添うしかない羽目にあるのですが,それらの関係から不可避的である矛盾,葛藤に耐え,超克していく強い自我があれば,やがては対立的な諸矛盾の最終的な止揚という形態で究極の境地に到ることができる,そのようなものとして死は求められるべきものであるというふうに考えることができるようです。そして自我のそのような仕事に,内在する主体が暗黙の内に指針を与えていると考えることは何かと有益です。

死へと到るこの道は,いうまでもなく容易なものではありません。だから我々は日夜死の練習をしているのだよと,ソクラテスはほくそ笑むようにいっているように見えますが,’哲学者’ならざる我々は死の練習をするほどの余裕はありません。絶えず煩悩にさらされ,傍目からは日常の平坦な道と見える路上で遭難しかけることも珍しくはありません。この世的な煩悩を超克して純一な魂の完成に到る,などという大層なことなどはおぼつかないことであり,荷厄介な身体を捨て去りたいというほどに疲れ果てることも起こります。

我々一般にとって,死は囲いの中から覗き見る非日常的な問題です。それは到底手に負えるものではないものとして,ふつうは寿命がつきる,病に落ちるという形で訪れます。それは囲いの中で迎える死といえるかもしれません。

そしてソクラテスが述べる死は,囲いの外へ出ようとする意志を持った者に訪れる死です。そのような意味での死は,生きることが確かに「死ぬ練習」といえるのでしょう。ソクラテスが人生の道半ばで死を甘受したのは,監獄という囲いの監視者の目よりも,人間存在のあり方そのものの監視者の目の方を躊躇なく尊重したことによります。

死はいずれにしても訪れるとして,彼我を分ける決定的なものは,生きる姿勢ということになるのでしょうか。より良く生きたものは,死を自ら引き受けることができるということなのでしょう。

先にあげたRさんの問いは,身体を捨て去ることによる死と,人生をかけた葛藤を超克して純一な魂になり得たのと,一体どこが違うのかという問題であるように見えます。

死に関する問いは重いものなので,どのように答えても安易の謗りは免れないように思いますが,自我が十分に引き受ける精神をまっとうした意味を持つソクラテス的な死は,この問題を考える基準を与えているように思われます。

魂と身体という二極分化は,人間が自我に拠るものであることに伴う必然です。自我そのものが矛盾し,対立しあうものの交点です。先に,ソクラテスは一方の足を魂のふるさとの世界にかけ,一方の足を身体の存在理由となっているこの世的な世界にかけているといいましたが,自我についても同様なことがいえます。つまり自我の機構は生物学的な根拠を持っていると思われますが,これと名指しするのは不可能でしょう。仮にそれが可能であるとすると,生物学的なという限定によって,自我は明瞭に’この世的なもの’以上のものではなくなります。しかし自我に拠るのが人間であるという前提が正しければ(他のものを前提としたとしても,結局おなじことになります),人間に関する一切の問題を自我は引き受けなければなりません。つまり自我は,’この世的なもの’以上のものも自己の課題とすることを含んでいます。換言すれば自我は,人間が’この世的に’存在する理由であり,かつ’この世的なもの’を超えたものをも引き受ける使命を持っているということになるだろうと思います。ソクラテス流にいえば,自我は神意を受けてこの世のものであるべく存在しているということになるだろうと思います。

自我は光の世界のものです。人間が何を目指して生きるのかといえば,ソクラテスに従えば,純一の魂を目指してということになります。この場合の魂とは,真の自己,自己自身,自己実現といった概念と等しく,実際には到達できない理念としての自己の目標,あるいは超越的自己の存在様態ということができます。ソクラテスは,純一の魂となることは身体から自由になることであり,哲学者がそうありたいと努めてきた理想の実現であるといっております。つまり人間が生きているかぎり手中に収めることは決してできないが,死という到達点に向けて,満足の行く自己形成の歴史を追及するにあたっての目標であるということになると思います。

具体的には,ソクラテスに従えば,身体性を歩一歩克服していく心的なプロセスということになるでしょうか。

しかし克服するべき身体性とは,どういうことでしょうか?

人間の心には,光(正)の世界と影(負)の世界とがあるといえます。その心の負性のものは,心の自然的な発展過程というものを想定したときに,他者によって歪められることになった心たちによって構成されるといえると思います。

例えばAという人物が3歳のときに次のような経験をしたとします。

まだ1歳に満たない弟を,母親がまたとない慈愛に満ちた顔をしてあやしています。Aはそれが羨ましいと思っています。母親が寝ついた弟をベビーベットに寝かせています。Aは母親の膝の上に乗りたくてたまりません。先ほど弟にしていたように,慈愛に満ちた顔で抱いて欲しいと思っています。しかしつい先日も含めこれまでに何度も,母親の膝に乗ろうとしたら厳しい声で叱られたのを思い出します。

Aは母親に甘えるのをあきらめました。ぼくは(わたしは)お兄ちゃん(お姉ちゃん)だから,そんなことをしてはいけないんだと思いつつ。

この例によると,母親に甘えたい心は自然のものです。そして母親との関係で,その自然のものを歪めたということになります。

いうまでもなく,こうしたことは誰の場合でも多かれ少なかれ起こることです。つまり自然の心を歪めないですませることは不可能なのが人間です。

この例のAの場合,甘えられなかった甘えたい心が負性のものです。

Aが純一の魂を目指す使命を持つとして,長じてこの負性のものをどのように扱えばよいのでしょう。また,Aのこの負性と身体性とはどんな関係にあるのでしょう。

このように心を不自然に歪めるときに働くエネルギーは主に怒りです。Aがいわゆる良い子であるとすれば,怒りを抑圧して自分では気がつかないことになるでしょう。可能なら怒りを母親に向けて抗議するとよかったかもしれません。母親がその正当性を認めてくれれば,Aは甘えたい心を抑圧する必要がありません。つまりAの自我は,心の自然を護ることができたことになります。この場合の怒りは,Aの自我によって適応的に作用したといえます。

長じて,Aがこの問題を解くことができるとすると,Aが幼いころのこれらの経験を意識が探り当てたときです。言葉を変えると自我がかつては抑圧したものを,改めて自我の表舞台に引き上げ,再統合を図ることが出来たときです。このあたりの自我の作業を,フロイトは遺跡の発掘作業になぞらえています。

こうした心の作業を困難にさせる理由の一つは,強力な怒りの存在です。怒りは元はといえば,甘えたい欲求が理不尽に満たされなかったことに伴うものですが,それが理不尽であればあるほど,抑圧しなければならなかった母親との関係の問題が大きかったことになるでしょう。それとの相対的な関係で,自我が気弱にならざるを得なかったのです。意識下の闇に葬ったものに長年にわたり悩まされて,長じて改めて意識の光を当てる気になった自我は,既に気弱ではないことを証明したことになります。そしてこのときに,暗々裏に感じていた怒りのエネルギーに恐れをなしていた心に,打ち克ったことを意味するでしょう。その怒りのエネルギーは,抑圧されていた体験群と共にあっただろうと思われます。そして心に屈するものを解決する決意を持った自我が無意識界を探索し始めるとき,自我は怒りと共にある過去の体験群を受け入れる気になっているのです。その心の作業に伴って怒りが意識の上に浮上してきて,自我を脅かします。しばらくのあいだは心は不安定であることを免れないでしょう。しかしやがては怒りのエネルギーは,自我の意味のある仕事によって心の表舞台を支えるエネルギーに姿を変えることになります。裏舞台のものであった怒りのエネルギーは,表舞台のものである生のエネルギーに変換されたのです。

この場合,ソクラテス流に見れば,’災いの素である身体的側面’を,魂の世話をすることで克服したということになりますが,それを具体的に見てみます。

Aが羨望したのは母親の愛情のことです。

母親の愛情は身体の愛撫を通じて表現されます。母親に愛されなかった自分とは,愛されるに値しない身体を持つ自分といっても過言ではないでしょう。怒りも介在して母親を怖れたAは,母親の怒りを招かないために,本来は心の表舞台にあるべきものとして認知しなければならなかったもの(甘えたい心)を,裏舞台に回してしまいました。その自我の汚点は,自分の身体が認めるに値しないという歪んだ認知を招きます(思春期にある者が,身体に病的なこだわりを持つことはしばしばありますが,その由来はこのようなものであると思われます)。

このように人間の悩みは,総じて身体的なものへのこだわりであるといえるようですが,それは身体に発するさまざまな欲望,欲求といったものが満たされていないところに帰着し,人間の宿命としてそれらのものがことごとく満たされることは不可能であるというところに帰着します。

これら本能に由来する身体的な諸欲求のエネルギーが強力であることが,’地を這うもの(鳥は空を飛びますが)’である動物たち一切が,たくましく生存していく上で不可欠といえるでしょう。そして動物達の中で人間だけが,魂を持っています。ソクラテス流にいえば,身体に由来する強力なエネルギーによって確固として’地上のもの(この世のもの)’であるが,一方で神の直系である魂によって,この世的であることからの超越的飛翔(身体から離脱し,自由になる)を目指すものであるといえるように思われます。

Aが後々,先ほどのように意識下に埋没させていた自分の分身を救い出したことは,それ自体が自我が有意義な仕事をしたという満足感につながります。そして甘えたい,身体的に愛撫されたいという潜在欲求が,それなりに解決し,解放されることになります。その分密かにあった母親への依存心からも自由になり,ある意味で母親を許すことになるでしょう。身体に発する欲求に制縛されていた心が,そこから解放されることに応じて,魂はその分の飛翔を果たしたといえます。

この種の満足はいわば白い満足です。言葉を換えれば魂が飛翔する感覚の満足です。それは内在する主体の意向を捉えた心の動きといえ,その分の自我の勝利です。

一方,自我が相変わらず気弱なままであれば,甘えたかった心は依然として怒りと共に心の裏舞台に据えられたままです。そうした折々に,これらの心たちは,例えば過食という問題を起こします。これはいわば黒い満足です。つまり魂の飛翔のない満足です。見方を換えれば,’地を這いずる満足’ということになり,動物的なレベルでの満足です。いずれにしても満足の追求はしないわけにはいかないのが人間です。そして魂性を欠いた黒い満足は,結局は人間としての満足としては虚しいのです。過食など,黒い満足に束の間の愉楽をもとめる者は,それと引き換えに人間としての尊厳,満足という点からは見放されているのです。

人間の人間たる所以である自我の機構的な構造は自然のプロセスの中にあると考えるべきですが,自我の機能はその自律性によって,人間独自の反自然的な世界を切り開く能力を持っているように思われます。その自律性は自然からの乖離,魂の飛翔という特性があるようですが,しかし絶えず自然の支配の中にあると考えられます。自然の大きなプロセスの中にありながら,反自然的な世界を構築するべく宿命づけられているのが,人間の偉大と卑小,あるいは幸福と地獄の理由といえるのかもしれません。人間は自我によって特別な存在者となったといえるもののようであり,一方で自然の全的な大きさの前に,しばしば震撼させられる存在でもあります。その自然の大きさに包囲されているかのような自我は,例えていえば無限の宇宙に浮かぶ一個の星のような存在に見えます。宇宙の大きさの前では,星に例えられる人間はほとんど無に等しく,事実人間の心は絶えず自然の無化作用に脅かされるのです。しかし星が強い光に満ちているかぎりは,自身が無限大の闇に包囲されていることは忘れていられるのです。それほどの光を放つ力を人間は持っています。

こうした人間的特性が,他者との関係,そして自己自身との関係を,欠かせない存在要件としています。つまり自我はそれ自身で自足するものではなく,全的な存在であろうとする可能性を生きるべく宿命づけられています。他者との関係,自己自身との関係は,既に自我の機構の内部に自然そのもののプロセスとして所持していると考えられます。言葉を換えれば,現実の他者および自己自身との関係の可能態を,それぞれの自我は既にあらかじめ所持しているのです。それらを根拠として,現実の他者との関係を生き,あるいは自己自身との関係を模索すると考えることができます。

自我の自己自身との関係とは,言葉を換えれば自我と無意識的自己との関係ということになるでしょう。しかし生まれて間もない自我は,その成長のためには他者の助けを必須のものとしています。とりわけ特別な他者である母親とは,全面依存という関係です。赤ん坊と母親とは全面的に助けられ,助けるという依存関係であり,しかしながら人間の能力として完全な相互依存ではありません。原初的な関係において,赤ん坊のもとめる絶対的な依存欲求が不完全にしか適えられないということの中に,自己は自己自身との関係が確立されていかなければならない理由の根本があります。赤ん坊の自我は母親に全面的に依存しつつ,しかし不完全であり,不完全であればこその依存なのです。この不安定な依存関係が,赤ん坊の心に,信頼と不信,満足と不満足,安心と不安という満たし尽くされない空隙をもたらし,それが自我の発達を促す原動力になります。それらのこともまた,自我の機構的な構造に含まれていると考えてよいと思います。しかし他なる他者としての母親が母性を欠いている場合は,信頼よりは不信,満足よりは不満足,安心よりは不安ということになり,いわば後天的に自我の機構に破壊的な影響を与えると思われます。逆に母親の愛情がいかにも自然的に子に注がれれば,一般の動物とおなじように人間の心もまた自然な発達をしていくに違いありません。しかしご承知のように,人間の心はどうしてもさまざまに自然から遠ざかり,その観点からすると個々に歪んでいるのです。こうした他者による介入,なかんずく母親の介入は人間の精神を反自然的にさまざまに歪めさせるのは必定です。それを改めて自我が引き受けることがもとめられています。歪められた心を引き受ける雄雄しい自我が,その歪みを徐々に解除しつつ,本来もとめられているであろう自己の姿勢を追求していく自己の回復のプロセスが,いわば人生です。

以下は,両親の理想的な愛情の下にあったと思われる方の例です。

患者さんは70代後半の女性です。うつ状態が長くつづき,涙にくれる日々ということで受診しました。うつ病の発症は,初診の1年ほど前になりますが,かつての恋人の訃報に接したことがきっかけとなりました。その男性と別れたのは,50数年も昔のことになります。

彼女の父親は名のある政治家でしたが,歴史的に著名な何人もの学者たちと懇意にしていた人でもあったそうです。その父親は,家庭にあっては自由の精神を尊重し,音楽,絵画などの素養を持ち,子供たちにもそうした素養を身につけることができるように,時間を惜しまず機会を与えました。

子供時代は第二次大戦前のことであり,海外の統治国で過ごしました。大きな邸宅に大勢の男女の使用人が同居して,身の回りの世話をやいてくれました。母親は,「大和撫子の鑑といわれていた」といいます。あらゆる人に分け隔てなく愛情を注いだそうです。

彼女は女子の入学が許された草創期に大学に入りました。「夢子ちゃんといわれていました」というように,「本があれば何も要らない」といったふうでしたが,一方ではダンス,テニスなどのスポーツを好み,ピアノの練習,料理など多方面にわたって生活を楽しみました。留学も経験しています。

大学を卒業するころ,同窓の恋人から,突然,「これ以上つきあえない」といわれたそうです。理由は何も知らされず,また,「訊いてみようとさえしない子供でした」ということです。いわば何不自由のない生活をしてきた彼女は,生活臭といったものがない人です。「二人でいさえすればどんな暮らしでもよかった」という言葉に嘘はなかったでしょう。どんなに貧乏をしたとしても,それを嘆く姿が想像しにくい方です。どういう生活状況であれ,いわば自然に生きていたのではないかという印象があります。彼女の伴侶となるべき人はその彼氏以外には考えらないといい,実際にもその通りでした。何故そう思うのか,言葉で表現するのはほとんど困難でしたが,彼氏が常識的な意味での生活力があるかどうかは問題外のようです。彼女がそのようにいい,実際にその通りだろうとうなづくしかないのですが,そのことは彼女の伴侶となるべき人が,客観的に語れる人格の持ち主というものではなく,彼女自身のもう一つの半分の像をその男性に投射して見ているように思われました。いわば彼女は自分自身に恋したと考えて,ようやく理解がいくのです。

彼女の失恋は周囲の者たちには知れ渡っていたようで,その一人の男性が恋人としての名乗りを上げたのです。彼女はまったくの受身で交際していたようで,「気がついたら結婚していた」のです。

この夫も一流大学で然るべき地位にあった方です。しかし学者然として人を近づけないという感じの人ではなく,浮世離れをした妻の忠実な伴侶といった雰囲気を持っています。この夫なしには,浮世を渡るのがはなはだ難しいように思われるのですが,いつかな夫との結婚を肯定的には見ようとはしないのです。夫を見下しているともいえるのですが,彼女は決して高慢ではなく,自分の感情に単に自然に従っているだけなのです。夫もまた,妻のそうした態度を不快にも,不満にも思わないようで,常に笑みを浮かべながら妻の心情を観察して私に伝えてくれるのでした。

彼女が心を許せるのは,今は亡き両親と,子供たち,孫たちと兄など,血縁関係にある人ばかりのようです。そして肉親以外の唯一の例外は,50数年前に分かれたかつての恋人なのです。

子供たちを育てているあいだは,一途に育児に打ち込みました。そしてそれぞれが独立し,両親も他界したあとは,過去の恋人との思い出だけが心を支えているかのようでした。その男性の訃報に接したあとは,まるで昨今分かれたばかりの恋人の死を嘆くように,時空を超越して涙に暮れるのです。そして生きる理由のほとんどが失われたという気配です。

一日の生活は,「本さえあれば何も困らない」というように,手許にある馴染みのある本を繰り返し読むことで費やされているようです。それは読書三昧というものではなく,既に生きる実質的な理由を失って,形式化されたものであるように思われます。そしてときに縁側に座って庭の樹木や花に見取れます。食欲があるときは,「食べ過ぎて太ってしまった」と気にすることはありますが,食事も気分のおもむくままです。

通院はしていますが,意志的に元気になりたいなどとはまったく考えません。仮に薬などによって元気になったとすれば,それもまた拒むものではないでしょうし,辛い人生という意識も殊更にはありません。自殺という意志的な考えも起こりません。人生の終焉として死が訪れるのであれば,それもまた自然に従おうとする心があるばかりです。

ことごとくに自然の感情に従い,それに逆らうという様子が,この方には見えません。彼女を気遣う夫や子供たちに応えて,少しは生きる努力をして安心させようとする心の動きもありません。それはしかし頑固というものには程遠いのです。外国に住む子供たちから,毎日のように電話がかかるのですが,彼女から電話をかけることは決してありません。しかし子供たちを何よりも愛しています。

生きるため,生活するために,意志的な努力をしない彼女に対して,夫は忠実なしもべのように黙々と必要な役割を果たしています。かなり長期にわたる通院になりましたが,必ず夫が付き添っていました。うつ状態のためということ以上に,電車を乗り継いでの通院が,一人ではほぼ不可能でした。どの駅で降り,どの電車に乗り換えるのか,夫の助けがないと不可能なのです。

この症例の方は,現実にはあり得ない,おとぎ話の世界の主人公のような印象を受けます。子供のころから不安とか不満とかの感情に悩まされた記憶がなく,いわば何一つ不自由のない育ち方をしているといってよいように思われます。それは甘やかされたとか,過保護だったとかという以上に,両親の稀有な愛情の下で成長したというべきことのようです。そしてこの方の心のありようは,考えられるかぎりの自然流というふうに見えます。

この方は両親の保護が物心両面にわたり理想的に行き届いていたために,自然的に生きることが可能だったという稀な例のように思われます。そして一方では,社会性という観点からすると著しく欠けるものがあるといわなければなりませんが,それを意識し,問題視しようとする心の動きはありません。

自然的に生きていくしかないこの方は,確かな関係を持ち得る具体的な他者の存在が失せてしまってからは,ほとんど生きる理由を失ってしまったかのように見えます。両親の死後,両親の霊魂のようなものが彼女の周辺に絶えず漂っているといいます。それは実態的な雰囲気を持つ,守護者です。そうしたことが客観的に実在するものか,それとも主観的,心霊的な現象なのかなどということは,彼女には問題ではありません。単にそういう事実があるばかりなのです。

稀に見る自然流の心を持つこの方には,自我の確立,自立心の涵養といったこととも無縁のようです。

このことから考えると,たくましく自己であろうとすると,他者の歪んだ介入をむしろ必要としているといわなければならないように思います。その他者の歪んだ介入は,まさしく,先ほど述べた偽りの自己の源流となる影の領域の心を作り出すものでもありますが,社会的人格を形成するためには,心内での対立,葛藤が欠かせないもののようです。

いかにも自然流の心でいるこの女性には,影の自己といったものが希薄です。彼女の無意識を探ると第二の自己が表われて問題が回復に向かう,ということはほとんど信じ難いことです。何よりも抑圧されている個人的無意識といったものがあまり問題にならないことが,彼女の場合,むしろ稀有な特徴になるのではないでしょうか。

そのように考えると,影の自己の存在は人間にはむしろ欠けてはならないといえます。そういうものがあるために,それを解決する自我の責任意識のごときものが必要とされるのです。自己が当面している(心の)内外の問題を引き受けるのが自我の本分です。影の自己は他者(特に人生最早期の,最も重要であり,原初的な他者である母親)の介入によって生起するとはいえ,その不可避的に関与してしまっているものを,自我は己の課題として引き受けていかなければなりません。それら影の分身たちによって悩まされながらも,それを引き受ける雄雄しい自我だけが自己を助ける力を持つのです。

影の分身たちを引き受ける雄々しい自我がある一方には,引き受けない自我もあります。影の分身に悩まされていることを意識したがらない自我は,分身たちが存在しないかのような不誠実な姿勢に終始します。そうした欺瞞化する自我を持つ自己を,偽りの自己と呼ぶことは妥当だろうと思います。

逆に真のあり方を志向する自己とは,自分自身が作り出した分身たちの存在に悩まされながら,意を決してそれらの分身たちを引き受けようとし,責任を持とうとする自我に拠る場合といえます。

このあたりの問題は次に上げる男性の例に端的に表われています。

男性は30代です。身分保障に恵まれた職場で専門的な仕事をしています。いわゆる’現場’で対人的な関わりをするのが本来の職分ですが,請われる形で現在の事務職に就いています。彼を招いた先輩が転勤で去り,新しく上司となった人との関係がうつ病を発症したきっかけとなりました。その上司は,彼によればよく怒鳴るのだそうです。男性は上司に認められるとよく仕事ができる人ですが,高圧的な上司の下では怒りが内向して,気力が萎えてしまう傾向があります。職場の問題の他に家庭の問題も重なり,長期間の休職となっています。

男性は旅行を好みます。海外にも何度も行っています。最近,十日ほどの予定で計画を立てましたが,出発の直前まで無気力でほとんど自宅から出られない日々でした(彼は一人暮らしです)。そういう状態で海外旅行など出来るだろうかと思いましたが,何とか飛行機に乗り込みました。そして旅行中はいつになく元気でいられたのです。

男性によれば,十日のあいだに七カ国を回ったのですが,それらの旅行の計画や,不自由な言葉の問題などを,当然のことながら自分一人の責任でやらなければなりません。誰かを当てにすることができず,一切を自分が引き受けなければなりません。何が起こっても自分の責任において解決を図らなければなりません。そういうことが元気を取り戻すことができた理由のように思うといいます。

それでは,そのあたりのことがふだんはどうなっているのか,なぜ不調なのかという問いに対して,職場を含めた生活全般に,誰かが何とかしてくれるだろうといった甘えが,どことなくあると思うといいます。

男性のこの経験は,私流に解釈すると次のようになります。

外国旅行中は,男性がいうように,自分以外の誰をも当てにできない生活状況に自ら身を置くことになります。そういう状況では,自我が一切を引き受ける以外にありません。自我が自己に関わるすべてを引き受ける姿勢に入ることにより,彼が所有しているエネルギーを十分に動員することができたと考えることができます。

一方,日常はどことなしの依存があり,漠然と誰かのたすけによって意欲が保たれ,あるいはたすけがないときは意欲が阻喪されてしまうと考えられるのです。言葉を換えれば自我が自己と生活全般を引き受ける意志を持たず,だれかのたすけを漠然と当てにしているのです。そういうときには,自我は必要な仕事をしていないので,エネルギーは自我の負債ともいえる意識下の分身たちに取られてしまうのです。これら分身たちは自我の力によって救い上げられるのを待っているのですが,自我は当事者意識が希薄で,分身たちを引き受ける心になれないのです。

また別の男性の例では,もともと他に気を使う性格で,与えられた仕事を断ることができず,人一倍頑張る方です。うつ状態で休職になり,やがて復職しました。会社は鷹揚なところがあり,本人が望む限り負荷はかけてこないので,しばらくは人より負担の軽い仕事をしています。会社からの圧力は何もないのですが,男性が仕事をふやさないと申し訳ないと気にします。しかし,「しばしば心にもやもやしたものを感じる」という形で分身たちがその存在を誇示しているのです。この方の場合も,他に気を使うことも大事とはいえ,引き受ける(気を使う)べきものは第一に分身でなければなりません。そうでなければしばらくは持ちこたえることができても,やがてうつ状態が高じる懸念を否定できません。

これらの男性の例に見たように,光の世界を切り開く使命を持つ自我は,不可避的に影の世界(意識下の分身たち)をも作り出す宿命の下にあります。自我はいわば自ら作り出した影に怯え,悩まされつつ,それを超克していく使命を持っています。全的な存在ではないという性格のものである自我は,影ないしは闇をその内に持ちつつ,それらによって自我自身を超えたものの存在を意識します。そのことは,自我が畏怖の念を抱くことができるための内的で根源的理由にもなっています。それは不安と恐怖の根源となるものですが,永遠なるものに対して畏敬の念を持つことを可能にするものでもあります。

偽りの自己と真の自己とを考えるために,万引きを例にしてみます。万引き行為は悪に違いないとはいえ,精神科の臨床で問題にされることが珍しくありません。これは犯罪の中でも悪性度が比較的低く,その問題を治療者と共有できる自我の健全性がそれなりに保たれていることが多いからだと思います。この他者と共有できる自我の健全性の程度が,犯罪の悪性度に大いに関係があると考えてよいでしょう。そして悪性度の低い犯罪は,悪しき依存の一つの形として精神科の臨床の問題となり得るのです。

依存の心の病的な表現である万引きが,悪そのものであるのは論を待ちません。その論拠は法律にあり,また常識的な倫理観にあるとひとまずはいえると思います。しかしそのような人為的な取り決めごとにとどまるものでもありません。そこに更に人為的なものを超越した理由がなければ,説得力も不確かなものになるでしょう。

その超人為的な論拠は,少なくても一つには,自我の境界機能に求められます。この機能の一つに,自己と他者とのあいだに一線を画すということがあると思われます。それが自他を弁別し,それぞれの自己を独立したものとして保証する原理的な理由であると考えられます。(したがって親,特に母親が自分の子の世界に干渉,侵入するのは,誇張的にいえば人権侵犯になります。一般に母親がこの過ちを侵しがちなのは,子が赤ん坊のころに母子密着の時期を経験するからでしょう)

自我機能の基盤をなすと考えられる自我機構は,自然のプロセスの内部にあると考えられます。法律という公共的な規則,規制が揺るぎのないものであるためには,人間の知性が超知性的な根拠の上に成立することが必要ですが,自我機構にはそのような性格があると仮定的に考えることができます。

このように考えると,万引きという行為が悪であるのは,自我がその本分に基づいた仕事をしていないところに問題の一端があることになります。

偽りの自己についても,これとおなじことがいえるでしょう。つまり偽りの自己とは,自我が影の分身たちに対して,本来あるべき役割を果たそうとしていない場合といえます。そのように見ていけば,悪の問題と偽りの自己の問題とは近縁の関係にあることが分かります。

悪性度の低い段階での万引き行為では,人の目を盗む一方で,場合によっては人の目に触れることを望んでいるように見受けられます。そこには,悪性の行為とはいえ,何らかの意味のあるメッセージが込められていると考えられます。

悪の特性に即したメッセージということになれば,望ましい形の否定,いやがらせ,挑戦,脅しなどなどの影の自己の要求を受け入れた行動の形を取ることになるでしょう。それは従来の自己が偽りのものであること,その自己が「(親である)あなたとの関係で生じている」ことを暗に主張しているということになると思われます。

「私はあなたが望んでいるような良い子ではありません。むしろ悪い子です」,「私が家のお金を盗むのは,私がもらうべきものだったもの(愛情,信頼など)をもらっていないからです」,「みんなが一家の主として私を尊敬しないのであれば,私は盗人となって転落します。そうするとみんなは私の存在を少しは認識することになるかもしれない」,「あなたは会社で偉い人かもしれませんが,夫として私のことを疎かにし過ぎていませんか。私が転落するとあなたはうれしいですか,それとも私に少しでも目を向けるつもりがありますか」等々・・・。

メッセージ性のある悪性の行為では,健全な関係が,歪んではいても壊れてはいないことが認められます。そのときに自我の意識は,半ばは関係者に向けられ,半ばは分身たちに向けられています。分身たちのたくらみは,目先の利得,満足の要求です。自我の意図は,分身たちの意向を行動に移すとすれば,関係者との関係に与える影響がどの程度破壊的であるかを計ることです。その程度には分身たちの力に押され,その程度には分身たちを抑える力を残しています。強力な力を持たない自我は,分身たちが求める目先の欲求充足に身を任せる責任回避と,そのような事態をもたらしたと考える関係者を窮地に追いやることの意趣返しとで,暗く危険な愉楽にふけるという側面も持ちつつ,関係者に助けを求めているのです。やがて自我が目を覚ますときは,関係者への愛情と信頼とが回復されているでしょう。そのときに危険な愉楽の試みは,一定の成果を手にしたことになります。

このように,悪は,自我が社会的責任を回避することと,刹那の愉楽に身を任せようとする無責任とで,社会的な位置を危うくさせることになりますが,重要な位置にある関係者に助けを求めているかぎり自我の力が回復する可能性があるといえると思います。そのかぎりでは治療的な介入が意味を持ちますが,刹那の愉楽をもとめて止まない心が大きな障害になります。一般に犯罪は,悪性の依存的行為であるといえる所以です。

幼い心としては,たとえ他人の物であれ自分の物としたい心があって当然です。それを考えると幼い心が盗みを働くのが,なぜ真実の自己の行為とはいえないのかということにもなるかもしれません。その点は先に述べたように,他者との関係で相互の境界が自我の機能に内在しているからというのが根本的な理由といえるでしょう。つまり盗みはいけないという指導は,内的な自然のプロセスに即した理由を持っているといえるのです。

ここに表われているのは二つの側面です。一つは親(という他者)との関係であり,もう一つは自然のプロセスの中にある無意識的自己との関係です。欲しい物を自分の手許に置きたいというのは,そもそもは本能的な自然のプロセスによるものです。そして他者の介入により,その行為の善悪が問題になります。その根拠は介入する他者の恣意によるものであってはならないでしょう。つまり自我の機構に内在すると思われる境界機能に即した他者の介入であれば,恣意によるものではありません。それは正しい指導であり,納得がいくはずのものです。

この自然のプロセスに基づく二つの要求は互いに矛盾します。子供は葛藤に悩むことになります。そして親との関係は幼い子にとっては何ものにも優先させなければなりません。子供は原則的に親に従うしかありませんが,親子の関係が愛情と信頼とで満足できるものであれば,その葛藤の解消は一般に困難ではないでしょう。

ところが親が体罰を加えるなど,度の過ぎた育児指導をしたり,両親の不和,母親の神経質や病気,等々によって,乳幼児期に過度に不安や怯えを経験したりすると,子供の心は親への不満,反感を密かに強めるのは避け難いでしょう。そのような心理にあるとき,他者とのあいだの境界を侵してはならないという自然の心に従うよりも,満足を得たいという自然の心に従おうとするとしても不思議はありません。このような場合にはいずれにせよ幼い心には,満たされない思いの分身たちが大きな勢力を占め,それに伴って強い怒りが内向していると考えなければなりません。

強い怒りが内向するときには,必然的に,不当に満たされるべきものを満たされなかったという思いと,護られるべき安全が不当に無視されたという思いが交錯して内在すると思います。それらは自己が自己らしく生きる上で,是非とも適えられなければならない思いといっていいでしょう。それを果たさなければならないのは自我です。自我がこの苦境を引き受ける雄雄しい態度を取るときが来ないかぎり,分身たちの怒りと不満とによって内側から蝕まれていくことになります。蝕まれかけた心が悪を表現します。それは表の心の営為の中心である自我が不甲斐なく,裏の心の営為に主導権が渡りつつあることの表現です。

この険悪な心的状況をはね返すには,強い自我の力が必要です。

私が,「盗みはしない」と意識し,行動するように努めているかぎり,私は光(正)の世界の住人です。しかしそれは私の正を保証するものではありません。負があればこそ正があるのです。私が行動として負に落ちないためには,自分の正を信じるよりは負の存在について深く思いを馳せる必要があるでしょう。もしかすると,盗みを働いた人に憎しみの情を持つことは,まだまだ心が負に傾く危険があることを知らなければならないのかもしれません。自分の内面に潜む盗人の心を一掃することは不可能である以上(人間である以上は不可能です),盗人を憎むことは自分を憎むことです。考えの中にあることと実際に行動することとは,まったく次元が違うともいえますが,「絶対に私は人の物を盗みません」と断言できる理由にはなりません。むしろ,「その可能性を一掃できないので,よくよく注意したいと思います」という方が自分に忠実といえるのかもしれません。そう考えることで盗みという悪行を許す理由にはなり得ないでしょうし,盗みという犯罪に対して,人間的な態度を取ることができるかもしれません。

盗みはともかく,自己の負性に苦しめられることは多かれ少なかれ避けられず,それを克服するべく引き受けるか,気晴らしをして問題を回避するかということになります。一般的には,そういう意識に囚われていると日常の生活に支障をきたすでしょうから,回避的態度になると思います。

ここでいう偽りの自己に悩まされる意識というのは,それを引き受けたときに意味のある問題になり得るのです。それは人間が何を目指して生きるのかという問いを,自分に対して立てるのとおなじ意味を持ちます。

偽りの自己とは,自我の臆病ないしは自我の欺瞞の犠牲になっているものたちの存在をかかえる自己といえます。

光の世界のものである自我によって影の世界に追いやられたものたちに対する自我の態度には,二通りあります。

一つは雄雄しく引き受ける自我です。一つは女々しく,引き受けない自我です。

前者と後者との自我の営為に対する評価は,自己自身との関係に与える影響如何ということになります。つまり前者への評価は自己の充足感,生気感情の高揚という結果をもたらします。後者への評価は,それとは逆に,自己の不充足感,生気感情の低落という結果をもたらします。

自我の仕事を評価する力を持つのは,自我を超越したものでなければならず,従ってそれは無意識界に内在するはずの超越者といえるものです。それは仮説の域を出ることがない問題ですが,精神現象を論理的に理解しようとすれば,自ずからそれが指し示されているともいえるのです。

偽りの自己とは,その本分に基づいた仕事をしない自我によって影の世界に追いやられたものたちの存在が生じ,なおかつそれらの存在に自我が目を向けようとしないままでいる自己のことです。それは仮説的に述べた内在する主体によって,評価されることがない自我に拠る自己です。そして人間は常に何ほどか偽りの自己であり,そうあらざるを得ない存在であるといえます。人間のあるべき姿は,そのことを絶えず悩み,絶えず問い,そしてそれを克服することといえます。そうすることで一歩ずつ真実の自己へ近づくのです。しかしまた,最終的に真実の自己に合一するところまで自己を克服するのは不可能なのも人間です。そのような自己を人間は生きているといえると考えられますが,自我は’真実なる自己という絶対的な光’に向けて,時々の偽りの自己を克服していく根拠となるものです。そのように,光の世界の演出者という性格を持つ自我が,あえて死を志向するということは考えられないことです。死は自我の無力化,無効化に伴って姿を表すものです。自我は無限または無,あるいは絶対という性格を持つ自然によって無化されるものです。それが死の意味であると考えられます。

敷衍すると,自我が無力化するにつれ,相対的に個人的無意識(C.Gユングによる)が勢力を強めます。個人的無意識は,自然そのものが心に及んでいると考えられる普遍的無意識(ユングによる)と,相互に交流していると仮定的に考えられます。自我が衰弱していくと,自我の負性の特徴を持つ個人的無意識を介して,場合によっては自然の無化作用が自我に及ぶと考えられるのです。

自然自我ととの関係は,宇宙の無限空間とそこに浮かぶ星体に比してみると分かり易いように思います。自我なる星体は,自然なる無限空間の中で,マクロ的に見ればいかにも頼りなげで,ミクロ的に見れば,無限の深みを持つ周囲の暗黒をはね返すほどに力強い光を持っている,というふうに見えます。自我なる星体と自然なる宇宙とは,対立して相互に交わることがないというものではなく,自我の生物学的根拠と仮定される自我機構の中に,自然そのものの特性が及んでいると考えられます。

生まれたばかりの赤ん坊の心は,自然そのものである普遍的無意識と,自然そのものの中にあって自然から乖離する方向性を持った,萌芽的な自我とから成ると仮定的に考えられます。萌芽の状態にある自我は,母親の自我との協働でしだいに機能を高めていきます。この母親との関係は,明確に自然から乖離した次元の上に成り立ちます。母親との関係を最優先とする乳幼児の自我が,無意識から生起する自然のものである心たちを抑圧,排除して,母親が望むような自己形成に励むことになりますが,この抑圧,排除された無垢の心たちが個人的無意識の層を作っていくことになります。

また自我と無意識の関係について,私はしばしば次のような比喩を引き合いにして説明を試みています。

無意識は海であり,自我は小舟の船頭です。日常がとりたてて問題がない人の場合,天気晴朗で,海は凪いでいます。近くには多くの小舟が浮かんでいるのが見えます。天候が怪しくなり,海が荒れても,仲間同士で励まし合い,助け合ってなんとか乗り切れます。仲間たちとの関係で支えられている自我なる船頭は,孤独になったときに容赦なく突きつけてくる’航海の意味’という難題に悩まされることがなく,念頭に浮かべる必要がなく,目前の困難を仲間と共に乗り切ることだけを考えていればいいのです。それは自我の力で何とか乗り切れる見通しの下での困難といえます。こういう自我の下では,海は過激な荒れ方はしないものです。

しかし死が問題となっている自我の下では,天候は不良で,海は荒れがちで,あたりに仲間の船影がありません。荒れる海にもまれて,どこへ向かうとも知れない航海になんの意味があるのかという懐疑が船頭を捉えます。その種の懐疑はもっともなものでもありますが,心細いかぎりの思いでいる船頭が,孤独に船を操る意味を悟るのは至難の業です。実人生のさ中での問いは絶望をもたらすだけです。そういう問いは,実人生から距離を置いた哲学的,心理学的なものでなければならないでしょう。

そのような意味不明の難儀な航海に耐えるよりは,いっそのこと海に飛び込んで航海を終わりにしたいと考えるのも,無理からぬことです。しかしそうすることが船頭の自由かといえば,そうはいえません。それが船頭の意志であるといえるためには,自我がそれなりに自由であり,健全であることが前提になります。つまり航海について創意工夫をこらす自由はあっても,航海そのものをやめるのは,自我が自由にできる範疇の問題ではありません。死は自我の終焉,自我の最終的な挫折です。自我を超えた力,海なる無限,全,あるいは無という性格のものによって,自我は終焉に導かれる可能性を持っています。つまり力尽きた自我が終焉を向かえたときに,死があるのです。死は自我の終焉と同義です。そして無限,または無という性格を持つ自然によって,自我は無化され,回収されます。それは自我が自ら意志してではなく,自我の無効に伴ってはじまる回収作業です。死は自我の意志,自我の決定により自由に選べるというものではなく,抗し得ない成り行きというものです。「死にたい,なぜそうしてはいけないのか?」と問いかける人は,そのような回収作業に取り込まれかけているのかもしれませんが,むしろ生きる意志を持っており,助かる可能性はあるだろうかと反問しているように思われます。より深刻な事態に陥って,死が避けられないと感じている場合は,むしろこのような問いは向けてこないのではないでしょうか。

それでは死を志向する心の中心には何があるのでしょう。

Lさんの例では,首を絞めたり,刃物を突きつけたり,手首に傷を負わせたりしていますが,そこにはもちろん怒りが絡んでいます。首を絞めたのと手首に傷を負わせたのとは,Lさんの言葉によれば,「子供の仕返し」です。子供というのは先に説明したように,母親とのあいだのいわば共犯関係によって犠牲にされ,抑圧された自然的な心たちです。それは理不尽な目にあっている分,当然,怒りと共にあります。内向する怒りに火がついて,自分たちの存在の元凶ともいえる自我に襲いかかったといえます。また自分の胸に刃物を当てることで,「子供を殺そうとした」のは,混乱に陥っている自我の仕業です。

Lさんの取るべき唯一の方法は,怒りを母親との関係に向けることです。それは自我が分身の怒りを受け止めることをも意味します。それが果たされないかぎり幼い分身は,自我によって受け入れられる見込みを持てないのです。自我はまた,それらの分身を受け入れることで,本来もとめられている力を発揮できたことになります。逆に母親との共犯関係を手放そうとしない自我は,怒りと共にある分身を意識下に封じ込めるために多大のエネルギーを費やし,かつ分身が意識下で暗躍するために,多大なエネルギーを奪われることになります。その結果,自我が自己の世界を拡大,発展させていくエネルギーが削がれることになります。

それだけの犠牲を払ってでも旧来の母親との関係を失いたくない自我は,そもそもがよほど怯えているのです。それは見捨てられる恐怖に由来する怯えだと思います。怯える自我はしがみつく自我です。このような事情がありますので,母親との強固な関係の下にあるLさんにはかなり困難な課題ですが,それでもその関係を破壊し,清算しなければ,幼い分身を救い出す手立てがありません。些細といえる刺激で混乱する自我の下では,人生は多難を極めます。どうしても困難な内外の心的状況を,ともかくも自我が引き受ける気勢を示すことは,人生の軌道をただすためには必須です。

このあたりの問題の解決の鍵は,治療者との関係がしっかりとした信頼でつながれるかどうかにあります。それができれば,自我はその姿勢をただすためのひとまずの根拠を得ることができます。

Lさんの母親との関係が現状のままであれば,幼い分身は救われません。自我が勇気を出して内外の状況を引き受けることがないまま,やがて母親との関係も活力を失うと,事態は更に悪化します。自我が更に無気力となると,人間そのものが内部から蝕まれることにもなりかねかせん。そのような成り行きになると,幼い分身が心の主導権を握ることになると思います。自我に分身を引き受ける力も意志もないのがはっきりすると,影の存在である分身たちは闇の世界のもの,死の世界のものの性格を強めていくことでしょう。それは社会性を引き受ける自我が,もはや機能しなくなっているに等しいということでもあります。人生の意味が見失われ,直接に死が志向されるか,闇のものの特徴として悪の色合いを深めていくかということになるでしょう。

その闇のものの中心にあるのは,自我が光の世界の中核であるのと正反対に,裏の自我ともいうべきものです。それは悪をなすものです。悪とは破壊そのものが目的である破壊です。非適応的な破壊ともいえます。他者との関係での一途の破壊は,暴力ないしは犯罪です。自己自身との関係での破壊は,自死が志向されます。

現実的な心の中心である自我が力を失えば,幼い分身たちは生きる方向で日の目を見る機会が永遠に奪われてしまいます。そうなると闇の世界のものである分身たちに,エネルギーの過半が移行します。強力なエネルギーを持った幼い分身たちは,自我を傀儡化して目先の欲求を満たすために自我をあやつり,他者との関係を毀損して傷む心を持たないことにもなっていきます。

この人格全体の主導権を握った闇のものは,社会的に未熟で,対人配慮に欠け,いたって自己本位になります。生きる方向での希望を絶たれたものが持つ恨み,怒り,絶望,羨望といった黒い感情を身にまとい,人品を著しく欠いたものになります。

自我が分身たちとの好ましくない長期にわたる相対関係で衰弱し,分身たちが自我に統合される可能性が事実上絶たれてしまうと,怒りを蓄えた分身たちが悪の性格を帯びるようになり得るのです。そこにあるのは,自己と他者との関係の,そして自己と自己自身との関係の実質的な破壊です。いわば人に迷惑をかけることなど眼中になく,その悪行に悩む自己がありません。

(付言すると,Lさんは彼女を慕っていた年下の女性の死という事態に直面しました。その死は避け難く,予期されたものでした。しかしLさんは,その悲報によって雄雄しい精神になることができました。「彼女はもっと生きていたかったに違いありません。それを思うと私が死を云々することは許されないと思います」とLさんはいいます。人によっては,更に落ち込むこともある状況です。死によってかけがえのない友人を失うという状況で,Lさんの自我はむしろ決然と生きる意志を確かめたのです)

いま述べたように自我が自己形成の表舞台の演出家であるとすれば,挫折した自我の下では,自我のネガである悪の様相を帯びた裏舞台の演出家もあることになります。前者が生または光を志向し,後者は死を志向します。そして後者は,本来は表の自我によって表舞台への登場が見込まれていたものたちを統合するものです。

自己の表舞台の演出家である本来の自我を表の自我と呼び,悪の性格を持つ裏舞台の演出家を裏の自我と呼んで区別したいと思います。裏の自我は,表の自我の衰弱に伴って,永遠に表舞台への登場が阻まれてしまったものたちの怨念を携えて,影の世界での暗躍を画策します。

表の自我と裏の自我とは,ポジとネガの関係にあります。前者が生きることの肯定系であり,後者は否定系といえます。

このように性格形成に関して,二つの首座があると考えるのは,日常の臨床を通じて表われてきた病理的現象に導かれたものです。ですからそれは病理的現象の理解にとって有用なのはいうまでもなく,治療的な手がかりとなるものでもあります。患者さんにそのような理解を伝えることで,患者さんが自分を悩ませていた問題に一定の見通しを持つことができれば,不安のかなりの部分が解消されることになります。またそのことにより,治療者との信頼関係もより安定したものになり,その後の診療を進めやすくなります。

多重人格という病理現象は,裏の自我の演出によると考えられる具体的な例です。明確に多重人格を語る患者さんは,一も二もなく以上の見解に理解と同意を示します。またそれ以外の大方の患者さんも,自分の心の深部でうごめく何ものかの感覚があり,以上のような説明に対して,直感的な理解を示すことが多いのです。

70代のある女性は,神経質症の気味があります。軽度の抑うつ感があり,アモキサンという抗うつ剤をごく少量使って改善しました。本人の判断で,ある時期からは気分が不安定になりそうなときだけ,10ミリグラムを服用しています。それでほとんど問題はありませんでした。

ある受診時に,「アモキサンはたくさん残っているから,今回は不用・・・」ということで処方はしませんでした。ところが家に帰ってみると,いくらもないことに気がつきました。律儀な性格のためか,決められた受信日以外に薬をもらいに行くことにためらいがあったそうです。この間,「うつ病がひどくなって入院することになるのではないか,一生だめになるのではないか」というふうに,良からぬことばかり考えてしまいました。そして明るく考えるよりは,暗く考えるほうがなぜか楽なのだといいます。

アモキサンは,薬理作用としては,たまに服用することで効果が得られるとは考え難く,おそらく気分的な効果だったと思われます。薬が手許にないということで,気持ちが動揺し,抑うつ感にかられたのだと想像されます。「暗く考えるほうがなぜか楽だった」というのは,どう解釈すればいいのか安易にはいえませんが,裏の自我の力に従うのが自然だったというふうに,私には思われました。葛藤に耐え,それに打ち克つのは相当なエネルギーを要しますので,この方は,そんなことよりも自然に従ったほうが楽だったと感じたのではないでしょうか。

Rさんの例に即して考えれば,怒りが母親(との関係)に向けられたことに大きな意味がありました。しかしそれは,一般に怒りが外に向けられることが有意義であるということではありません。Rさんの場合は,自我が怒りを受け入れる準備ができていたので有意味だったのです。怒りは母親に向けられましたが,本人は無自覚だったものの,Rさん自身にも向けられました。Rさんの自我は,自分自身がその怒りによって粉砕される恐怖に耐えることができると踏んだのでしょうし,母親の自我もその怒りによって粉砕されることはないだろうと踏んだのに違いありません。事実Rさんは,「自分の人生を目茶目茶にしておいて,母親面をして欲しくない・・・」と怒りを込めて語っておりましたが,やがては,「その一方では,母親を恋い慕う気持ちもある・・・」と述べております。

この怒りがRさんの意識にのぼる以前は,Rさんにとって怒りは存在しないも同然でした。しかし実際には無意識の世界に潜行していたのはいうまでもありません。そしてRさんが,「ものごころが着いたころから,死を望んでいた」といいます。そのことは裏の自我という’反自我連合’を統合する中核が早々と形成され,勢力を強めていたことを意味すると思います。Rさんの幼いころに母親の気分は特に不安定で,気分まかせに(理不尽に)怒鳴られることがあったようです。手厚い保護が必要であった年代の幼い自我は,母親の自我に必死にしがみつくことで精一杯だったのではないかと推測されます。安全感と情緒的な満足とが保証されることが特に必要な年代で,他でもなくそれらを保証する立場であるはずの母親によって脅かされ,剥奪されつづければ,脅威にさらされる幼い自我は,何を頼りにすればいいのか分からないでしょう。過酷で悲惨な心的状況だったと思います。年端のいかない年齢では,幼い心を引き受けるのは,幼い自我ではなく,主に母親なのです。引き受けられないと感じている幼い心が死を待望するとしても,何の不思議もありません。それでも幼い心は親とのあいだで密着した依存関係にあるので,自我はまだ未発達で,死を志向するほどには分身たちが勢力を強めていないといえるでしょう。幼い子の自死が比較的少ないのは,そのためではないかと考えられます。

これらの表と裏の自我の綱の引き合い(生きるか死ぬか)は,Rさんにとどまらず,臨床場面の随所に見て取れます。

これらのことをエネルギー論の観点から見ると,次のような仮説が考えられます。精神エネルギーの問題は,実証的に証明することは不可能なので,精神科の臨床をはじめ我々の日常の体験を合理的に考えればこのようになるという仮説にとどまるしかありません。そのような仮説を立てることは,精神の構造を措定する作業を補完する意味を持ちます。精神構造についても,自然科学的な意味での実証は不可能です。いわば一つのことを二つの局面から,可能なかぎりで合理的に考察するとこのようになると仮定的に考えることができるということです。

各人の精神的なエネルギーは定量であると思われる。言い換えると,集合的無意識に属するエネルギーと自我に属するエネルギーとはそれぞれ一定量である。前者は身体的なエネルギー,ないしは本能に属するエネルギーと相互に交流をはかりつつ,定量のエネルギーを保っていると推定される。また後者と前者とのあいだにもエネルギーの交流がはかられつつ,それぞれに定量のエネルギーが保持されていると推測される。

自我に属するエネルギーは,個人的無意識を養うために分与されると思われるが,個人的無意識層と普遍的無意識層とのあいだにもエネルギーの相互的な交流があると考えられる。しかしながら個人的無意識層のエネルギーは,本来は自我に留まるべきものであると想定される。つまり自我と個人的無意識層とのエネルギーの総和は定量であると考えられる。そのエネルギーは自我の活動いかんによって,双方に容易に移動すると推測される。

日常的には,自我に付与されているエネルギーが自我によっていわば運用されるが,特別な心的状況では,集合的無意識層にあるエネルギーが一時的に自我に向かって流れ込むことがあると思われる。

たとえば研究者や芸術家のインスピレーションがそういうものであり,いわゆる’火事場の馬鹿力’といわれている危急時の興奮のときにそういうことが起こる。あるいは統合失調症の病的な興奮や躁的興奮状態などの精神病性興奮,もしくは境界性人格障害などの興奮状態などのときにも,そのようなことが起こる。

前者のいわば適合的なエネルギーの移動は,強い感動をもたらします。それは自我が十二分に活動していることに伴うことのように思われます。逆に後者の病的興奮でのそのような現象は,自我に回るエネルギーが極端に少ない状態がつづいているときに起こるように思われます。そうした心的状況では自我が必要な働きができていず,相対的に無意識層の活動が活発化するために,ますます自我は破壊的な圧力を受けることになるのです。そのような状況で自我機構に非日常的な圧力がかかり,何らかの機能的,あるいは器質的な不具合が生じるのではないかと推測されます。それに伴って,自我と集合的無意識層とのあいだの境界機能が一時的にダメージを受け,後者のエネルギーが前者へとなだれ込むのではないかと想定されます。

統合失調症の中核群では,自我の機構に何らかの器質的欠陥が生じていると考えられます。そのために自我の境界機能に不都合が生じ,エネルギーの適量を確保する能力自体に問題が生じていると推測されます。

また統合失調症の中にもさまざまな移行形があります。健常な心とのあいだ,うつ病,神経症,人格障害などとのあいだにも相互に移行する病態があります。

それらすべての問題の中心にあるのは自我であるといえます。自我こそ人間の標章であり,自我の機能的,器質的なざまざまなレベルの様態が,さまざまな病的様態を惹き起こすといえます。

このあたりの問題を二つの例に見てみます。

Mさんは40代の主婦です。

診断名は「うつ病」で,通院歴は10年ほどになります。発病のきっかけの一つは,転居した先の主婦たちが,どれも賢そうに見えたことといいます。私のところには5年ほど通院していますが,初診の半年前に急性妄想状態で入院しております。

Mさんは女ばかりのきょうだいの次女で,一児の母です。彼女は夫を頼りにしており,娘が生まれたときに夫を取られると思ったといいます。子供に愛情を感じず,子煩悩な夫に不満を持ち,夫婦仲は険悪になりました。離婚の危機もあったようです。そもそもMさんは子供を持たないキャリアウーマンが理想と考えていました。実際,子を生まずに海外旅行などを楽しんでいる女性が羨ましくてなりません。結婚後に妊娠したときに,子供よりも仕事を取りたかったといいます。しかしそのことで夫との仲がおかしくなり,やむを得ず退職しました。

Mさんによれば,父親がことあるごとに,もっと勉強してキャリアウーマンになりなさいといっていたそうですが,その父親の一番のお気に入りは,’一番できの良い’妹だといいます。妹は研究者です。両親は将来この妹と一緒に暮らしたいと思っているそうです。長女である姉は,父親とおなじ医療系の専門職についています。姉と妹は頭が良く,美人で,子供のころから仲が良かったそうです。Mさんは孤独感をかみしめていました。家族全員が集まる席で,父が,「お前だけが母親似で,うまくいっていない」といったといいます。しかし両親の仲は大変よいといい,父親が母親を蔑視している節が感じられません。父親がいったというこの言葉がどこまで客観性があるのか疑問があります。

Mさんは仕事を持っていないことに異常に劣等感を持っていました。

娘が6歳になったころに,子供が誘拐される夢を見ました。夢の舞台のRさんは,誘拐されても構わないと思い,娘を捨てて家を出ました。いつかヤクザの世界に迷い込んでいました。その朝,気を失っているのを夫に発見されました。覚醒したMさんは,妄想の世界にいました。興奮が収まらず緊急の入院となりました。妄想の内容は,妹夫婦が加入している某宗教団体に家を乗っ取られる,義弟は学歴詐称をしているというものでした。義弟は国内の有名大学を卒業し,外国の有名大学に留学しています。ちなみに夫も,世間的に有名という意味では弟以上の大学の出身者です。Rさん自身は,私立の有名大学の出身です。Rさんも留学を望んでいました。姉妹たちは共におなじ高校(進学校として有名)を卒業しています。Mさんと母親とは資質的に文系で,他のきょうだいは父親とおなじ理系の大学を卒業したことを,Mさんは偶然以上のものとしてこだわりを持っていました。母親の家系には,知的で自由な職業についている人が多いそうです。そして母親自身は大学を出ていません。Mさんによれば大変頭が良い人で,全国的に有名な進学校の卒業生です。大学に進学しなかったのは,「女に学問は要らない」という父親の考えのためといいます。母親の学歴コンプレックスの犠牲にされたと考え,子供時代を,「下らない受験勉強に終始した」ことを悔やんでいる様子を垣間見せたこともあります。しかし別な機会には,母親は物事に囚われず,明朗闊達でスポーツを好み,感性が豊か・・・と称揚します。Mさんが語る父親,母親像には,一貫性が欠けているように感じられます。Mさんはむしろ聡明な人のように思われますので,このような混乱は無意識下のコンプレックスの影響を受けているのだろうかと想像されます。自分の子にも,下らないといって憚らないMさんの過去の人生の軌跡を,そのままたどらせようと躍起になっているところがありました。この矛盾については,父親の意向に抗せなかったと説明します。また,子供のころは父親を疎んじていたが,母方の親族の女性問題を軽蔑し,父親を高く評価するようになったといいます。また別な機会には,父親の生活姿勢には,何一つ問題のないしっかりした人と子供のころから思っていた,ともいいます。

Mさんの娘は,「私と対照的な能天気で,勉強などは気にかけずに,テレビを見て笑い転げるような性格」です。ある時期までは,「受験勉強に打ち込もうとしない・・・成績が伸びないのに平気な顔をしている・・・」と苛立ち,落ち込んで,娘の成績に振りまわされている様子が顕著にありました。しかしその様子に変化が見られ,受験に駆り立てる母親に,「おかあさんは,どうしてそんなに心配するの?私は何にも心配していないのに」と不思議そうにいうと,娘の立場を理解する様子が見えてきました。

Mさんが自分で嫌っている人生コースに,躍起となって幼い娘をはめ込もうとしている様子からは,Mさん自身の子供時代の母子関係が表れているように思われます。Mさんがいうように娘は能天気であるらしく,それは娘とMさんのために,喜ばしいことといってよいでしょう。またMさんの夫は,「お前みたいな下らん奴が出た学校に,娘を入れようとするな」というそうです。それをMさんは忌々しいとは捉えていない様子です。

結局は娘は公立の学校に進むことになりました。私立校への強かったこだわりを捨てることができたのは,一つには母親の苛立ちを一向に気にかけずに,’能天気’であるらしい娘に助けられたといえるのかもしれません。そしてこのごろのMさんは,キャリアウーマンへのこだわりも少なくなったといい,さばさばしているように見えます。日常の生活が結構楽しいと,かつては聞かれなかった感想をもらします。

先に上げた夢は,Mさんの葛藤を表現しています。

Mさんは他を羨み,自分にないものにあこがれる傾向が顕著でした。母親とは,「きょうだいのような仲」といいます。これは一見すると微笑ましい親子関係の表現のように見えますが,母親とのあいだに強い相互的な依存関係があることを暗示しているように思われます。言葉を換えれば母親を母性豊かなものとして尊重していない表現のように見えます。母親にMさんと共通するものがあるのは確かかもしれませんが,Mさんの自律的でない自我は,母親に同一視する(母親の自我にしがみつく)ことで平衡を保っているように見えます。

「きょうだいのように(母親と)仲がよい」というのは,若い女性からしばしば聞かれる言葉です。ここに共通しているのは,母親から独立し,自由になっていない心です。そしてそれが問題であるとは考えたくない様子が見えます。いわば母親にしがみつき,それを手放すと自分が立ち行かないという気分であるように思われますが,そういう認識の言葉を聞いた記憶が希薄です。このことには母親自身も一役買っているように思われます。そこにはかつて幼いころに得られなかった母親との蜜月関係がようやく実現できたという気配があります。(一般に,摂食障害や自傷行為が仲立ちになって,このような母親との蜜月関係が形成されることが珍しくありません)

母親に同一視(自律性を欠いた自我が母親の自我にしがみつく)するMさんの心を支配するのは,父性原理とでもいうべきもののようです。「父親は非の打ち所がなかったので,父親のいうことに逆らうことができなかった」といいますが,Mさんがイメージとして描いている父親からは,父性としての豊かさが感じられません。むしろひどく幼稚な身勝手な父親に感じられます。Mさんには懲罰的で恐ろしく,到底逆らえないものとして父親イメージが屹立しているようです。そのイメージの父親は,Mさんに怒りを持っていて,子供たちの中で最低位に価値づけされ(ということは無価値に等しい感覚になります),駄目な奴と思われているというふうなものです。それへの反作用として,それに相応してMさんの心にも強い怒りがあると考えられますが,父親を美化して心を護っているMさんにはそういう認識はありません。その父に認められることは到達困難な理想という形で,父親に拝跪する姿勢で内外の怒りを和らげようとしているように見えます。

客観的に父親は暴力的でもなければ威嚇的でもなかったようです。Mさんが自我の自律性を捨てざるを得なかったのは,記憶の届かない早期に体験した恐怖があったからに違いありませんが,それはむしろ母親との関係でのことではなかろうかと想像されます。幼い時代のMさんの自我がとった防衛的戦略は,一方では母親との同一視で,一方では父親の理想化ではなかったかと思われます。何を防衛したのかといえば,むしろMさん自身にある強い怒りと,それと恐らくは関連するだろう見捨てられる恐怖とに対してではなかろうかと推量されます。そのように内在する強い恐怖と怒りとの投影をまじえて,畏怖する父親像が生じ,「きょうだいのように仲のよい」母親像が生まれたのではないかと思われます。このようにMさんの自我は,父親と母親の自我のまったくの支配を受けています。子供のころは父親に反抗的な気分を持ったといいますが,ある時期から自我は自立と自由への途を断念し,父親に迎合する方向に転換しました。主体性を放棄した自我は,自分を助けるものを他に求めなければならなかったのです。

助けを求めたのは,一つには母親です。「きょうだいのように仲がよい」という形で,母親との依存関係を絶えず確かめる途を進んできました。それが,「勉強に明け暮れして,他の楽しみを知らない下らない人生」を選んだ理由の一つで,一方では,「母親の学歴コンプレックスの犠牲にされた」という密かな思いです。これも母親との関係を壊すわけにはいかないので,声高には叫ぶことができません。感性を共有すると信じているMさんは母親をコンサートに誘うなどしますが,そういう折に母親がMさんの姉妹たちのことを話題にするとたちまち不安に駆られます。

一つには夫です。夫にはMさんが描いている理想を託しているところがあります。しかし夫は実家の方に心が斜傾しているようで,Mさんには少々遠い存在です。Mさんが自分の両親と一緒に暮らしてくれる気があるかと訊いたときに,断られました。夫は世間的に有名な学歴の持ち主です。しかし義弟は留学をしているので,そちらの方が一等高いものとしてMさんを脅かします。そして義弟の妻であるMさんの妹は,「美人で,頭が良くて,羨ましい職に就いていて,父親の大のお気に入り」なので,Mさんにとっては何から何まで敵わない人なのです。義弟は学歴詐称ではないかと妄想の中でこき下ろしにかかっています。そして密かに第一等でありたいという野心を抱いている(Mさんは,「白雪姫」のお妃に自分はそっくりだといっています)Mさんの自我は,かれら夫妻への羨望で破壊されそうなのです。それが義弟たちが入っている宗教団体に家を乗っ取られるという妄想になって表れています。

一つには娘です。Mさんは母親の特権をふるって,娘を自分の写し絵にしようとしました。娘を自由に支配することは,支配を受けないでは立ち行かない自我の歪んだ戦略といえます。歪ませたのは無意識界に膨れ上がっている負の分身たち(コンプレックス)といえるでしょう。自律性と主体性を欠いた自我は,外では父,母の自我の傀儡となり,内では怒れる分身たちの傀儡にならざるを得ないのです。分身たちによって傀儡とされた自我は,娘に対しては黒く彩られています。それは父,母に対しては拝跪する姿勢(よい子)で,あくまでも白い彩を演出(黒い欲求を隠す)しているのと好一対です。

自我を傀儡化している分身たちの要求は,「世界で一番美しい(女性として価値がある)のは私であるべきだ」というものかと思われます。それは自己愛が怒りと恐怖によって病的に肥大化して,意識下の潜勢力となったものです。人に認められるものは私には何もないというのが表の意識ですが,誰よりも高い価値を持っていると認められないのは不当だ,というのが裏の意識です。自律性と自由とを欠いている自我が描く理想的な自己像は,Mさんがたどった人生の軌跡の正確な再現でしかないのです。意識下の潜勢力が,傀儡化した自我を操って,そのように自分が果たせなかった(父親の)期待通りの人生コースを娘によって実現させようと企てたのです。それは娘の人格と人権とを無視した冷酷で,愚かしく,悲しいイメージ図に娘をはめ込もうとしたのです。

一般に自我の自律性と自由とが失われて,無意識の潜勢力の傀儡となっているときの特徴は,社会性と精神性の欠落です。

Mさんを助けたのは夫と娘だったでしょう。娘はMさんが躍起になって従属させようとしても,一向にへこたれない’能天気な’強さを持っていたようです。そしてその娘を夫が支えています。娘に対してあまり無理なことをすると,夫との関係にひびが入りかねません。夫に対しても理想化要求があるのですが,元は他人であるという事情のために父親に対してのような理想化には至ることはありません。頼りにしつつ現実的な距離があるので,Mさんの自我は夫との関係では自由になるのです。また思い通りにいかなかった娘に対しても,結局,一個の独立した人格として認めざるを得ませんでした。娘の自我を自分の自我の傀儡に仕立てようと躍起となったのですが,幸いにして娘は自由になりませんでした。結果的に娘に対しても,娘の助けによってMさんの自我は自由になることができたのです。

かつて妄想状態に直結した夢を見たころのMさんの自我は,このように自由ではありませんでした。

夢の世界で,誘拐された娘を捨てて家を出たのは,自由を求めるという意味があったと思われます。しかし夢が提示するMさんの自由とは,到底その名に値しないものでした。粗野で暴力的なカオスの中に身を投じる映像が,夢が提示したMさんの自由のイメージでした。それはMさんの自我が到底受け入れることができる代物ではありません。傀儡化したまま固化した自我には,自由を描く術がありません。自由という高度な精神性は,自我が自由であることと一対のものであるだろうからです。Mさんの自我が夫と娘とに助けられて,おもむろに自由を回復させていく過程で,Mさんの精神の自由が現実のものになるでしょう。そのときに夢が提示する自由のイメージは,まったく別種の,Mさんの目を開かせるプレゼントといったものになるのではないでしょうか。

中年の主婦であるNさんは,両親への依存心,攻撃心を強く内向させている人です。夫の両親である義父母は,Nさんを終始温かく見守っているようで,特に義母を頼りにしております。不安に駆られると,毎日でも義母に電話をしているようです。Nさんの話を聞いていて,義母の根気のよさには頭が下がる思いがします。そして義父母と絶えず比較して,実父母への怒りを抑えきれなくなるのです。

あるときに憑き物が落ちたように平静になり,一定期間,それが保たれます。

繰り返しうつ状態が訪れ,そして一定期間それが回復します。その過程で,統合失調症と区別がつかない状態になり,それが長期化するということも一度ならずありました。

彼女は,「すぐに治してほしい・・・」という姿勢を一貫して変えられません。心の治療は外科医のようにはいかない,本人が自分を助けるのを助けるのが,われわれ心の治療者の役目ですと,いくら説明しても,「先生のいうことは難しくて分からない」とうまく理解してもらえません。Nさんが望むのは,魔術的な治療なのです。実際,祈祷師を訪れたことがあったようです。

「こんなに辛い気持ちで長年通ってきているのに,いつまで経っても治らない,ここに来るのがいやになる」と焦る彼女は口癖のようにいいもします。実際,長年にわたり堂々巡りが繰り返されているので,何度か転医を勧めました。しかしそれに応じることもありません。

ようやく回復が確かなものとなったように見えたあるとき,「自分の力を信じるということがどういうことか,やっと分かりました。先生のおかげです」というのです。彼女は,「夫に,おれは精も根も尽き果てた,離婚したいといわれた,それがきっかけだった」と明るくいうのです。

「離婚のことはしょっちゅういわれていたが,どこか高を括っていた。しかし今度はヤバイと思った」といいます。つまり他の力を当てにしつづけてきたが,今度こそは自分が引き受ける以外にないと決意したというのです。

Nさんのこの他の力を当てにする基本性格は,心に潜む幼児性の影響を受けたもののように思われます。これはごく幼いころに,満足感を得られなかった何らかの心的状況があったことに起因していると予想されます。そのような小児心性は,乳児期の幻想的な全能感,全能要求に由来し,それらの約束を母親(父親も)が履行していないという怒りと不満とがあっただろうこと,しかしそれを上回る恐怖心が働いて,幼い自我がそれらを意識下に抑圧し,潜在させたまま成長したことによるのではないかと想像されます。母親(父親)への不満,怒りよりも恐怖感が優先するときに,幼い自我は親の自我に迎合して共犯関係に入るので,満たされなかった自然的な欲求が,怒りや不満と共に抑圧,排除されて心の裏舞台に追いやられることになります。

それらの全能幻想は乳児の自我に内属していると,仮定的に考えることができます。それは母親の胎内にあるときの充足性と,出生後の不充足性との落差を埋めるものです。

出産に伴ういま述べた落差は,’1000メートルの降下’と比喩的に考えてみると分かり易いように思います。つまり赤ん坊が生まれるときに経験するのは,まったくの充足である母親の胎内という洞窟から出るように促されて,1000メートルの高みに立たされるようなものではないかと想像されます。まともに落ちればショック死があるのみなので,それを回避するためには,現実を引き受け,直視する力が身に着くまでのあいだ,何らかの幻想的なクッションが不可欠であろうということです。その幻想は,十分な満足感と安心感とが与えられると約束された感覚であるように思われます。それは母親の胎内にあるときの充足感に匹敵するものを保証するものです。

満足感の追求は動物一般に認められる本能的な欲求(フロイトをはじめ精神分析的には欲求という言葉は使われず,欲動といわれることが多いようです。欲動の方がより身体的であり,欲求には精神的ニュアンスが込められているからかと思いますが,あまり厳密に言葉に捉われる意味はないようにも思われ,日常見慣れた欲求をここでは使います)ですが,人間の場合も同様です。人間が動物と違うのは,’自己満足’という言葉があるように,他者と共有できる満足,換言すると精神性と社会性とを携えた満足の追求がもとめられることです。それが自我の主要な仕事であり,かつ人生の主題であるといっても間違いではないでしょう。このように他者とのあいだで共有できる満足の追及が重要であることは,逆に他者によってその追求が困難にされるということでもあります。

他者は自我が仕事をしていく上での欠かせないパートナーです。しかし他者の介在を不可欠とすることが,自我が自分の仕事を遂行することを混乱させる要因です。

このことを敷衍すると,以下のように考えることができます。

生まれたばかりのときは,心の全体が自然のものです。自我の役目は,これら自然の心たちをいかに護っていくかということです。しかし一個の自我が独立して機能することは不可能なのが人間の現実で,自我が機能していく上で,他者の関わりを不可欠なものとしています。それは外部的な他者の助けを必要としているという以上に,自我の機構に他者および異性が内属していて,自己の無意識層に内なる他者または異性を構造的に含んでいると考えられます。そのために自己の内と外とで,他者または異性が呼応し合える関係にあります。そして一方で外なる他者は,自己と異なる存在であり,いわば何を考えているのか計り知れない存在でもあります。ですから他者はいかに善意の持ち主であっても別個の存在であり,当人の自我が自己のために最善を尽くすような意味では,当人のために他者が最善を尽くすのは不可能です。自己の内と外の他者の呼応性というかぎりで,他者は頼りになりますが,外なる他者が不可知であるかぎり,時によっては悪意の他者でもあり得ることになります。そのような他者の意向を受けて,とりわけ幼い自我は葛藤し,混乱するのを避けることはできません。つまり自我が自分の内部の自然な心たちを自然のものとして護り切ることは不可能です。

以上のような事情から,自我は心の自然な欲求を護ることができたときには,いわば白い子を生み出し,護り切れなかったときには,いわば黒い子を生み出します。黒い子を生み出すのは,自我の不始末ということになります。

このあたりのことを以下の例によって見てみます。

ある家にぶどう棚があるとします。秋になると美味しいぶどうがなります。その家の幼い子(A)が友達を連れてきてぶどうをご馳走します。Aは友達に満足を与え,自分も満足します。それが得意でもあります。ところがあるとき母親に見つかり,叱られます。Aは友達の前で叱られて恥をかき,自分の威厳が下がったような気がします。

母親に見つかる前は,Aは美味しいぶどうを友達と分かち合う楽しみを味わいます。そのとき一人で食べるよりも,更に大きな満足を得られたに違いありません。Aはその場の主人公であり,ぶどうという満足をもたらす力を自分のものとしています。この場合Aは小さな権力者です。ところが母親に見つかってしまえば,ぶどうの本当の持ち主は自分ではないことが暴露されてしまいました。権力者の座から失墜したのです。このときからAは少々元気がなくなりました。

母親の関与がある前は,Aは美味しいぶどうを友達と分かち合う満足を得ました。ここには社会性を帯びた白い満足を,幼い自我が引き出した意味があります。しかし母親の関与により,本来は自分のものではないものを自分のものとしたことが暴露されました。そのとたんにAがしたことは,社会性を失い,黒い満足になってしまいました。

Aの自我が試みた仕事は,美味しいぶどうを仲間と食べたいというかぎりで,自然な欲求を充足しようとしたことです。しかし人間社会の掟では,他者(ここでは母親)への配慮を抜きにすることは許されないという理由で,Aは心を護ることに失敗したのです。

これが自我が単独で機能することができないという具体的な例です。そして敢えてそれを試みると,未熟な自我という汚点を残すことになります。つまり自我が社会性を帯びた成熟性を発揮するためには,他者の関与を踏まえないわけにはいかないのですが,それは自然の心の欲求との激突を避けられないものでもあります。

それではAはどうすればよいのでしょうか?

Aのテーマはぶどうを仲間に振る舞い,喜んでもらいたいということです。そしてそれとは別の意図が入っていた可能性があります。Aは功を焦るあまり,自分のものではないものを自分のものであるように振る舞ってしまったように見えます。Aの目論見は,「自分の力によって仲間たちと共に満足することを演出する」ということのようです。Aは自分の力を示したい,人に認めさせたいと,少々権力的になってしまっているようです。Aが内心で望んでいるのは,母親にもっと認められるべきだという不満足の解消だったかもしれません。「ぶどうを好きなように食べていいよ,ぶどうはAのものだよ」,と母親にいってもらいたかったのかもしれません。その心はもっと幼いころに母親に十分に甘え,自分が愛される価値があることを母親に認めて欲しかったという不充足感に発したのかもしれません。母親に十分に甘えることは,その後のあらゆる満足感の源泉であり,基礎になることのように思われます。Aはそういう意味で母親に不満があり,ぶどうは僕の物だという隠れた意識を持っていたかもしれません。そうであればぶどうを仲間に振舞ったのは,母親への挑戦であったという面を持つことになります。Aは母親に叱られ,ぶどうはAの物ではないといわれました。権力者の座を目指したAの面目は丸つぶれです。Aは口惜しい思いをし,腹を立てたことでしょう。

このように見てみると,Aはこれでよかったのだということもできます。何故ならAは,自分の分身である母親に甘えたい心を見捨てなかった(抑圧しなかった)からです。幼い時代に甘えたい心が満たされなかった不満をいだき,改めてその不満の表明と解消とをもとめる心が,仲間とぶどうを食べるという行動の隠れた意味ではなかったかと考えることが可能です。そして再びその目論見を母なる他者によって封じられたことは,自我の不始末ということになります。しかし自我は常に即座に成功を収めることは無理であり,必要でもありません。いつか成功を収める機会を得ればよいのです。怒りと共に心に内在している満たされなかった甘える心が自我を圧迫し,苦しめるでしょうが,それを持ちこたえる強さが自我にあれば,いまは負であるそのエネルギーは,機が満ちたときに一気に自我の仕事を支える正のエネルギーに変換されるのです。そのときに意識の下部で自我に圧力をかけて催促していた欲求が,自我によって満たされることになります。母親によって失墜させられたAの野心は,その後のAの人生への取り組み方しだいによって,むしろ使えるエネルギーなのです。大きな負荷をかけられて撓んだバネが,あるとき一気に反撥するように。

以上のように,自我の目論見が他者によって退けられたときに,自我は無意識からの圧力を受けることになります。自我はその圧力に耐えなければなりませんが,耐え難く傀儡化する自我と耐える自我との差は小さくありません。無意識の力の傀儡となった自我は,未熟で社会性を欠いた思考や行動になることが避けられません。耐える力を維持することができる自我は,次の機会に備える能力を温存しているといえます。

いまの例でいえば,幼い自我が母親をおそれて甘えたい心を満たせなかったとき,自我は二つのものに捕捉される,あるいは傀儡化されてしまう可能性があります。一つは母親で,一つは無意識の世界に抑圧,排除した分身たちです。母親をおそれて取り入る自我は,いわば傀儡自我であり,主体的,自立的であることをあきらめています。傀儡自我の下では,自然のものである心の諸欲求(白い子)を護りとおすことは困難で,引き受けを拒んで無意識の世界に抑圧,排除することになりがちです。自我が護ってあげられなかった無垢の欲求は,自我によって死の宣告を受けたのに等しいことになります。言葉を換えれば,白い子を黒い子にしてしまったことになります。黒い子を作り出したのは自我の不始末ということになり,黒い子たちをおびただしく作り出してしまった自我の下では,自ずから不甲斐ない,自分は駄目な人間だという思いにかられがちになると思います。そして黒い子たちが強力化すると,自我はそれらの勢力に捕捉されて,再び主体性と自立性を放棄するしかなくなります。このような事情にある自我の下では,Aのように仲間を集めてぶどうを食べるよりは,人目を盗んで一人で食べることになるでしょう。

人に認められる,愛される,信頼される,受け入れられる等々のことは,他者との関係での要点ですが,その原型となるのは(主に母親によって)甘えが十分に満たされることではないかと思われます。精神の未発達な赤ん坊が母親との関係を通して得られる満足感は,身体的なものです。甘えることの原型は,抱かれる,愛撫されるなどの身体的な接触を通じた満足感です。それへの欲求は身体的なものであるだけに,強いエネルギーを秘めたものであるといえるでしょう。そういうことが基礎になり,長じて愛される,信頼される,認められる,受け入れられる等々の,より精神性の高い満足をもとめることになります。

甘えることの原型は,身体的な満足感(フロイトの快感原則)をAがBに求め,Bがそれを満たしてあげるという関係で成立します。それが本能的なものである証拠の一つに,動物も人に甘えることを上げることができます。

動物の場合は,心地よさを人に求め,満たしてもらうという身体的な次元での満足に留まっているように見えます。しかし動物の側で人を信じることがなければ,甘えることはありません。人間の側でも噛まれるなどの怖れを持たないので甘えを受け入れることができます。人は動物を可愛いと感じ,もしかすると可愛がられているという感じが動物の側にもあるかもしれません。このように人と動物とのあいだでも信頼とか愛とかの精神性の萌芽があるように思われます。

母親と赤ん坊の場合も,甘えの原型としては本能レベルで赤ん坊が身体的な接触を求め,母親も半ば本能的に赤ん坊の身体を抱き,愛撫します。両者はその身体的な触れ合いの満足感に没頭します。イギリスの精神分析医であるW・ウイニコットは,このことをマターナル・プレオキュペーションと呼んでいます。この両者の関係で,母親の助けの下に赤ん坊は甘えを満たすことができます。すべての満足感の基礎と思われる甘える満足は,母子の特別な二者関係において成立し,そこには両者のあいだに,身体的な強い満足感と信頼と愛情という精神的な強い満足感とが体験され,それは母子共々に至福のときではないかと思われます。動物も人に甘えることがあるようですが,赤ん坊が動物と決定的に異なるのは,自我に拠るものとそうでないものとの違いです。赤ん坊の甘えも,生まれて間もないころは動物と同じように身体的なレベルに限局したものです。それが自我の機能の発達に伴い,徐々に精神的な様相を深めていきます。そのことは甘えを求め,それを受け入れられ,満たされるという受身的に見える満足追求の行動が,実は主体的なものであるという意味につながっていくことでもあります。母親によって身体的に心地よい満足感を与えられることが,実は赤ん坊の心の親ともいえる幼い自我が,母親の協力を取りつけることに成功し,自分で心の子である甘えを求める欲求を満たすことができたといえるのが重要であるように思われます。つまり満足感を得たのは,赤ん坊自身の自我によってであるという意味が大切であると思います。母親は欠かすことが出来ない重要な役割を果たしていますが,赤ん坊の甘えるという満足感を獲得する主体者ではなく協力者に過ぎないのです。つまり赤ん坊が母親に十分に甘えることができたということは,人間の満足感の追求が身体レベルにとどまらず,精神的な満足への広がりをみせ,それは他者との関係での満足感と密接不可分であり,将来,一切の満足感を得る上での基礎になります。

赤ん坊が甘える満足を満たされたとき,母親によって自分が価値ある者,大切な者等々として受け止められているという満足感を諸共に経験することになります。そのとき両者のあいだには,信頼と愛情が共有されています。

赤ん坊が母親から信頼され,愛されているのを体得するのは大変重要なことですが,それは幼い自我が甘えるという満足感を自分の力で得る上で欠かせないことであったからともいえます。この重要な心の作業を(母親が)理解し,協力してくれたのは,信頼と愛情とによってであるに違いないからです。仮に母親にネグレクトされるなどのことがあれば,赤ん坊は恐怖と不満足感とで恐慌状態に陥るでしょう。何よりも母親の助けを得られないと甘える欲求を満たす術がありません。ここには愛情と信頼との欠落があります。最も頼りとする母親から何がしか見捨てられた体験を持つと,その後の人間関係に強い影響を与えます。自分は人に受け入れられないかもしれないという怯えが生じやすく,自我は心の子であるさまざまな欲求を無意識的に,自動的に抑圧することになるでしょう。当然それは性格形成の上で大きな問題を残すことになります。

心の親である赤ん坊が,心の子であり,自然のものである甘えたい欲求(白い子)を満たすことができれば,白い子を白い子として護り通すことができたことになります。そして母親の協力が得られず,甘えるのを断念したとすれば,幼い自我は白い子を護れず,意識の裏舞台に追いやったことになります。自我は心の子である甘えを求める欲求を護ることができず,いわば死の宣告を与え,黒い子にしてしまったことになります。

母親に愛されていない(幼い心は,きょうだいたちの中で,第一等の愛を要求します。それが得られていないと感じると,愛されていないのに等しい感じを抱くのです)と感じる子は,甘えを満たすことが更に難しくなるでしょう。それは母親への不信感に直結するでしょうし,一般に対人不信に陥る十分な理由になります。愛されていないと感じている子の一番の問題は,対人不信に陥りがちであるために,自我が甘えを満たす術を失うところにあります。それは自我が不始末を繰り返す意味を持つ上に,自分が愛され,信頼される価値がなく,人に認められない駄目な人間であるのを絶えず確認していくことにもなり,心が転落していく理由になります。

幼い時代に甘える欲求が満たされる体験をしていれば,自我は白い子を護ってきたという自負心を持つことができているので,後々,対人的にストレスに見舞われても回復は速やかでしょうが,甘える満足に欠けるものがあれば,次々と黒い子を生み出してしまう悪循環に陥ることになるかもしれません。

このように人間も含めて動物一般の基本的な欲求は満足感の追求です。動物と異なって人間は,本能的,身体的なものの他に精神的な満足の追求が欠かせません。動物体としての人間が,動物としていわば地に根を張った存在でありつづける上で,肉体的,本能的な満足への欲求は強力である必要があり,事実そのとおりです。そして一方では,成長するにつれ精神的な満足の追求が不可欠の要請になっていきます。身体性と精神性とのあいだでの相克,葛藤は,とりわけ思春期にあって甚だしく,しばしば内的に深刻な問題になります。

いずれにしても自我の役割は,身体的,本能的欲求と精神的な満足との相克に悩まされながらも,身体的な満足からしだいに精神的な満足へと比重を変えていくところにあるでしょう。

自我は満足感の追求の履行者の立場にあります。何であれ行為するときは自我が方針を決め,欲求の協力を促します。両者の協力関係の下に意志が確かめられます。意志の根底には欲求があり,何かを始めようとするとき,自我は自動的に欲求に呼びかけると考えることができます。欲求はその都度新たに生まれるものです。そういうふうに考えると,いわば心の親である自我が,子供である欲求を大切に護っていくことが重要です。邪念に駆られていったん始めようとしたことを中断するようなことになれば,欲求の立場からすると,要請されたり不要とされたり,いわば迷惑な話になります。このような頼りない自我の下では,自我自身が自信を失くしているでしょうし,気まぐれにもなるでしょう。欲求もまた,容易には生じにくい状況といえ,要するに無気力になっていきます。

ソクラテスは,身体の心配をするよりは魂の世話をすることが肝心だといっています。また愛知の精神を尊ぶ彼にとって,哲学は人間の仕事の最上位にあるものですが,「我々は日夜死ぬための練習のために哲学をしているようなものだ・・・」といっています。また,「人間は囲いの中に囲われているようなもので,当然,囲いの番人はいる。人間の究極の目標は身体を去ることで囲いを超えることだが,囲いの中で勝手に死ぬようなことは,番人にとっては許し難いことだろう・・・」といいます。

この考えに組するかどうかはともかく,人間の存在様態を端的に捉えている一つの典型といえるのではないでしょうか。

そのことを煎じ詰めると次のようになるかと思います。

人間が生まれたときは,満足感の源泉は身体的なものにある。しだいに成長するにつれて精神的なものに比重が移り,身体と精神との満足追求の対立が激しくなっていく。自我がうまく成長するときには,この対立を止揚して新たな統合を達成していくことができる。見方を換えると,対立に伴う強いエネルギーに一定の意味のある方向性を与えることに成功する。そして最終局面に達して死を向かえるときに,身体が滅び精神のみの存在となる。それはソクラテスのいう囲いを越えることであるが,囲いの向こうに何があるのかは,人間の窺い知れない問題である。

精神的に満たされることが人間の場合は決定的に重要ですが,身体性の裏づけを欠いた精神性というものはありません。身体的に満たされる体験を,乳幼児期にしているかどうかは重要です。自我の未発達な赤ん坊の安心と満足とは,母親とのボデイコンタクトを通じて得られます。それに従って,愛されるという精神的な満足を受動的に経験します。愛されるに値する自分とは,まずは身体的に満たしてもらうという経験に由来します。そういうことを経験して,自我の機能が発達していきます。

以上のような意味で自我が健全な発達をしていないと,過食症やアルコール症のような黒い満足の追求に向かうことになるかもしれません。心の病的な現象は,大多数が幼いころに満たされなかった心に由来しており,それは同時に身体を通じて愛された体験が希薄であることを意味しているように見えます。

過食症は,満たされない心を代理的に食べ物で満たそうとする病的心理現象です。これは乳幼児期に甘えが満たされなかったことに関係があるようです。幼い自我が母親との関係で何らかの恐怖心を抱き,甘える心を護れなかったことに起因すると思われます。この幼児心性がことごとく過食に向うというものではありませんが,自我によって抑圧された甘える欲求は,いわば見捨てられて死の宣告を受けたことになります。自我に護られることで心の表舞台に乗せられ,精神性と社会性とを備えることになります(白い子)が,護られなかった欲求は心の裏舞台に退けられて(黒い子),精神性と社会性とに無縁となります。怒りのエネルギーを蓄えている黒い子が一定以上の勢力になると,自我を捕捉し傀儡化するようにもなります。何らかの満足を求めないわけにはいかないのが人間であり,そういう心の状況では黒い満足の追求になります。それが食物に向うとき,黒い満足は小児心性ということでもあり,虚しい心を埋めるために怒りを込めて貪り食うことになります。黒い満足としての食事は,自我の関与を欠き,精神性と社会性とを欠いているので,いくら食べても虚しいのです。また拒食症者にとっては,食べずにやせることが満足の一切です。身体性を否定し,精神性だけの存在になろうとしているように見えます。それは幼いころに身体を通じて満たされる体験が希薄だったことの,過食とは違った一つの表現です。食べ物を貪るのは身体への固執であり,食べ物を拒否するのは身体性の拒否ということになります。両者は両極に分かれていますが,共通するのは幼い時代に心が不十分にしか満たされなかったこと,恐らくは甘える満足が十分に満たされなかったことが主因となって,心の成長過程にあっても内心の空虚さが満たされないままでいたのです。過食症者は,太っていることをとても恥じます。それは精神性を欠いているが故の食行動の結果だからでしょうし,激しいエネルギーの黒い子の下で無力だった自我が,我に返って,情けなさに打ちひしがれている姿でもあるのでしょう。また骸骨のようにやせ細っても,ある意味では恥じない拒食症者は,身体性を拒否することに精神性を見出そうとしているように見えます。いずれにしてもそれらは心の裏舞台にある黒い子たちが求める満足で,生きる方向での行動ではなく,死の方向での行動なのです。ですから常識的な意見は通用しません。

ある女性は次のように述べております。「健康な心が健康な身体を望むというのは分かる。私の中にもそれがなかったとはいえない。しかしずっと以前から私にとっての美とは,死に化粧だった。グロテスクといわれると思うが,そのようなメイクをし,痩せこけるのが私のもとめる本来の美だった。そこには悪魔がいて,私を誘っていた・・・」

人の不幸を喜ぶ心も黒い満足です。犯罪も然りです。黒い満足を演出する究極には,影の帝王ともいえる死があるといえるでしょう。その手先が先の女性が述べているような悪魔の誘惑といったものです。死は恐るべきものである一方で,魅惑するものでもあります。

ちなみに人間の誕生は,O.ランクが出産外傷と表現し,後々の不安反応の原型となるといっています。

人間が生まれるということは,無限定なものから限定されたものへの移行であると考えられます。それは母親の胎内以前のものから,以後のものに移行するというのとおなじ意味です。生きることは限定されているということ,つまり’囲いの中’に限定されて満足を享受する自由が与えられているといえます。その生の享受は,限定されているが故の不安を排除できません。囲いの中が生の世界であれば,外は死の世界に違いありません。

無限定なものから生という限定されたものへ移行し,再び無限定なものへと移行する宿命の下にあることの無意味感は,我々にとって厄介過ぎる問題ですが,それは,所詮,生という囲いの中のもののボヤキに過ぎません。ソクラテスのように,人知を超えたものの意志に対してひたすら服従する精神があれば,ボヤク無意味から一転して,謙遜の精神を手に入れることになるように思われます。謙遜の精神とは,引き受ける精神と表裏一体の関係にあるものです。

母親の胎内から出て,そこへと回帰するというふうにも取れる人生の道筋を,人間的に生きる主要な手がかりが満足感の追求ではないでしょうか。いわば全の世界からこの世という限定の世界へと突き落とされて,全に匹敵する満足感を飽きることなく追求することをやめるわけにいかない人間は,どこか蟻に似ていなくもありません。満足感の追求が不首尾に終われば,たちまち生の世界に翳りが生じます。生は自我による光の世界であり,光の源泉は有限の彼方である全であろうかと思われます。そして翳りは無であるものといえるだろう死の気配です。それら全と無とは無意識の世界にいわば存在し,自我に光と影をもたらすようです。自我が上首尾に自己を導きとおすことができれば,限りなく全に向けて飛翔するようであり(ソクラテスのいう囲いを越えること),自我が不始末の悪循環に陥れば光の世界にあって翳りの色を強めることになるのでしょう。

とりわけ生まれて間もない赤ん坊は,全を要求します。母親の胎内にあって,人間となるどんな修行を積んできたのか知る術もありませんが,限定された世界であるが故に死を含み持つ生を,赤ん坊単独の力で引き受けることはできません。幸か不幸か,母親は赤ん坊の絶大な期待に応える義務を帯びた立場にあります。母親に誰がそのような義務を負わせたのか,母親自身が不満を持つことも可能な状況です。母親はソクラテス流の引き受ける精神が要求されています。であればこそ,母性豊かな母親は祝福された人といえるのでしょう。

母親の大きな役割は,全を要求してやまない赤ん坊に,生きる上での欠かせない知恵である,この世の限定のことを身をもって教えることです。つまり,ほどほどの満足が人間の分というものであることを分からせるのが,母親にできる最上の愛情です。この大仕事を委ねられた母親の名誉は,どんなに頑張っても,全を求めてやまない赤ん坊によって悪魔の烙印を押される不名誉に転落する怖れを内に持っています。赤ん坊が全を求めてやまないのは,この世のものになったがために,宿命として死を垣間見ることが避けられないからです。その恐怖は,全を提供してくれるはずの母親と一体のものとして映じるでしょう。つまり母親は,赤ん坊にとって,死をもたらす存在でもあり得ることが不可避なのです。この母親の全と無のイメージが,大母と魔女とに他ならないといえるでしょう。

そのようにして,全ならざる人間は,飽きることなく,蟻のように満足を求めて生きつづける宿命の下にあります。

しかしいずれにしても赤ん坊の心は,全の世界から全ならざる世界へ移行していくのでなければなりません。言葉を換えれば幻想的世界から,現実的,客観的世界に移行していかなければなりません。

以上のような事情の下で,生まれたばかりの赤ん坊が母親から心理的に分離して,独自の個として生きていく上での拠り所となる自我の機能が,ひとまずは確保される(3歳ごろ)までのあいだは,いわば’1000メートルの下降’が穏やかに果たされる必要があります。この危険な下降,着地が理想的に穏やかに果たされたとしても,人間は絶対的な受身として存在が開始されたという事実は否定できません。つまり危険を賭して’1000メートルの下降’を強いられるということの意味は不明であり,絶対的な不条理を生きる宿命の下にあります。この不条理性を余儀ないものとする人間は,光のものであり,意味を紡ぎ出すものである自我によって存在可能となるのですが,それは同時に,人間の心は自我による光がおよび得ない闇と無意味の領域とを併せ持つことになります。かつまたこの闇の領域は,自我の価値規範によって否定され,隔絶,排除された意味を持つ領域と,自我が拠り所とする領域とを併せ持つものです。

自我に拠る光の領域を白の世界とすると,自我の価値規範によって否定された領域は黒の世界ということになります。そして白の世界の帝王は前章で述べた内在する主体ということになると考えられます。一方黒の世界の帝王は,死であると考えられます。しかしながらこのように両極に分離して現象を捉えるのは,自我の機能の宿命的特性です。白と黒のそれぞれの主体そのものは全であり,かつ無であるといったものであるだろうと考えられます。そしてその一者の観点からは,白と黒との分離はなく,白でもなく黒でもなく,あるいは白であり同時に黒であるといったことになるのではないでしょうか。

いずれにせよ,自我に拠る人間の理解がおよぶのは,主観と客観の総合である現象的世界にかぎられます。それは「意識という光が及ぶ限りの世界」と同義であり,つまりいうまでもないことですが有限の世界です。そのことは必然的に意識の光が及び得ない「無限界が存在する」ことを含んでいます。いうならば「無限の世界」は現象的世界とおなじように,「その存在}は明証的で,疑いようがありません。

自我は意識に拠る現象的世界の中心にあり,その世界を司っています。しかし自我が存在するにいたった理由は,自我の能力を超えています。そのことは一見すると合理的理解が不可能であるということになりそうですが,しかし自我が存在する理由はいま述べたように明証的です。そのことを結論的に言い表せば,次のようになるかと思います。

人間にとって明証的なのは意識が捉えるかぎりの世界(現象的世界)についてである。意識は自我に拠るものである。しかし自我自身の存在理由を自我は知らない。それは自我が一切の最上位にあるものではないことと同義である。つまり自我の上位にあるものに拠って自我が存在するにいたったことは疑いようがない。その上位にあるものを,現象界にあるものとおなじような意味で実体的に理解することは不可能であるが,それと名指しできないにせよその存在自体は疑いようがない。現象とは意識がそれと指し示すものの存在のことであり,その意識の連鎖を認証することが合理性ということである。このように,自我の存在理由となったものの存在を認めることは合理的である。

自我の上位にあるものは原則的に無限界に属するものです。ですから具体的に現象的実体として捉えることは不可能で,自我の能力を超えた問題です。「それは存在する,しかしどのような様態で存在するかは知り得ない」ということになります。

個々の自己が自分にも知り尽くせない自己であるのは,改めていうまでもないことです。それは自己が自我に拠りつつ,自我を超えたものの存在(「無限界に属する存在」ということになります)にも拠っていることを,明証的に示しています。そのことを敢えて考慮する必要があるのは,精神科の診療で心の問題を考えるときです。人間が絶えざる可能態として存在していることは,希望の源泉を確認することになるからです。自我の上位にあるものの存在様態は,現象的実体として捉えることはできないのですが,だからといって煙のごときもののように漠然としたままでいるのでは説得性が希薄です。それをともかくも措定する必要があります。それはどうしても擬似有限態として仮説的に措定するしか手がありません。

そのような試みは,心の治療の体験から自ずから導き出され,その有用性を診療の上で訂正されつつ確かめられることで容認され,意味を持つだろうと思います。

自我の存在と存在様態の問題は,生と死という人間の最も根源的なものと直接関わるものです。この問題を不問にして人間の心の問題を考えることは不可能です。

生は自我の誕生と共にあり,死は自我の終焉と共にあります。自我の存在以前には生も死もありません。つまり生と死とは,有限と無限の問題でもあります。

それにしても死とは何でしょうか?現象としては物化した屍体がそこにあります。それは死の動かし難い事実の一面です。しかしそれが死でしょうか?精神は,魂はどうなったのでしょうか。

死によって我々の前で明らかなのは,物化した身体ばかりです。精神は煙のように消えてしまい,それがそもそもどこに帰属するものなのか,手がかりがありません。生きているあいだは身体と精神とは一体のものであり,精神の活動は身体性と切り離すことができません。

人間の一生をたどれば,幼いころは身体に傾き,年をとるにつれ精神に傾くのが理想のようでもあります。生涯に3度結婚したソクラテスは,60歳を過ぎて再婚し,子供をもうけました。そして幼い子を残し,その気があれば免れることができた死刑を甘受して死を選びました。そのソクラテスは,身体に固執する愚を説き,魂を磨くことを説いています。

身体は成熟のピークを向えた後は,時間を経るにつれて衰えていきます。最後に物化して死を向えます。滅び行く伴侶と共にある精神は,共に滅びるのか,遊離するのか不明です。ソクラテスは,哲学は死の練習だといいます。哲学する精神は,滅び行く身体を慮り,自分自身の行く末を慮るという意味かも知れません。

死は精神の所在を謎に包みます。差し当たりは無に帰したというしかありません。身体もまた物化して残りますが,やがては腐敗して無に帰します。いずれにしても死によって人間は無に帰するので,ここでも厳然と「有限態であったもの」と「無の存在」とが明らかになっているようです。

自我が自我以上のものによって存在可能となったと考えるしかないのとおなじ理由で,死によって無に帰した精神は,そもそも「無の世界のもの」であると考えるのは可能であるように思います。有限態である自我の観点から,有限の彼方にあるのは無限に違いありませんが,無限即ち全は無と区別がつきません。

自我至上主義は虚無の精神に他なりません。それは死は本人の自由に扱ってよいものかという問いに対して,いうまでもなく本人の自由であるという結論を導きます。またそれは,謙遜である根本理由を欠くことになるので,ドストエフスキィーの「罪と罰」の主人公が考えたように,場合によっては他殺も許されることになります。更に自然破壊,環境破壊など人類の危機をもたらしているのもおなじ理由によります。

自我の機能は,第一に自由で自立的な自我,第二に社会的な自我,第三に非社会的な自我と,便宜的に三つの階層に分けて考えることができます。そして存在するものは必ず滅びます。自我の機能もまた崩壊する可能性を秘め,実際に崩壊します。その様態が統合失調症と呼ばれているものです。です。

自由で自立的な自我が保たれていれば,病的な心理に陥ることはないといえます。芸術家や研究者など,創造的な仕事に携わる人,あるいは人間の身体能力の限界に挑戦する才能のあるスポーツマンなどは,このレベルが最も望ましく機能している必要があります。このレベルでは内在する主体との関係が良好に保たれていると考えられます。何にせよ行為するためには意志が働きます。意志というのは,心の親である自我が働きかけ,それに即応する欲求が心の子として生まれ出て,両者が協働することで形作られます。自由な自我の機能のレベルにあっては,自我とそれに即応する欲求とがいわば阿吽の呼吸の関係にあり,同時にそれは内在する主体との関係も良好に保たれていると考えることができると思います。

この機能レベルは,下位レベルにある社会的自我機能を,監視し調整する役目があります。ですからこのレベルがそれなりに活発でなければ,考えが窮屈で,融通の利かない人ということになります。

第二の社会的な自我機能は社会的な存在である人間が是非とも身につけていなければならないものです。

第二のレベルを保つことができなくなったときに,第三の非社会的機能のレベルに後退します。このレベルでは自我は無意識の黒い分身たちに対して優位の立場を保てず,それらに支配されることになります。この場合,何らかの心身の不調は避けられません。

第四に自我が崩壊した場合,決定的な異常心理である統合失調症の世界に陥ります。このレベルには機能的なものと器質的なものがあります。器質的なものでは,人格の何らかの欠損状態が永続的なものとなります。

例として上げたMさん,Nさんに即していえば,自我の自由な機能は活発ではなく,第二と第三の階層を行き来していると考えることができます。そしてあるときに自我の機能的崩壊が一時的に起こったと考えられるます。

自我の自由で自律的な機能が失われて,固化した状態が長期にわたっていたことが第一に問題になると思いますが,二つの例に共通していて,しかし対照的なのは怒りの存在です。Mさんの場合は怒りの所在についてはむしろ無意識です。その存在は子供に対する支配的態度から容易にうかがえるのですが,Mさんにはそういう自覚もありません。それを明確化,直面化させようとしても,するりと交わされてしまいます。仮に無理にそれを迫るとすると,激しい怒りが噴出する怖れがあります。治療関係の破綻はもとより,自我の崩壊をもたらす怖れもあります。Nさんの場合は,逆に絶えず怒りが意識に上り,Nさんを苦しめます。

両者ともに怒りのエネルギーが大きいと考えられますが,怒りは自我が本来の機能を果たしているときには問題になることはありません。怒りの布置は自我の機能が弱体化している証拠なのです。それは分別のある人の怒りも同様です。思わず怒りを顕わにして,周囲の者にもその理由が十分に分かるとしても,自我がうまく機能しない隙をついて怒りが顕わになったのです。いかなる場合でも決して怒りを表さない人格円満な人は,自我の機能が常に安定しているのでしょう。

Mさんの自我は怒りを強く抑圧しているために,無意識からの圧力にひたすら耐えることで精一杯のように見えます。Nさんの自我は怒りを含む影の分身たち(黒い子)に取り囲まれ,支配されているように見えます。両者に共通しているのは,それぞれの自我が自立性と自由とに欠け,引き受ける能力を失っていることです。

無意識界に大きな勢力となっていたと思われる負の分身たちによって,Mさんの自我は固化され傀儡化されていたと考えられますが,Mさんが急性精神病状態に陥ったとき,潜勢力のエネルギーがついに自我の耐用力を凌駕して崩壊させたと思われます。このとき崩壊しつつも,自我は二つの対案を示しているように見えます。一つは置かれている客観的な状況から逃れて自由になること,もう一つは義弟は実は学歴を詐称していて留学はしていないと合理化することです。両者共に自我が無意識の力をある意味で利用しているともいえます。

しかし崩壊に瀕している自我には,現状況を再建的に克服する力を示すことはできず,非現実的で,機能を失っていることが明らかになるばかりであることに変わりはありません。

自我が機能を発揮するとき,生の方向にエネルギーが動きます。何らかの活力のある現実策が展開されるのです。そして機能を発揮できないとき,死の方向にエネルギーが動きます。Mさんの場合は,悪夢となって表れたように,暴力と無秩序のカオスの世界に突き進むしかなく,あるいは実の妹にあらぬ疑いをかけることにより,姉妹の関係を破壊するしかなく,それらはいずれもMさんを自滅の方向に向かわせるものです。

Nさんについてはどうでしょうか?

Nさんの生活状況は,むしろ恵まれたものです。夫と小学生の子供との3人家族ですが,夫は特に不理解でもなく,自分本位ということもないようです。何かと不調を訴える妻を,夫は病気というよりは性格の問題とみていたようで,突き放すような態度があったようですが,Nさんが精神病状態に陥った時には,よく世話を焼いてくれています。会社員としては高収入ではないかと思われ,経済問題もありません。さきほども述べたように,夫の母親はNさんをよく助け,嫁姑問題については大変恵まれています。

Nさんは一日の家事の手順に,強いこだわりがます。そのために絶えず時間に追われ焦っています。掃除,洗濯,買い物など,すべて決められた時間に済ませたいのです。夕食を作る時間,子供を入浴させる時間,食事させる時間,寝かせる時間なども然りです。そこへ夫から電話が入り,迎えの車を頼まれたりすると,それらが乱されることになります。夫はゴルフ好きで,休日には出かけることが多いのは仕方がないとしても,車を持っていかれるのが不便です。そういうことでも小競り合いが絶えず,日常的に波風が立っているのは確かです。それらのことは家族関係に起因するというよりは,Nさんの性格的特性に端を発しているといわなければならないようです。言葉を換えると,会社の仕事がある夫にもストレスの解消策が必要でしょうし,もっと奥さんの身にもなってと要求するとすれば,夫のストレスが更に高くなる危険があります。

Nさんによれば,夫は,「お前のは病気でないよ・・・」としばしばいっているようです。それは言外で性格の問題だといっているのでしょう。それに間違いはないのです。Nさんが性格を変えて行くつもりにならなければ,繰り返されている発病に歯止めをかけられません。

先にも述べたように,Nさんの治療者への姿勢は,「治してください」というものです。これは他を当てにする以上に,問題の一切を外部に預けることになります。これは外科医の治療を求めるのとおなじです。心の問題は,どんな医者であれ,「外側から治す」のは不可能です。Nさんの心の問題はNさんにしか分かり得ないのは,いうまでもないことです。そのことをどうしても理解できないNさんの心は,それ自体がどこか病的といってよいでしょう。心の病気の治療には,{頭が良い」ことが決定力を握っていますが,それは知能の良し悪しの問題ではありません。

Nさんが取るべき望ましい姿勢は,「これは私が引き受けるべき問題ですが,どう考えていけばよいのか見当がつきません。このことに治療者として協力してもらえますか?」といったことです。このような心の姿勢になれることが,心理治療の上では「頭がいい」ということになります。やはり問題は引き受ける精神に行き着きます。一般に,引き受ける精神になれる人が,「頭がいい」と言い換えても間違いではないでしょう。

この意味では残念ながらNさんは,心が硬かった,固化した自我の下にあった,といえます。

Nさんの自我を固化させていた主役は怒りです。Mさんの場合も同様ですが,Mさんの自我は怒りをひたすら封じ込め,表面では,「親に逆らわない良い子」というのが意識の構えです。自我が影の分身たちを引き受ける気配を見せないので,影のものたちからすると救いがありません。それで影の者たちの怒りのエネルギーは無視し難いものになってたと思われ,自我は必然的にその圧力を受けつづけています。そしてそのエネルギーのはけ口が娘に向かったことになったのです。怒りを込めた黒い分身たちを引き受ける気のない自我は,娘に問題を転嫁しようとしました。仮にそれが上首尾に運んだとすると,得られたのは黒い満足ということになります。そして娘はその犠牲者に供されることになります。

NさんはMさんとは逆に,怒りを両親に向けつづけました。義母に模範的な良い母親像を見出した一方では,まるで義母が焚きつけたかのように実の母親(父親にも)への怒りが収まりません。Nさんの自我が引き受ける精神を機能させていれば,事情は変わっていたでしょう。そのときには義母の優しさによって得られる満足は,自我が獲得した白い満足ということになるのです。ところが自我が引き受ける意志を持てないままでの義母の優しさは,Nさんの実の親への怒りを助長させることになりました。その黒い分身たちの怒りは,Nさんの自我が黒い分身たちを生み出した原状況である幼い時代の親子関係に問題が持ち込まれ,実父母への怒り,攻撃がとどまることがないのです。

Nさんの固化した自我は,日常の問題に対応できずに機能的崩壊(精神病の発病)を何度か来たしました。その度に夫の優しさ,頼もしさを経験しました。結果的にそれは夫を試すことになりました。うがち過ぎかもしれませんが,発病は,自我が夫の力を図る無意図的意図の一面もなくはなかったかもしれません。何度も離婚問題が取りざたされながら高を括っていたといい,しかし,「今度はヤバイと思った」と笑顔交じりでいうNさんの様子から,そういう印象も持つのです。自我が,「今こそ引き受ける気にならなければ離婚はあり得る」と踏んだともいえ,それが,自我が自律性と自由とを回復させるきっかけになったと思われるのです。それはMさんの自我が,動かし難い夫と娘の独立性によって,(ある意味であきらめて)自律と自由とを回復させたように見えるのと似ています。

(このあたりのことに共通するものとして,50代の主婦の例を上げておきます。この方は,幼いころから気分や行動が乱調だった息子さんの世話をやいてきました。ところが息子さんが,心霊的なあるセミナーで知り合った女性と懇意になり,いわゆる洗脳された気配になりました。そして,突然,激しい別離の言葉を浴びせられ,息子さんは家を出て行きました。連絡は一方的な形で金銭等の依頼があるものの,母親から連絡を取ることはできません。それから年余の歳月が経っております。夫は以前からそうであったように,連夜のように飲酒して深夜に帰宅します。夫のサポートもなく,孤独感と寂しさに悩まされておりました。そういう折に,老いた母親の入院の知らせを受けました。高齢なので覚悟はできていました,「しっかりしなくちゃ」と思いました。それを機に,本当にしっかりして心が屈することがなくなっております)

エネルギー論的に見ていくと,自我と無意識との関係は次のように考えられます。

自我は海のような無意識から浮かび出てくる小島のように見えます。生まれて間もなくは,代理自我ともいえる母親の全面的な助けを必要とします。母親の愛と信頼とに助けられて,赤ん坊はしだいに自分に固有の小島が大海のただ中に生み出ていく喜びを,大きな不安を持ちながらも知っていきます。それは母親が与えてくれた愛と信頼とを,赤ん坊自身が自分に与えることでもあり,同時にそれは母親への愛と信頼との印でもあります。やがて生まれつつある小島が自分のものであり,それを経営していく喜びが将来を保証しているように感じられます。いつか囲んでいる大海が怖れるに足らないもののように思われていきます。そして,いつか大海は姿を消し,小島は既に小島ではなく,揺るぎない大地の感覚になっていきます。

海は小島を呑み込む怖れを持っていますが,敵対するものではありません。それは母親が護り,助けてくれた大きな力によって,自分の小島を経営していく喜びと自信とが大きくなるにつれ,身についていきます。

海はいつか小島の内部に身を隠します。

このように比喩的に見ていくと(自我や無意識は現象的実体ではないので,我々が通常しているように,見たまま,聞いたまま伝えるというようなわけにはいきません。そういう形に似せて語る以外にないのです),自我が小島を未知なる大地に向けて発展させていくためには,自ら計画を立てるほかに,無限に通じる海のエネルギーの助けが必要です。

どうやら海は二層に分かれているようです。一つは小島に固有の海,もう一つはいわば人類のものであり,いうならば公海です。自我も含めてそれら三者は互いに境を隔て,かつ交流をはかっていると思われます。

これら三層のうち,自我と自我に固有の無意識層とでは,それぞれ一定量のエネルギーが固定されていると思われます。そして公海にあたる無意識のエネルギーは,いわば無限定です。

これら三層のあいだに境界があり,機能的な定めに従ってエネルギーの移動があると思われます。それは日常の心理の動きから推測すると,次のようではないかと思われます。

自我が使用可能のエネルギーはおおむね一定量と思われます。それは大よそ,自我が無意識層に対して上位に立ち,自由で自律的であるのを保つためです。

何かの行為をするときに,自我は自我固有の無意識に働きかけをして,それに応える形で欲動,あるいは欲求と呼ばれているエネルギーの供与を受けます。それは精神活動の一つの形式となり,必要に応じてパターン化して活動します。それが意志と呼ばれているものです。このときに自我に向けて,自我に固有の無意識から一定のエネルギーが移動します。自我が本来的な機能を果たせば,自我の子ともいえる欲求を護りとおすことができます。それは一定の満足感となり,供与されたエネルギーが適正に消費されたことになります。そして自我の機能の自由と自律性とが護られ,自我は活気のある状態を保つことができます。それに伴い自我に固有の無意識層に向けて,消費されたエネルギーが公海に当たる無意識層から補給されます。これら三層の一方向的なエネルギーの移動が起こっているかぎり,精神状態は健全です。

このことを,母親に甘える子を例にして見てみると次のようになります。

母親の助けによって甘えることができた場合は,幼い子の心の親である自我が,生まれてきた心の子である甘える欲求を護ることができたことになります。甘えを満たすことができたのは,母親によってというよりは幼い心の親である自我によってです。当然,母親の助けはなくてはならないものです。本来の役目を果たすことができた幼い子の自我は,エネルギーを蓄えて生まれてきた心の子である甘える欲求から,そのエネルギーを受け取ることになります。そのときに甘えが満たされた満足感を味わうことができます。その満足感は,母親から愛されている,信頼されているという喜びと共にあり,自分が価値ある存在であるという喜びと共にあるのです。そしてそのような体験を重ね,自信を得た幼い自我は,次々と生まれてくる欲求を押し殺さずに護り通そうとすると意志を持つことになるでしょう。それは自我の成長であり,活気のある自己の育成につながります。自我がエネルギーをうまく消費し,無意識の海から自我へと向けたエネルギーの移動が,滞りなく進んでいることになります。

一方,母親に甘えるのが難しい何らかの状況で甘えを断念したとき,次のようになると推測できます。

幼い自我は,心の海から生まれ出てきた自然のものである欲求(白い子)を護れず,見捨てることになります(黒い子を生み出す)。このとき自我は移動してきたエネルギーをもう一度押し返すことになります。それは自我が,生まれてきた欲求が蓄えているエネルギーを受け取ることができないばかりか,逆にそのエネルギーを自我に固有の無意識層に押し返すことによって,反自我の勢力(黒い子たち)を作り出すことになります。それに伴って,自我へと向う無意識層からのエネルギーの流れに,混乱と停滞が惹き起こされます。

そのようにして自我は不活性化し,かつ無意識層にある黒い子のエネルギーである怒りの圧力を受けることになり,二重に自我の活動を鈍らせることになります。

治療的な関わりが必要になるのは,以上のように自我の負債が増大したときといえます。治療的な介入がうまく進み,再び活性化しはじめた自我によって,黒い子の存在が改めて認められ,受け入れられるようになれば,それは既に黒い子ではなく,自我へと向けたエネルギーの移動が正常化することになります。

上に述べたことを別のいい方をすれば,次のようになります。

心には表舞台と裏舞台とがあります。表舞台には自我が仕事をした成果が乗せられ,生きる方向を指向しています。裏舞台には自我によって受け入れを拒否されたものが乗せられています。それら受け入れを拒まれた影の分身たちは,本来は自然のものであり,理不尽な目に合わされていることになります。また,人が人として生を開拓していく拠り所である自我が受け入れを拒否し,表舞台に上げるのを拒んだのですから,それは死の宣告に等しい意味があります。つまりそのようにして裏舞台に回された影の分身たちが志向するのは生ではなく,従って死ということになります。そのようなことが起きるのは,自我が機能する上で他者との関係を不可欠なものとしているからです。他者の助けがなければ,とりわけ幼い自我は立ち行くことができません。そして他者の助けは,幼い自我が真に必要としているものとは異なる宿命の下にあります。そのような事情から,自我の不始末(影の分身たちを心の裏舞台に回してしまう)が雪だるま式に拡大してしまうのは,多かれ少なかれ避けられません。自分を助けてくれるはずの他者によって,自我が不始末をはたらくのを余儀なくされ,結果として他者によって心が貧困化していくことは,大いにあり得ることといえます。

これら裏舞台の分身たちは死を志向するので,その勢力を一定程度以上作り出した自我は,作り出したことの不甲斐なさで力を衰弱させることに加えて,作り出された影の分身たちに取り囲まれ,支配を受けることになるかもしれません。そうなると主体性を失った自我の機能は固化して本来の生を志向する働きが鈍くなり,心全体が死の影に覆われることにもなるのです。

「死にたい」,「死んだ方がましだ」と考えるのは,自我が受け入れを拒否した心の分身たちの支配を受け,自由と自律性とを失ったことの表れです。

自我は,敢えて心の親であると意志的に意識する必要と責任とがあります。親であればこういう折に,「一緒に死のう」ではなく,「一緒に死ぬわけにはいかないよ,いまは助けてあげる力がないけれど,そのうちに助けてあげることができるようになるから・・・」というべきです。

このように心の裏舞台にある分身たちに言明するのは意味のあることです。そもそも自我の本分は,自己と人生とを引き受けることであり,いかに生きるかというところにあります。死を引き受けることはあっても,死を選択する余地は自我にはないのです。その本分に立ち返って,死への要求を排除していくことは,理にかなったことです。

ちなみに精神医療では,患者さんが死にたがっているときに,「死なないと約束してください」と提起するのが治療者が試みる定石です。その約束は,自殺を防ぐ有効性を持っています。この場合,衰弱している病者の自我を,治療者の自我が代理して補っているといえるでしょう。

なにはともあれ心の問題に解決が求められたときに,自我の介入が必須です。怒りは裏の自我に仕えるものです。

何であれ行為するときは意志に基づきます。意志は自我が相応する欲求(欲動)に呼びかけ,欲求が無意識の領域から生まれて来ることで成立します。その欲求はエネルギーを蓄えており,自我と協調して行為の達成を図ります。自我がしっかりと欲求を護り,励ますことができていれば,自我は活性化され意欲的に取り組むことになります。それは自我の呼びかけと相応する欲求の生起とが,いわば阿吽の呼吸の関係にあることになり,自由な機能が活発である自我の下に,次なる行為が速やかに展開され易い状況であるといえます。

一方,挫折を繰り返してきた自我は,呼び出した欲求を中途で無意識界に追い返すことを繰り返すことになります。自我によって見捨てられた形の欲求は,エネルギーを蓄えたまま生まれてきた心の海に押し返されて,いわば黒い子となります。それらは怒りと共にあります。自我に反逆するものとなり,死への志向を持つことになります。

以上のことを心の全体の整合性において考えると,以下のように描くことが可能ではないかと思います。

まず心の真の主体は何かという問題があります。意識的心の主体は自我と呼ばれています。自我は人間的なあらゆる営みの中心です。自我は意識活動の拠り所で,意識が及ぶかぎり知性的理解が精密に行われることができます。それが極限にまで推し進められたのが自然科学的なアプローチです。自然科学的達成に関しては,人は一切の上位に立つ支配者です。しかしながら自然科学以外の科学については,簡単ではなくなります。たとえば人の心理に関する学問は,自然科学のようには一様でありません。自然科学の威力は,意識の光が隈なく行き渡るので,ほぼ完璧に因果律的な論理の下に対象を従えることができることです。そしてその限界は,物的な対象に厳密に限られるところにあります。心理学は当然その範疇に収まりません。そこでは意識の光が隈なく及ぶことができないものを対象とします。つまり生きている全体を合理的に理解しようとすれば,意識の光が届き得ないものをも対象化することになり,その対象には無意識のものが入り込んでいることになります。ところで無意識と合理性とは全く相容れない関係にあります。合理的理解は意識化が可能であるのが前提になるからです。自然科学は合理的理解の究極のものであるので,心の科学もそれを援用することになりますが,意識が物的な実体として捉えることが不可能であるものを飛び越える形で,意識を繋ぎ合わせることになります。ですから推理や仮説は不可欠になります。仮説は物的な実体に凝らして行われるしかありません。

このように,そしていうまでもなく意識可能の世界が心の全体ではありません。つまり無意識の世界があり,これを大海になぞらえると,意識の世界は大海に浮かぶ小舟の船頭以上に頼りなげです。というよりは両者はそもそもそうした比較が不可能なのです。

心には無意識の世界があるのは疑えません。しかし意識の光が及ぶのはそこまでです。「それは疑いもなく存在する。しかしどのような様態で存在するのかは不可知である」ということになります。

意識できないものの存在を何故意識できるのかといえば,意識の光が届く世界が有限であるのが明らかだからです。しかしどこまでと限定すること自体が不可能です。たとえば100メートル走の世界記録を考えてみると,人間の能力に限界があるのは疑いありません。しかし世界新記録が限界に到達することもないでしょう。それは必ず新たな記録で破られるためにあるようなものです。それでも5秒以内で走るのは不可能に違いありません。「限界は必ずある。しかし人間の能力でそれをあらかじめ知るのは不可能である」ということになります。明らかにある限界に向けて,無限に近づくというのが実際です。このように明らかな有限性の中にも無限性が入り込んでいるのです。

つまり有限性は無限性があって初めて成り立つのです。そしてその両者のどちらが上位にあるかは論を待ちません。

そのことを定式化していえば,「我々は人間のことを意識できるかぎりで知っている。そのかぎりで人間は一切である。その拠り所を自我と呼んでいるが,それでは自我は何に拠っているのか?そのことを意識が捉えることは不可能である。しかし自我が存在する以上はそれをあらしめた存在もまた存在しているのは明らかである。その存在が自我の上位にあるのは論を待たない」ということになります。

自然科学の呪縛の下にあると,例えば,「死は一切の消滅である。それ以上の存在仮説を弄ぶのは愚かなことである」と考えます。しかしこの考えもまた,自然科学に論拠を置いた仮説に過ぎません。死の問題には無の問題があり,全の問題があります。それは無意識に通じるものでもあります。これらの問題が厳然としてあるかぎり,人はそれを問わなければ生きている全体を問うことができません。「死は無である。ただそれだけのことだ。それ以上のことを考えるのは無意味なことだ」と悟りすますのは,一見は謙遜に見えます。しかし真の謙遜は,自分の上位者の存在を認めることです。そうであれば,「死について,身体が無に帰する以上のことは,私には何も分からない」となるべきです。そしてその留保の態度が謙遜であるとすれば,暗黙の内に「何も分からないものの存在」を認めていることになるのです。「私には何も分からないのだから,それは存在しないということだ」といっているに等しい唯物論者の論は,粗暴に過ぎるというべきでしょう。

ここでその上位者を,内在する主体と呼んでおきます。この主体が心全体の上位者であり,統括者です。それは自我という有限の能力からは無限のものです。

自我という限定されたものには,それ自体を養う力はありません。言葉を換えると,自我が有限体である以上は,自我が抱えるエネルギーは有限のものです。つまり他から補給されなければ枯渇することになり,他というのは無意識の世界以外にはありません。このエネルギーは行動(行為)に伴ってもたらされると考えられます。何か行動(行為)を起こすとき,自我は計画を立てます。そして行動のエネルギーをもたらすものを呼び出す必要があります。その呼びかけに応じて内在する主体が,エネルギーを抱えた,いうならば神の子を送り出してきます。神の子は自然から生まれたばかりの無垢のものです。いわば白い子です。大変傷つき易くもあるでしょう。

呼び出した神の子を自我は護る義務があります。それは何といっても神の子で,送り出した子を自我がどのように扱うか,主体は見守っているともいえるでしょう(それぞれの個はどのように生きようが自由でしょうか。地獄化する人生があります。創造的な人生を送る人があります。それぞれの個が自分らしく生きていくのは,誰もが等しく願っていることではないでしょうか。それがどのようにしてというのが困難なのです。それを予め知っている人はいないというべきでしょう。しかしながら道を間違えると人生は地獄化します。やはり道はあるのです。我々には予め分からないが,それぞれの道は必ずあるということになるのだと思います。そうであればそれを知っているのは自我の上位者以外にはありません。自分らしく人格形成をしていく上での青写真は,主体にあると考えることができると思います。我々は手探りで自分の筋を辿っていくことになりますが,それは送り出された神の子を自我がどのように扱うかにかかっているように思われます。そしてその筋を曲げざるを得なくなり,自己を見失うことになる最大の理由は,他者との関係を必須のものとしているところにあります。換言すると他者の介入にあります)。

自我が神の子をどのように護るかといえば,目的(希望)に向って進む上での欠かせないパートナーですから,第一に呼びかけに応じてくれたことを感謝すること,そして第二に共に行動することを喜ぶことによってです。その行動のあいだ他のことに気をとられるようであれば,白い子は傷つくと考えるべきです。それで首尾よく目的を果たせば(自我が白い子を守り通せば),自我は白い子が抱えていたエネルギーを受け取ることになります。そのように逐一の行動を通じて,自我はエネルギーの補給を受けていると考えられます。

仮に予定された行動が,気が変わって取り止めになると,求めに応じた神の子は無用のものとされます。捨てられた神の子は怒りでいわば黒い子になります。自我に渡されることがなかったエネルギーを抱えたまま,黒い子は行き先を失います。送り出された主体の元に戻ることはなく,自我の世界の一隅にうずくまることになります。それは自我と無意識との中間領域で,ユングが命名した個人的無意識の世界です。この世界のものは,ふだんは意識の光が届かないので無意識ですが,自我がその気を出せば意識化が可能です。

このようにして元々は神の子であったこの黒い子たちは,悪魔の手先になっていきます。

これら黒い子たちを作り出す自我は,特有の状況でおなじことを繰り返す傾向を持つものです。それで黒い子は雪だるま式に肥大化します。それら黒い子たちの中核にあるのを,仮定的に裏の自我と呼んでおきます。

黒い子たちの抱えている怒りのエネルギーは自我に見捨てられたことによるので,怒りは,本来,自我に向けられたものです。それを受け止める気勢を示さない自我が,そもそも黒い子たちを作り出してきたのです。そういうときには,表の自我が裏の自我に支配されたまま無力でいるので,怒りは外的な状況に向けられるのです。黒い子をおびただしく作り出した自我の下では,人生そのものが面白くなく,道で石につまずくと腹を立てて石を蹴飛ばしたりといったことになります。

機能を回復した自我が与えられた使命をめざましく果たすことになれば,自我は裏の自我に仕える怒りのエネルギーを引き上げ,生へのエネルギーに転換する可能性があります。表の自我が力を回復させると精神のエネルギーは自我に集まり,力が衰弱すると,精神のエネルギーは裏の自我の方へ移行し,怒りを蓄えることになります。精神のエネルギーは無定形であり,生(光)への方向と死(闇)への方向といずれのものにも姿を換えるもののようです。一切を破壊するほどに蓄積された怒りは,死そのものと一体化します。死は一切の破壊であり,心の裏舞台の首座にあると考えられます。

Rさんの例で見れば,分身たちを抑圧しつづけてきた自我は,母親の自我の支配を受け,母親との共犯関係に囚われていました。その様子があるとき変わり,母親に怒りを向けることになりました。それはRさんの自我が母親の自我から距離を取り始めることに伴って起こったことです。それは同時に影の分身たちの存在に目を向け始めたことを意味します。母親の自我にへばりつくように依存していたRさんの自我は,おびただしく黒い子を作り出すことが避けられなかったはずです。そして怒りが意識に上ってきたことは,自我が本分に目覚める力を回復した兆しが表に表れたことを意味します。しかしまだ十分に機能を回復していないRさんの自我は,強力な怒りのエネルギーを蓄えている影の分身たちに捉えられたということができます。自我が機能を回復した分,母親から離れる自由を得たものの,今度は分身たちに捕捉されてしまったのです。その分身たちは,母親と共犯関係にあるあいだに,自我が心の表舞台に乗せることを拒否し,見捨ててきた(死の宣告に等しい扱いになります)ものたちです。

そのような局面を向えて,Rさんは大変困難な状況に身を置くことになったといえます。母親の自我の代わりに影の分身たちの支配を受けるかぎり,自我は傀儡の立場であることを免れません。それは死を賭した自立の希求という意味を持ちますが,自我が影の分身たちの上位に立ち,自由と自立とを確かめることができるまでは,自傷,自死を含めたあらゆる黒い満足の危険の只中にあることになります。いつか気がつくと自我が上位に立ち,影の分身たちの支配から自由になることができるでしょう,しかし裏の自我が蓄えていた怒りのエネルギーの総量は大きなものと予測され,自我によるそのエネルギーの回収作業はゆっくりとしたものである必要があります。慎重を欠けば,自我が粉砕される怖れがあるからです。その後の人生上の節目において,自我が衰弱するときもあるに違いなく,その度に分身たちのエネルギーが活発化して気分が不安定になり,あるいは屈するときもあることでしょう。それでもめげずにいるかぎり,やがて自我は引き受ける力を回復するでしょう。

怒りは身を守るものでもあり,身を滅ぼすものでもあります。身を守る怒りは,自我の後ろ盾を必要とします。身を滅ぼす怒りは,自我のそれを欠いています。

怒りは他者との関係,あるいは自己自身との関係を破壊しようとするものです。自我によって正当に支えられた怒りが他者に向かうのは適応的で,自己を護り,助けようとするものです。自我の支えを欠いた怒りが他者に向かうとき,対人関係を損なう危険が高まります。また自我の支えを欠いた怒りが自己自身に向かうとき,心と身体の健康を損ねる理由になります。

ある小学生は,夜,寝るときに,母親がいなくなる恐怖で眠れなくなります。母親が死ぬのではないかという恐れもあります。母親に叱られると,自分は嫌われているのか,可愛がってもらえていないのかと思います。年の離れた弟がいますが,弟ばかりが可愛がられると思い,怒りを覚えます。

弟はまだ1歳半ほどですが,小学生の兄が寝ているときに,いきなり頭を叩くなどします。小学生は,みんながいる居間で寝たいのですが,危険な弟がいるので,仕方なく別室で一人で寝ます。弟は宵っ張りで,夜中の1時ごろまで起きています。兄は不安と不満と怒りを胸に,眠りに入れません。兄も弟に仕返しをしたいのですが,なんといっても1歳半なので我慢するしかありません。学校から帰ると笑顔を向けてくる弟が,可愛くもあるのです。

この子は,率直な様子で話をする明るくも見える性格です。屈折した感じが見られません。「そうなんだよ,腹が立ってたまらないんだよ」といわば明るく怒りを表現します。怒りを露わにするという感じではありません。しかしそれらは表面のことで,心の裏面は明るいはずはなく,相当に深刻だと思います。明るく語る表情の裏には,はちきれんばかりの口惜しさがうかがわれます。

この明るく表現する怒りは,少年の自我の精一杯の努力といえるようです。自我が成熟している大人であれば,自我の精一杯の仕事はそれだけで十分に報われる意味を持ちます。しかし年齢が幼すぎるために自我が未成熟であるあいだは,幼い自我の仕事は親の支えによって報われる必要があります。両親の姿勢から,少年の怒りはいかにももっともなものなのです。それだけに少年の自我がしている精一杯の努力は,両親によって受け止められる見込みがなく,無効化されるのです。自我の精一杯の仕事によっても報われることがないので怒りが溜まり,心の潜勢力になります。その内向する怒りが,チックや不慮の災害への過剰の恐れという問題を引き起こしているのです。

怒りが心に充満し,母親の死を願うことさえあるようです。そういう怒りを持つために,母親が自分を捨ててしまうのではないかと恐れているのです。通学路の行き帰りに,変質者に連れ去られる不安を持っていますが,変質者は怒り(自分が母親へ向けた,あるいは母親が自分に向けた)の投影でもあると思われます。

母親によれば夜鳴きの激しい子だったそうです。

この子の怒りが母親に向けられたとき,もっと自分に愛情を向けてほしいという欲求を従えています。それは正当な要求であり,自我の仕事に基づくものといえます。そのとき怒りは満たされない欲求の従者でもあり,護衛でもあります。

しかしほどほどにしないと危険です。母の怒りの反撃に遭うかもしれませんし,場合によっては怒りが母との関係そのものを破壊するかもしれません。

親との関係の改善をもとめ,身を守るために怒りが表現されていますが,少年への優しさが足りないように見受けられる両親は,その意味を知ろうとしないのです。自我は本来の働きを精一杯しているのに,それが無効であるのは恐るべき現実です。子にとって,その存在を正当に認めようとしない親の下にあるのは,この上もなく残酷なことです。幼い自我の仕事は,親の支持がなければ無効になるのです。意識下の分身たちにとっては,自我が無力であるのと区別がつかないのです。業を煮やした分身たちの護衛である怒りが,実力行使に走り,心身の症状をもたらしているといえるでしょう。

親子の関係,特に乳幼児期の関係は,性格形成に決定的な意味を持ちます。幼い子の自我は,親との関係を通じて自分の仕事の意味を確かめていきます。生まれて間もないあいだの幼い自我は,身体的,生物学的な欲求の充足をもとめます。自我の仕事であるそれらの要求を,母親が満たして上げることが必要不可欠ですが,本当は満たしているのは母親ではなく,幼い自我が自分の仕事の有効性を母親を通じて確かめているのです。母親のサポートが得られたときに,幼い自我は大いに満足し,それを母親と分かち合うことになります。ここに自我の重要な役目である満足の追求と,母なる他者との関係が良きものであることとが,分かち難い関係の中で確かめられたことになります。このような母子関係の下では,自我は安定した機能活動に確信を持つことができます。逆に母親のサポートが不十分であれば,赤ん坊の自我は混乱することになります。

このように,親に感謝をする理由も,不満や怒りを持つ理由も,恐れる理由も,かなりの程度に親しだいです。

幼い子の怒りは,親のサポートが不適切であるという表明であり,改めて適切に対処して欲しいという合図です。

怒りをあらわにする子に対しては,親が真剣に取り組まざるを得ないだけに,解決に向けた努力が払われ易いといえます(体質的に怒りの度が過ぎる場合もありますので,うまくいくかどうかは一概にいえませんが)が,怒りを表に現さず,従順に見える子は,その傾向が災いして周囲の大人たちも問題視し難くなりがちです。表の従順は裏の不従順の表れであるとすれば,それは親を恐れる心からであると知っておく必要があります。

親に従順な子の場合,その親密さは見せかけのものであり,欲求の不充足感と怒りとを幼い自我が抑圧している可能性があるのです。そうであれば性格形成の上で難点を残すことになります。親としてもそれで満足したり,場合によっては子供のそういう傾向に乗じたりするのですが,子供の心には,抑圧が生み出した影の勢力が増大している可能性のことを考えなければなりません。

後々,心に障害が生じて医療の介入が必要になったときに,怒りは問題の在り処を指し示すセンサーのような役目を果たします。この感情に注目することで,隠蔽されていた負の体験を明らかすることが可能です。怒りの所在に注目することは,心の障害を取り除く上でも重要なものです。

心の障害を,治療者が親子の関係の側面から見る必要は大いにあり,それは鉄則であるといっても間違いではありません。

親子の関係を問題にするにせよ,しないにせよ,目的とするところは,障害をかかえている本人の利益にあるのはいうまでもありません。それはその母親,父親についても同様で,親子関係に問題があるのではないかと疑われるのは親の立場では不愉快でしょうが,親に対しても利益が還元されないはずがありません。障害を受けている子供だけがその利益を受け,親はそうではないなどということはあり得ないことです。もしそう考えて不快に思う親があるとすれば,それは親としては大いに問題であることを自ずから示していることになるでしょう。

残念ながら,この種の問題提起に,不快,不満を持つ親は少なくないどころではありません。むしろ一般だといっても過言ではありません。

明快な拒否感を持つ親は,そもそも治療者の前に現われることがありません。一見は協力的な場合でも,問題の根にまで理解を深めることは容易ではありません。親子が負の依存でつながっているからだと思います。親子の負の依存関係は,元はといえば親の側に,自我が処理し切れなかった負債ともいえる分身を意識下に蓄えていることによる可能性があります。それらの分身が要求するものを,自我が引き受けなければならないのですが,引き受けない(弱い)自我が他によって分身の不満を満たさせようとするのです。そのような自我の下にある母親にとって,赤ん坊は恰好の相手になります。赤ん坊は母親にとってはある時期まで自分の一部のように相互に密着した関係にありますので,意識的にか無意識的にか赤ん坊が自分を助けるように仕向けることが可能です。そのようなことが母親に起こりやすいのは,赤ん坊に対して特権的な立場にあるからです。ですから無自覚でいると,母親は赤ん坊に依存し,赤ん坊を助けるよりは自分を助けるように仕向けることになりやすいのです。母親が抱える意識下の負債が大きければ大きいほどこのようなことになりがちで,その依存の対象にされた赤ん坊もまた,自我の自律性が損なわれて,いずれ意識下に負債を抱え込まざるを得なくなります。

Wさんは主婦です。子供はいません。初診は29歳の夏でした。過呼吸状態で一人では歩けず,父親に背負われての受診でした。一週間ほど微熱がつづき,胃に熱感があり,食べ物を口にすると吐いてしまい,内科で栄養失調といわれていました。

初診の3年ほど前に結婚しました。初診の数日前に,夫婦二人の生活から両親が住む実家へ住居を移しております。父親が,「子供はまだか」と気にするので,「家が狭いから」とかわしたつもりが,実家に引越しをする羽目になってしまいました。父親に家を改造するからといわれると断れなかったのです。Wさんは自分の意見,意志を明確に出来ず,相手がだれであっても,「いやです」といえない性格です。夫が気を使うだろう,自由がなくなり申し訳ないといいますが,その後の経過から,この心配はWさん自身のものでもあるのは明白です。受診の動機となった心身の不調は,この転居と大いに関係があります。

Wさんは一人っ子です。過呼吸発作が始まると,いつも父親が手を握ってくれます。母親は決してそういうことはしません。この一事からもうかがわれるように,母親は母性に問題があるようです。Wさんは,幼いころから母親に罵られながら大きくなりました。何事につけ,役立たず,お前にはできっこないよなど否定的な言葉を投げつけられ,ほめてもらった記憶は皆無です。あんたなんか生まなきゃよかったと何度となくいわれました。赤ちゃんのときお湯を使わせたことがなかったとか,泣いても放っておいたとかわざわざいって聞かせるのです。2歳ほどのとき食べものを喉につまらせて,吐いたものが母親の顔にかかりました。いきなり平手打ちされたのを覚えています。

そのように育てられたのですが,父方祖母(この人には可愛がられました)に母親のことを悪くいわれ,あんなふうになるんじゃないよなどといわれると,おかあさんが好きだと,母親を庇うように心でつぶやきました。母親が身体の具合をわるくしたり,悲しそうな顔をしていたり,そのようなことがしばしばありました。母親を,怖いと思うのと可哀想と思うのと両方の気持ちが交錯するといいます。また両親の仲がわるいので(母親が一方的にののしる),Wさんは意識して笑顔を作っていたといいます。実際,Wさんは笑顔を絶やさない人です。その表情からは推し量れませんが,こんなことをいっていいのかなとつぶやきながら,心の奥に潜んでいる殺意を打ち明けることもあります。対象は母親と夫です。夫のことは尊敬しているし愛してもいるのですが,いつも仕事で帰宅が遅いので,しばしば私がいやなのか,私が負担なのかと気になるのです。しかしながらWさんがそのような激しい心を打ち明けることができたのは,心が回復してきている証拠です。

友達にも,頼まれると断ることができませんでした。常に機嫌よく引き受けてしまいます。しかし自分の問題を客観的に見る力がついてくるにつれ,自分の意志を表すことができるようになってきました。相手がどういう態度に出ようが恐れないという気持が芽生えてきました。これまでの優しさが,見せかけの仮面であったこと,自分がほんとうは怒っていたことに気がついてきました。本当は好き勝手なことばかりいう友人など,友人ではないとひそかに思っていたのです。そういうこともいえるようになってきました。従来は,ひそかにあった怒りは醜い心で,あってはならないことに思えていました。そういう心が自分にあることを意識したくなかったのです。しかしいまは違います。怒るだけの理由があるので優しいふりをする必要がないのも分かってきました。

Wさんは人に優しくしていないと,自分が意地悪に思えて不安になります。しかし意地悪なところがあるとしても,それはそれで受け止めるしかありません。事実は事実です。知らないでいるよりは知っているほうがよほどましです。意地悪なところがない人などあるわけもありません。自分に意地悪なところがあると知っていることが,それを克服するための最良の態度ではないでしょうか。Wさんはそういうことを理解するようになってきています。それにつれて母親に対しても以前のようには気を使わなくなりました。

怒りは重要な感情です。つよいエネルギーをはらんでいるので,怒りが爆発すると人との関係を破壊しかねません。内向すると自分自身を打ち砕きかねません。そういう不安を覚えることは誰にでもあると思います。

怒りのエネルギーが強いと,自分に対しても(重要な)他人に対しても,要求の水準が高くなります。要求が高くなると,望ましいイメージどおりでなければ納得できず,苛立ちを隠せなくなります。

怒りは”心の沼“の守護者のような働きをするように思われます。”沼“は意識が受け入れなかったものの負の集積所といえるでしょう。自我が怒りの活動に応えるときに,怒りが守護者であった意味が現実のものとなります。しかし自我が怒りに対して恐れをなすようであれば,怒りは黄泉路の国からの使いになりかねません。強い怒りによって機能不全化された自我は,心全体の指揮を取り,自己を指導する資格がないのです。

負の活動は生まれたときからはじまります。思えば誕生という祝福されるはずの出来事が,そもそも負の体験そのものである節があります。母親の胎内という安楽境にまどろんでいるときに,いきなり外へ放り出されるのが出産です。新生児は驚きもし,怒り狂ってもいるようです。児童心理の研究者によってその種の指摘がされています。

赤ちゃんは安楽境に匹敵する大安心,大満足を要求して猛り立ち,時には満ち足りた気分にもなり,そういうことを繰り返しながら母親に助けられて,しだいに現実的な,ほどほどの満足を受け入れていくことになります。

人間の誕生は自我の授与でもあります。人間の人間たるゆえんは,自我に拠るということです。

自我は人間自身が自分の力で身につけたものではあり得ません。生まれるときに備えられたものです。それを授けたのは誰かといえば,あまりに人間的な問いということになるでしょう。しかしながらそれは不可知の力によって,人知のおよばない力によってというのは明らかです。その超越的な力を表す主体は,無意識の世界に内在して自我の後ろ盾になっていると仮定的に考えることができます。

それは科学的という観点から実証不能ということで,荒唐無稽であると考えることも可能でしょう。しかし歴然として人知を超えたものの存在をどう扱えばよいのでしょう。それは科学では証明できないから留保するしかないというのであれば,それはそれでよいでしょう。しかしそうした留保は,超越的なものの存在を認める姿勢と何ら変わりがありません。

また科学的に証明できるもの以外は認められないというのであれば,それは科学至上主義ということになります。いわば科学ないしは人間の理性を,最上位に据えることに他なりません。これがいかに謙遜を欠いた態度であるかは,地球環境をまるごと危機に追いやった現実を見れば明らかです。自我に拠る人間は,その上位に立つものの存在を認め,怖れを知るべきです。

このように考えると,自我に拠る人間の存在理由は,自我を授与した超越者の意志を引き受けるものということになります。

かつてソクラテスが実践したのは,このことでした。彼は神の助手を自認し,神の意志(彼によれば子供のころから,鬼人か何かからの合図があるといい,何事かに心を奪われ,没入する様子があったといいます。その様子は,彼を信奉する人にも神秘的,奇異と映ったようです。現代の科学万能の時代であれば,ソクラテスは幻聴に聞き入っていたということになりかねません。また時代が違うと一蹴されてしまいかねませんが,それはソクラテスを時代の迷妄の産物といってのけるのに等しいことです。人間を取り巻く状況は,今も昔もおなじです。ソクラテス的な神が,現代においてどのように扱われるかは重要です。その存在の実体が何であるかは,今も昔も,我々人間の認識能力を超えたものであることに変わりがありません)をアテナイ市民に伝えるのを使命としていました。ソクラテスの愛知というのは,神命を引き受ける精神というところに行き着きます。

それにしても,大満足をあきらめて小満足に甘んじる仕方を習得していくのが人生だとすれば,一体人間とはなんなのでしょうか。幸福の追求とはなんなのでしょう。

この問いに答えるには,幸いにして人の心には無意識という広大で,不可知な世界があるというところに行き着くでしょう。この世界も人間の持ち物です。そしてソクラテス的な神は,いわば主体として無意識の領域に内在すると考えることが可能です。それは自我に拠る人間に,測りがたい力を秘めた後ろ盾となっていると考えてよいように思われます。

赤ちゃんの大安心,大満足の現実の提供者は,主に母親です。自然な母性に従う母親は,赤ん坊に一体化して没入することでそれに応えているのです。そして母親にできるのは,大安心,大満足の提供ではなく,ほどほどのものでしかないのだということを,身をもって赤ちゃんに教えることです。赤ん坊の心に潜む大安心と大満足への要求とは,母親の胎内にあった充足に匹敵するものの要求と思われるので,この世の現実を生きるためには,ほどほどの満足,ほどほどの安心(安全)に甘んじる必要があると教えることは,何よりも大切なことです。言葉を換えれば,母親の愛情とはこの程度でしかないということを教えることができるのは,豊かな母性のみであるということです。母親がこの役割を良く果たすことができなければ,赤ん坊のこれらへの要求は,約束の不履行の感覚として,意識下にいつまでも残ることになるのです。それはこの世を地獄化する大きな理由になります。

たとえば授乳について,母親は赤ちゃんが望むときにするのではなく,決めた時間にするとき,赤ちゃんの感覚は混乱し,安全感が危うくなるとイギリスのウイニコットという児童精神科医が述べております。たとえていえばこのように,母親は,知識に拠ってではなく,自らの本能的な知恵で育児に当たらなければならないのでしょう。赤ちゃんの人生の生殺与奪の権限が,母親に託されているといっても過言ではないと思います。大きな責任と大きな喜びとが母親に特権的に与えられているといえますが,それを喜び,誇りに思うか,迷惑千万と思うかは,人間の幸福と不幸の問題です。

それはともかく乳幼児の負の体験は,のちのち記憶としてとどまることはないでしょうが,その事実は消滅することはなく,無意識が預かることになると思います。そのようにして,”心の沼“が形成されていくのです。沼を構成するものは,感情の面では,恐れ,おびえ,寂しさ,虚無感,抑うつ感,疎外感,孤独感などで,またそれらの感情の基となった体験群であろうと思います。そしてそれらの辛い体験は自ら望んでしたものではなく,押しつけられたと感じたものです。それは理不尽と感じられ,怒りを伴います。これらの問題を捉えて解決に当たるのが自我なのですが,問題が大きすぎると,自我は回避的な態度を取ります。そういうときに,怒りは,”沼”を構成するものの,いわば守護者のような動きをするようで,主君である自我を脅かす勢力になるのです。

母親に叱られたときの乳児の恐怖は,母親が意識するものを超えている場合があります。乳児に愛情と信頼とが十分に伝わっているときには,母親の叱責は彼女の意識するレベルにとどまるでしょう。しかし,彼女が意識する以上の恐ろしさを乳児が感じるとき,それは乳児自身が大きな怒りを持つていたためかもしれません。自分の怒りが母親の上に投影されて,母親が鬼のように恐ろしい顔で怒っていると感じられることはあり得ることです。

あるいは母親が持つ“心の沼”に潜む怒りが,赤ん坊に感じ取られることも起こり得るでしょう。怒りをはらんだ“沼”には元型的なエネルギーが入り込んでいると思います。それは常識的な理解を超えたエネルギーが怒りに蓄えられていることを意味します。そのために場合によっては鬼のような怒りになるのです。

無意識の根底に,動物でいえば本能に相当する心の元型があると,ユング心理学ではいわれております。これは人類の長大な歴史を越え,民族格差を越えて,だれもが経験し,あるいは経験し得るものとして,人から人へ受け継がれてきた普遍的な心理現象の基となっているものです。人が個別的に学習して獲得するための原基となるもの,学習以前の生得的なもの,本能のように刻印されているもの,そういうものが心の深層にあるとユングが確信して,命名したのです。この元型には強力なエネルギーが込められています。

元型の一つに悪元型があります。それは文字通り悪に通じるものですが,一般的には,古い心の体制を破壊して,新しく心の組織をよみがえらせる上で,大切な役割を果たすと考えられております。いわゆる死と再生に関わるのです。この悪元型には怒りのエネルギーが強力に布置されております。この元型が賦活された状態にある人を前にすると,おのずから緊張を強いられるかもしれません。

虚無や孤独や寂しさや恐れなどが,「底なしの」とか,「途方もない」とか,「奈落に落ちるような」とかの言葉で形容されるのが,“沼“を構成する感情の特徴といえます。それらの感情は,人間の言葉では捉えがたい無限定なもの(死にも通じると思います)に触れたために生じているようでもあります。つまり,人間は有限の存在ですが,それら限定できないものに包囲されている存在でもあることを,ふとしたときに感じ取ることがあるものです。

星の群れがきれいに輝いている夜空を見上げるとき,ふとめまいを覚えたことはないでしょうか。そのとき宇宙の無限に触れたといえるかもしれません。そういう折の,途方もない無限感覚が,日常のありふれた体験の中にも入り込むことがあると思います。どこか空恐ろしげな気分に悩まされるとき,”心の沼”が活性化していると考えられます。

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